第17話

「……これからちょっとばかり身辺がばたついて、しばらくのあいだ、会えそうにないんです」

 駅の改札まであとわずかというところで足を止めて、雪が言った。

「え? そうなの?」

「はい、本当は……もっと早く言わないといけなかったんですが。ごめんなさい」

 雪からしばらく会えないと告げられたとき、わたしの頭に真っ先に思い浮かんだのは、なぜだろう、妊娠のふた文字だった。それ以外にわたしに会えない理由が思い浮かばなかったのだ。

 今日のデートの帰りに雪を驚かせてあげようと思って、御堂彰彦の映画の前売り券まで用意していたというのに……無駄になってしまうのかもしれないと思うと、胸の奥が途端に重たくなった。それに、

 本当に雪が妊娠したのだとしたら、この先どうしたらいいのだろう。この関係は、ここで終わってしまうのだろうか。楽しかったいちご狩りの……デート思い出が、一瞬で瓦解していくような、そんな不安な気持ちに苛まれた。

「ええと、それは……会える時間が全然取れない、ということなのかしら」

 一度唾を飲み込んだはずなのに、呟いたわたしの声は、からからに乾いていた。全ての潤いを無くしてしまったような、情けない声だった。

「はい。仕事の関係でどうしても……本当にごめんなさい」

 雪がぺこりと頭を下げた。

 え? 仕事。……仕事?

 じゃあ、妊娠したわけじゃない……?

 ほっとした。ほっとしすぎて、涙が溢れてきた。でも、……雪が子を宿す可能性は、ゼロではないのだ。今も、これからも。ずっと。そのことを改めて思い知らされた気がした。

「雪は……一体どんな仕事をしているの?」

 わたしは自分の不安を隠すように、彼女に訊ねてみた。目の見えない雪は、一体どんな職についているのだろうか。

 雪は唇の端に笑みを浮かべて、

「それを、ハイネさんが当ててくださるんですよね?」

 と言った。

「わたしはハイネさんの本名を当てる。ハイネさんはわたしの仕事を当てる。そういう約束でしたもの」

 手にした白杖がタイルで舗装された地面に触れて、小さな音を立てた。平日の駅の入り口は人で溢れていたけれど、わたしは確かにその音を聞いた。もう、この音を聞き漏らすことはないのだろう、と思った。

「そうね、そうだったわね」

 すっかり忘れていたわ、とわたしは言った。

 雪はおかしそうに、左手を口元に当てて、くすくすと笑っていた。

「会えないあいだ、わたしを忘れないでいてくれますか」

「もちろんよ。雪もわたしを忘れないでいてくれる?」

 当たり前じゃないですか。

 そう言って、雪は一歩わたしの方に足を踏み出した。どこか遠いところを見る目で、わたしではなく、わたしの少し上を見ていた。わたしは彼女の肩をそっと抱いた。駅に吸い込まれていく人、吐き出されていく人が、ちらちらとわたしたちを見ていた。

「これも、忘れないでくださいね」

 雪の唇がわたしの唇に重なった。目をつむった雪のまぶたの先で、長い睫毛が揺れていた。

 ふと視線を感じて、雪の向こう側、駅の改札で佇む男と目が合った。中年に差し掛かるくらいの、背の高い、背筋の通った男だった。男は足を止めたまま、じっと、わたしと雪の姿を見ていた。

 見たければ見ていればいい、とわたしは思い、強く唇を押し付けながら、雪の口の中に舌を差し入れた。雪がそれに応えてくれるのを感じながら、わたしも目を閉じた。いちごの味がした。甘い甘い、いちごの味がした。

「……そういえば、人がいっぱいいたんでしたよね、ここ。駅ですものね」

 唇を離すと、雪が照れたようにそう言った。雑踏が、駅のアナウンスが、わたしたちを包んでいる。

 男はいつの間にかどこかに去って、見えなくなっていた。

「桜が咲く頃には、少し時間に余裕ができると思うんです。それまでは……」

「大丈夫、わかっているわ」

 とわたしは答えた。

「さっきのキスで十分よ」

 雪は照れたように頬を染めて、小さく頷いた。

 わたしは駅員さんを呼び止め、彼女のエスコートをお願いした。雪が小さく手を振った。そしてその姿がそのまま人込みに紛れて見えなくなるまで、わたしはその場に立ち尽くしていた。

「桜、か」

 桜。……桜が咲くまで。

 映画の封切りはいつだっただろう。結局、持ってきたチケットは渡せなかった。無駄にならなければいいのだけれど。

 それにしても……彼女の仕事は、季節に関連するものなのだろうか。

 あれこれ考えても答えなんて出るはずもなく、わたしはきびすを返した。そのとき鞄の中で、何かが震えた気がした。なんだろうと思い、バックをの中を漁っていると、スマートフォンの画面が光っていた。ゆかりからのLINEの通知だった。

 ……ゆかりからわたしにLINEを寄越すなんて、珍しいこともあるものだ。


〝今日うちの店来られる?〟


 文面はたったそれだけ。


〝明日は日勤だから、顔を出す程度なら〟


 返信をすると、すぐに既読がついた。そのあとで親指を突き立てたアニメ調のキャラクターがぴょこぴょこと踊っている、ちょっとふざけた感じのスタンプが返ってきた。

 お店が開くまで、まだ随分と時間があった。

 わたしはいちごを食べ過ぎて水分でたぷたぷになったお腹を持て余し気味に、灰色の空を見上げた。

 そういえば「seals」に行くのも久し振りだ。いつもナンパ目的だったから、雪と出会ってからは足が遠のいていた。ゆかりが寂しがっている……わけはないと思うが、連絡をもらったら会いたくなるのは人の常だ。それに、お店に行けば顔なじみの飲み友達にも会えるかもしれない。最近のみんなの動向も、気になるところだった。

 時間を潰すため、駅の近くの本屋さんで、以前から読みたかった『海炭市叙景』と『アイヌ神謡集』を購入した。本屋さんに併設されている喫茶店でその文庫本を読みふけっていると、気付いたときには外が暗くなっていた。

 わたしは小さくため息をつき、目頭を指でぎゅっと押さえた。『海炭市叙景』で描かれている作者の暗い、郷土への想いに長い時間当てられて、なんだか頭がくらくらとしてしまっていた。これが、作者の見ていた故郷、函館の街なのか。……叙景とはよく言ったものだ。

 ため息をつき、冷え切ったコーヒーの最後の一口を飲み下して、わたしは席を立った。

 結局『アイヌ神謡集』にまでは手が回らなかったのだけれど、こちらを先に読んでいたら、遠い北の大地にまた違った感想を抱いただろうか。

 本屋の外に出ると風が一層冷たく、強くなっていた。

 わたしはなんとなくスマホを取り出して、立ち止まり、姉に一言LINEを送った。

 色とりどりに光り輝く街の灯りやイルミネーションが、夜を明るく染め上げている。天から見下ろす地上の星は、人々のささやかな祈りと営み……などと言うけれど、空からこの街を見下ろせば、ささやかとは程遠く、光は濁流のように横溢して見えることだろう。繁栄したいという、街に住まう人々の想いは果たして祈りと呼べるのだろうか。……ううん、違う。それだって、れっきとした祈りなのだ。

 わたしは大ぶりの鞄からマフラーを取り出して、首に巻いた。マフラーの端が風にぱたぱたとはためいた。マフラーがなくなると、鞄の底には使い切れなかった練乳が、歯ブラシと離れ離れになった歯磨き粉のように、所在なさげに転がっていた。じっと見ていると切ないような、侘しいような、不思議な気分になった。

 そのまま風の強い夜の街を歩き続け、目的のお店……「seals」の重い木製の扉を引き開けると、頭上で小さなカウベルが、からん、と音を立てた。

 客はまだ、誰も来ていない様子だった。

 店内を見回していると、ゆかりが先にわたしを見つけて、いらっしゃい、と声をかけた。

「久しぶり。早かったね」

「明日は日勤だって言ったじゃない」

 わたしは苦笑しながら返事をして、防寒具を外し、スツールに座った。お店の中は暖房が効いていて、暖かかった。

 ただ、いくら早いからといって、客ばかりでなく、オーナーの銷夏しょうかさんの姿も見えないことに、ちょっとばかり違和感を抱いた。

「銷夏さんは……これから?」

「ううん。買出しに行ってる。すぐに戻ってくると思うけど」

 ゆかりはおしぼりを手渡してくれながら、そう説明した。それから薄い木の板で作られたメニュー表を差し出して、

「お酒、何にする?」

 とわたしに訊いた。

「いちご味以外のカクテル、かな」

「……何それ?」

 ゆかりが怪訝そうな顔をする。

「今日、いちご狩りに行ってきたの。だからいちごは食傷気味なの」

 わたしが言うと、ゆかりは少しだけ眉をひそめた。

「デート?」

「そう」

「誰と?」

「別に、誰とでもいいでしょう?」

 わたしは唇の端を歪めて見せた。それから思いついたように傍らに置いた鞄の中をごそごそと漁って、練乳のチューブを取り出した。

「これ、あげる」

「練乳?」

「うん」

「……使いかけって。あなたも大概いい神経してるよね」

 ゆかりが笑った。わたしも小さく笑って、

「それで、わたしに用事って何?」

 と訊ねた。

「この前来たときにあなたがお持ち帰りした人……覚えてる?」

「目の見えない?」

 わたしはちょっと意地悪な口調でそう言った。そういえば、その事のあらましを、ゆかりはこともあろうか花純に話したのだったな、と思いながら。

 まったく……ビアンズ・バーの店子のくせに、口が軽いんだから。

「そう、その人。どこかで見たことあるなって、ずっと気になってたんだけど」

 ゆかりはわたしが含ませた毒気には気づかない様子で、早口にそう言った。

「今日、やっと思い出したの」

「ちょっと待って、え? どういうこと?」

 思い出したってどういうこと?

 見た? 雪を? どこで? ……なぜだろう、無性に喉が渇いてしかたがなくて、虫の知らせのような変な感覚が、ざらりと背中を撫でていく。これは……この嫌な焦燥感は、いったいなんだろう。

 わたしは両手をこすり合わせた。

 そして、手のひらに汗が滲んでいるのを知って、慌てておしぼりで拭った。

「うん。……ちょっと待ってて、今お酒出すから」

「いい、そんなのあとでいいから。ねえ、本当に雪なの?」

「雪? 何よ、愛称で呼ぶなんて、さては今日のデートの相手もその雪さんね? まったく、人妻とのワンナイト・ラブがあなたの身上じゃなかったの?」

 ゆかりはわたしを一瞥したあとジーンズのお尻からスマホを取り出して、何やら操作し始めた。

「……あ、あった。これだわ」

 差し出された画面をおそるおそる覗き込む。

 事故で怪我を負ったピアニストの記事に添付された、ネットの写真。そこに写っているのは色の濃いサングラスをかけた男と共に黒いドレスを着て微笑む……雪の姿だった。

 ……将来を嘱望されながら交通事故によって利き腕を負傷したピアニスト、岩井智也氏。そんな彼を支えたのは、当時、かねてからの病気で視覚に障害を持っていた、バイオリン奏者でもある橘美雪さんだった。二人はN音大の同窓生で以前から親交があり、この事故がきっかけで……。

「でも、なんだか変なのよね」

 ゆかりの声がわたしの耳を素通りしていく。目が文字の上を滑っていく。

 嘘。嘘だとしか思えない。

 それとも何かの冗談?

 雪が……プロのバイオリン奏者だなんて。

 でも、

 そんなそぶりは一度も……。

「ねえ、ちょっと。聞いてるの?」

 わたしは思わず親指の爪を噛んだ。いちごの味が、したような……しなかったような、気がした。

 ……確かに雪は音楽に造詣が深くて、音感もあって、歌がめちゃくちゃうまくて……でも、でも、

 よくわからない。考えがまとまらない。

 ただ、雪のパートナーもハンディキャップのある音楽家なのか、と思った。なんだかそれは正しいことのようにも思えたし、どうしてか理不尽なことだとも思った。やっぱり、とは思えなかったし、違和感だって何も感じなかった。

 けれど、……こんな変なタイミングで雪の職業を知ってしまったことを、心の底から後悔した。音楽家……バイオリニスト? なにそれ。

 カラン、入り口のカウベルが鳴り、

「あら、珍しい。こんな早い時間から篠井っちが来るなんて」

 聞き慣れた声がした。

「うちにしばらく来てくれなかったから、どうしているのかなって。心配していたのよ?」

「……銷夏さん」

 それは、買い物に出ていたオーナーの銷夏さんだった。腰で木製のドアを支えつつ、重たそうに膨らんだスーパーのビニール袋を二つ、両手にぶら下げている。

「やだどうしたの、顔色真っ青だけど。具合が悪い? それとももう酔ったの?」

 わたしはかぶりを振った。頭の中で何かが、からからと音を立てていた。頭のネジが、外れてしまったのだと思った。

「ちょっとゆかりちゃん、またなにか余計なこと言ったんじゃないでしょうね?」

「え? そんな、わたしは別に」

 ゆかりも慌てて、首を横に振っている。

 わたしは立ち上がり、チャージ料だけ払って店を出ようとした。とてもじゃないけれど、もう、お酒を飲む気分ではなかったから。

 銷夏さんとゆかりが慌ててわたしを引きとめようとしているときに、三たびカウベルが鳴った。

 わたしたちは一瞬その場で固まり、揃って入り口に目を向けた。

 重たい木の扉を開けてお店に現れたのは、椎名しいなかなで

 わたしの元カノだった。

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