思いがけぬ楽天地

 丸太を組み合わせて作られた釣り櫓の上からは朝の海が見える。青い空には雲一つなく、水平線の彼方までずっと穏やかな海が続いている。

 俺が持つ釣り竿から伸びる釣り糸の先は、驚くほど澄み渡った海に落ちている。釣り櫓の上から、海底の岩礁や魚たちの姿が見えるほどだ。その海水には一切の混じり気がない様にすら思える。

 登ったばかりの朝日には、昼間のようなひりつく熱さはない。だがしばらくすれば、燦々と降り注ぐ日光は肌を焼くことになるだろう。そうなれば、この釣り櫓には居られない。

 俺はここに来てすっかり赤銅色になった腕の肌を掻いた。ちょっとの日焼けぐらい、大したことはない。しかし、あまり日差しの強い時間帯に外で行動していると、後々エンジェルがうるさいのだ。強い日差しで日射病になるとか、紫外線で皮膚ガンになるだとか。まあ、どうにせよ潮が満ちる前に遠浅の砂浜に建てたこの釣り櫓からは退散しなければならない。それまでに、今日の朝食に足りる魚が取れると良いが。

 俺は釣り竿を握りなおし、深呼吸した。いつもの潮の香りが肺に満ちるのを感じた。


 どこに住むかってのは人生において重要なことで、心休まる土地に辿り着けるのは何より幸せなことだろう。ずっと昔のご先祖様も、安住の地を目指して地球中に散っていき、やがて惑星の外にまで飛び出した。月、火星、エウロパ、ガニメデ……

 人類はその生存圏レーベンスラウムを太陽系の隅々まで広げようとしているが、未だ安住の地は見つけられていないようだった。


 俺はあの日、地球に向かう護送宇宙船に乗っていた。エンジェル0427……死刑囚を運ぶ護送船につけるには中々気の利いた名前だ。

 俺は死刑囚だった。でも悪党じゃない。いや、確かに盗みや不法侵入ぐらいはやったことがあるが、殺される程の悪党じゃないって事だ。あれは冤罪だった。

 俺が空き巣の為に家に侵入した時、もう既に家主は死んでいたのだ。頭から血を流して床に倒れている男を見て、俺はハメられたのだと直観した。次の瞬間、警官隊が突入してきて俺は逮捕された。

 裁判はトントン拍子に進んだ。火星駐留の地球政府大使を殺したという事で、俺は第一級謀殺で死刑となり、地球へ移送される事になった。何かの陰謀に巻き込まれたことは明らかだったが、コソ泥の俺にできることは何もなかった。

 エンジェル0427が地球の大気圏に突入し始めた時、ガタガタ震えているのは自分の身体だけではないと知った。船全体が揺れている。明らかな異常振動、鳴り響くアラーム、叫ぶ刑務官……数分の混乱の後、衝撃が俺たちを襲った。

 船が不時着した後、生き残ったのは自分も入れてたったの9人だけだった。刑務官が4人、囚人が5人。囚人たちは脱走の機会を伺っていたが、刑務官たちが武器を持っていたので実行できないでいるようだった。

 囚人たちはしぶしぶ刑務官たちの言う通りに動いた。

 刑務官たちは囚人たちを二つに分けた。船内の調査チームと船外の探査チームだ。俺は探査チームに割り振られた。刑務官2人と囚人が3人、俺たちは船外に出た。そこは浜辺だった。しばらく探索すると、エンジェル0427は島に不時着していることがわかった。歩いて数分で一周できる小島だ。いかにも南国風の島で、ヤシの木が生い茂り、白い砂浜がずっと続いていた。不思議な事に、風がほとんどなかった。刑務官たちが赤道無風帯の島ではないかと話していたが、その時の俺は、何の事だかさっぱりだった。島を一通り歩き回り、無人であることがわかると、俺たちは船に戻った。

 俺たち探査チームが外に出ている間に、機械類に詳しい囚人が船の故障個所を調べ終えていたようだった。動力炉リアクターは生きていたが、推進器スラスターと通信機器が完全にオシャカになっていると言っていた。

 推進器スラスターと通信機器が修理不能だとわかると、船内の雰囲気は一気に悪化した。船員室に集まった刑務官たちと囚人たちは、お互いを口汚く罵りあった。一触即発の気配を感じた俺は怖くなって、こっそりと船員室を逃げ出し、掃除器具用ロッカーに隠れた。

 ロッカーに隠れている内に、疲れもあったのか、いつの間にか俺は眠ってしまっていた。俺が目を覚ました時、船内は異様に静まり返っていた。俺は恐る恐る外に出た。船員室に戻ると、そこには8つの死体があった。俺以外の全員が死んでいたのだ。船員室には彼らがお互いに殺し合った痕跡があった。




 俺が釣りを終え、エンジェル0427の葉巻型の船体の中ほどに立つと、船内に続くハッチがひとりでに開いた。

『おかえりなさい。ビリー。釣果はどうでした?』

 落ち着いた男の声が俺を出迎えた。彼の名は“エンジェル”。このエンジェル0427の制御AIのコンパニオン人格だ。本来、彼らに個別の名前と言うものはない為、エンジェルという名前は俺が勝手につけたものだが。

「ただいま、エンジェル。この通りだ」

 俺は船内に入り、腰に付けた籠――蔦を編んで自作したもの――の中身が、監視カメラから見えるように身を捻った。その籠の中には一匹の魚が入っていた。

『ウスバハギですね。随分、大型の個体ですね」

「そうだろう、大物だ」

『大型のウスバハギは生体濃縮によって毒性を持つ可能性があります。医務室へどうぞ。ウスバハギをスキャンします』

「ええっ?またかよ。腹減ったんだが。早く食わせてくれ」

『ダメです。スキャンします』

 エンジェルは断固とした口調でいった。彼がこうなると説得は無理だ。俺はため息をひとつ吐き、医務室に向かった。


 エンジェルはどうにも過保護な所があった。理由はわかっている。自分の目の前で行われた8人の殺し合いを止められなかったからだ。

 宇宙船の制御AIは当然人間の命を守る様に作られているし、そのコンパニオン人格においてもそうだ。彼らは人死にを許さないような人格に設定されている。

 8人の死を止められなかったという強烈な体験が、過学習オーバートレーニングを引き起こし、エンジェルの人格を不可逆的に捻じ曲げた。

 一人無人島に取り残され、救援が来ることも絶望的になった俺が始めに考えたのは自殺する事だったが、彼は俺が死ぬ事を許さなかった。自らの知識と知性を総動員して、俺を生かそうとした。

 束縛は強めだが、まあ、俺はそのおかげで3年経った今でも生きていられる訳だ。

 結果的には俺にとって、ここは楽園にも近い場所だった。喰うに困って盗みをする必要もないし、肩がぶつかっただけで撃ち殺される心配もない。人口過密の火星都市とは大違いだ。

 元々、環境の悪化や資源の枯渇などで大きく人口を減らしていた地球だったが、人間の経済活動の縮小によって環境は大きく改善されつつあるようだとエンジェルはいっていた。

 海は美しく、空はどこまでも青い。ヤシの木の葉は瑞々しく茂り、砂浜に影を落として複雑な明暗コントラストを作った。火星に居た時に見たことのある生き物はドブネズミやゴキブリ、人間ぐらいだったが、この島には生命が満ちていた。木々の梢には海鳥たちがとまり、浜辺ではフナムシが機敏に走り回っている。

 海の中にはさらに多くの生き物が居た。海底を這い回るヒトデ、ぷかぷかと揺蕩うクラゲ、色とりどりの魚たち……驚くべき生命の多様性。俺が世界だと思っていたものは世界のほんのひとかけらだったと知った。


 俺はエンジェルに従い、医務室のバイオスキャナーで30分かけてウスバハギの毒性分析をした。その後、放射線殺菌をしてから、やっとコックピット横に据えられた簡易キッチンでウスバハギの調理を始めた。メニューは『ウスバハギの刺身とココナッツミルク煮込み』だ。エンジェルによると、これで、一食に必要な栄養素が取れるという。

 エンジェルは調理法についても細かく指示を飛ばして来た。栄養があるから皮は捨てるなとか、肝臓は生で食べろとか。いつものことだ。初めは魚の内臓を生で食べることに抵抗があったが、もう慣れた。それに、その美味さもわかってきた。カワハギ科の魚はその肝を刺身に絡めて喰うと一層美味いのだ。今日の朝食ではこれが一番の楽しみだった。

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