第18話

 久しぶり、と言って奏が本当に自然に笑ったので、わたしは帰るに帰れなくなってしまった。スツールに座り直すと左隣に奏が座った。昔みたいに。まるでそこが定位置みたいに。ゆかりと銷夏さんはわたしたちが付き合っていたこともひどい喧嘩をして別れたことも知っていたけれど、なにも言わなかった。銷夏さんはスーパーの袋を抱えてバックヤードに入っていき、たばこに火をつけて、小さく紫煙を吐いていた。

「この店、あなたはもうこないと思っていたわ」

 わたしが言うと、奏は小さく笑った。

「うん。そのつもりだった。でもなんでかな。ふっと、入りたくなっちゃったんだ。まさかこうやって再会するとまでは思わなかったけど」

「本当に思わなかった?」

 わたしの質問に、奏は気障な仕草で肩をすくめてみせた。

 ビアンのコミュニティーは狭いから。こんなことだって起こり得るのだ。今まで鉢合わせしなかったのが逆に奇跡みたいなものだったのだろう。このお店でナンパ三昧を繰り返しているわたしの悪行だって、きっと聞き及んでいるに違いなかった。

 奏は以前と少しも変わらなかった。見た目には変化を感じなかった。柔らかな、短い猫毛の髪が襟にかからない長さで綺麗に切りそろえられていて、高い鼻梁も、薄い唇も、わたしの愛した姿、そのままだった。ユニセックスな男物で揃えるファッションセンスも昔のままだ。どこからどう見ても、完璧なボイの女の子だった。

 奏に会ったら、もっと心が……胸が痛くなると思っていた。胸に開いた穴を塞ぐようにナンパを繰り返して、人妻ばかりを相手にしていて、わたし自身、ものすごく擦り減ってしまっていたから。でも、ならなかった。胸の空洞はそのままなのに、奏の入る隙間は少しもなかった。

 多分、そこに今は、雪がいるからだとわたしは思った。

「奏は変わらないわね」

 わたしが言うと、

「ササは変わった、かな」

 奏はわたしを見つめて言った。わたしは下の名前で呼ばれるのが昔から……姉が生きていた頃よく間違えられたからというのもあるのだけれど……なんとなく苦手で、ササというのは奏がわたしにつけてくれた、愛称だった。その一言で、当時のことがありありと浮かんできた。懐かしい気持ちが蘇って、泣きそうになる。

「変わった? どこが?」

 とわたしは少しおどおどとした気持ちで、唇を噛みながら訊ねた。

「……綺麗になった。って言うと、多分また喧嘩になるんだろうけど」

 わたしは呆れて、馬鹿な人、と小さく呟いた。

 ゆかりがシェーカーを振っている。まるで懐かしいものでも見るような目で、わたしたちを見ている。彼女はもちろん、雪の話はおくびにも出さない。ビアンのお店の店子として、当然その辺りはわきまえている。

 ゆかりは会話が途切れた一瞬に、随分と話が弾んでいるみたいだけど、焼き棒杭なんてことにならないでよ、なんて軽口を叩いて、わたしたちの前に同じカクテルを並べて置いた。

「練乳とラム酒のカクテル。少しシナモンを効かせてみたんだけど……お口に合うかな」

 奏が一口含んで、

「あたしにはちょっと甘すぎるかな」

 と言った。

 わたしもグラスの縁に唇をつけた。喉を通るときにシナモンの刺激的な香りが鼻に抜けていった。溶けかけた雪のような味の、美味しいカクテルだった。

「……わたしは好き」

「それはよかったわ」

 口の端を緩めたわたしの顔を、奏はじっと見ている。

「……なに? あんまり見つめないでよ」

「いや、さっきまでは真っ青な顔をしていたから」

「心配してくれていたの?」

 奏はふっと鼻で笑って、それこそ今更だったね、と答えた。

 こんな風にしていると、わたしたちは大人になったんだな、と心の底から思った。昔は再会したら無視しあうのだろうな、と思っていた時期もあったし、口汚く罵り合うのかもしれないな、と考えていた時期もあった。でも、こうやって穏やかに、隣に座っていられる。きっと二度と恋人には戻れなくて、友達でい続けることすら難しいのかもしれないけれど、街ですれ違ったときに互いに笑顔を浮かべていることができる、そんな大人になれて、本当に良かったと思う。

「つかぬことを聞いてもいいかしら?」

「つかぬことってなんだっけ? あたしが今付き合ってる人、って意味?」

「ううん。生理用品のことなんだけど」

「……なにそれ?」

「今も昔と一緒のナプキンを使ってる?」

「どうしてそんなことを訊くんだよ」

 昔から、女性という性に違和感やぎこちなさを感じている彼女からしてみれば、答えにくい質問だったかもしれない。でも、それでもわたしたちは女で、女である以上は月経からは逃れられなくて、ううん、違う、そんなことよりも何よりも、ただ知りたかった。

 過去の幻影から、引きずっている想いから、わたしが逃れるために。

「今は別のやつ、かな。汗でかぶれにくい、スポーツ用の。生理だからって日課のランニングはサボりたくないし、割とあたしには合ってるみたいで……ってあんまり変なこと、言わせるなよ」

「スポーツ用、なんてあるの?」

「ちょっと前に出たやつ。今じゃコンビニでも売ってる。……もういいだろ」

 それは殊更ぶっきらぼうな、男みたいな声色だった。見ると耳が赤くなっている。わたしは苦笑して、ごめんなさい、と頭を下げた。

「どうしてもそれが気になって、仕方がなかったの」

「あたしの……ナプキンのことが?」

「そう」

 奏は呆れたようにため息をついて、

「やっぱりササは変わったよ」

 と呟いた。本当に訊きたかったのは、夜用の、多い日用の、ナプキンのことだったのだけれど。……訊けなかった。日中にわたしの知らないナプキンを使っていると聞けただけで、わたしはもういいと思って、満足してしまったのかもしれない。

 それからわたしは、お店のスツールで談笑しながら酩酊するまで杯を重ねた。隣に奏がいることが、嬉しかった。雪の秘密を知ってしまったことも、明日日勤で朝早いことも、いつしか忘れてしまっていた。

 ううん、違う。違うかもしれない。忘れようとして、全部を忘れようとして、わたしは無理にお酒を飲んでいたのかもしれない。

 店を出るときには、まだ、そばには奏がいた。

「飲み過ぎ。明日仕事なんだろ?」

「つまらないこと言わないでよ」

 次の店に向かおうとするわたしを奏は引き止めて、ちょうど走ってきた流しのタクシーを捕まえた。そして押し込むようにして、わたしをひょいとその中に放り込んだ。

「ちょっと、ひどいことしないでよ」

 わたしの抗議の声を無視して、運転手にてきぱきと行き先の指示をしている。わたしの家の場所は、まだちゃんと覚えているのだ。憎らしい。こういうところが嫌いだったんだ、と思った。いつも、いつだってわたしの気持ちを無視して。

 文句を言ってやろうと窓を開けると、冷たい風と一緒に奏が顔を差し入れてきて、わたしの唇に刹那のキスをした。わたしは奏の唇が離れた瞬間、その頬を思い切りひっぱたいた。奏は何も言わずに、ただ静かに笑っていた。

 全部バレている。奏は全てわかっている。そう思った。そう思うととても恥ずかしくて、無性に悲しくて、そしてたまらなく悔しかった。

 車が発車しても、奏はそこに立ったまま、わたしのことを見送り続けていた。バックミラーでその姿を確認しながらわたしは数分間声を殺して泣いた。

 わたしたちは、わたしは、全然……大人になんて、なれていなかった。

 シナモンの匂いのする甘いキスの残り香が、わたしをずっと責め続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る