第16話

 テレビを見ていたのだという。

 もっとも、画面を見ることはできないのだから、もっぱら情報は音として彼女に伝えられたわけなのだけれど。

 沖縄出身の引退したボクサーが、地方のいちご園を訪れる、夕方のニュースのワンシーンだったという。その番組を見て……映像を流す画面と相対して……いるうちに、いちごが食べたくなったとしても、宜なるかな、である。雪に責められる謂れなんてない。

 LINEでさらに、いちご狩りに行きたいんですけど、連れて行ってくれる人もいなくて、と書かれていたのを見て気が逸り、わたしでよければ一緒に行こう? とすぐに水を向けてみた。夫が連れて行ってくれなかったことに、ちょっとだけ感謝をした自分を、情けなく思いながら。

 テレビで放送されていたそのいちご園でなくてもいい、とのことだったので、わたしは早速パソコンを立ち上げて近くのファームを検索してみた。そこは駅から少し離れているけれど、広々としているし、車椅子でもオーケーということは、雪だって邪険にはされまい。そう思って、お互いの都合を合わせた上でそのいちご園に決めた。直通のバスが通っていることもありがたかった。

 予約が取れたよ、と伝えると、一言、嬉しい、と通知があった。わたしも嬉しかった。楽しもうね、とLINEに書き込みをした。こんな健全なデートをするなんて、一体いつ以来のことだろう、なんて思った。

 それから指折り数えて、わたしはその日を待った。いちご狩りの当日は、陽射しは暖かかったけれど、風の冷たい日だった。

 駅で待ち合わせ、そのままバスに乗った。雪はかわうそのような色合いのコートを着ていて、首に白いマフラーを巻いていた。温かそうね、と訊くと、暖かいです、と雪は笑顔で答えた。

 いちご園に着くと、わたしの肘を左手で掴んだまま、

「楽しみですね」

 と雪が笑った。

「うん。楽しみね」

 とわたしも答えた。区営のゴミ処理場からの廃熱を利用しているらしく、近くには大きな建物が建っていて、高い煙突からは薄い煙が立ち昇っていた。

 ビニールハウスの中を見ると、受付の前にはすでに列ができていた。長期の休みにかかるからだろうか、子ども連れの親子の姿が目立っていた。受付に予約していたことを伝え、チケットを購入した。一緒に練乳もどうですか、と言われたので、それも買った。

 最初にいちご農家の人の、摘み方のレクチャーがあった。中指と薬指をいちごの茎に挟んで、手のひらでいちごを包むようにして手前に引っ張ってください、云々。ちらりと横を見ると、雪が真剣な顔でうなずいていて、ちょっと笑ってしまった。

「やり方わかった?」

「なんとなく、ですけど」

 雪が情けない顔をして、わたしの少し上を見ていた。

「それより、まだ色の付いていない白いいちごは取らないでくださいって。……間違えて採ってしまったら怒られるんでしょうか」

「そんなことはないと思うけれど」

 とわたしは言った。

「大丈夫よ。わたしがずっと隣にいるもの。甘そうないちごを教えてあげる。でも……雪が自分で選びたいって言うなら、口出ししないけど」

「……意地悪」

 そう言って雪は、わたしの肩に自分の頭を軽くぶつけた。それから雪は白杖を折りたたんで鞄の中にしまった。今日はずっとわたしの目でいてくださいね、と言いながら。もちろんわたしも、最初からそのつもりだった。

「あの、障害者の割引とかありましたか」

 雪がそっとわたしに訊ねた。

「ここ、公営なんですよね? 公共の施設では介助者の人がタダになったりするんですけど……そういうのってありました?」

「気にしていなかったけれど多分なかったと思うな。……でも大丈夫よ。わたしもめいいっぱい食べるから。ちゃんと元はとるわ」

 わたしは雪の耳元にそう囁いた。

 雪は少し困ったように、くすぐったそうに笑っていた。薄く曇った灰色の空の向こう側で、鈍い色の太陽がぼんやりと光を放っていた。昨日の雨のせいだろうか、ところどころがひどくぬかるんでいた。シート……とても頑丈そうなので、多分農作業用のものだろう……が敷かれていたが、その上に乗ると、ぐにゃりとした地面の感触が、そのまま足に伝わってきた。

 雪はいつもよりも強く、わたしの右手を掴んでいた。

 ビニールハウスの中に入ると暖かくて、土の匂いがした。それから、ほんのりといちごの匂いがする。雪も目を閉じて、それらの匂いを感じているようだった。

 水生栽培のいちごの棚が、真っ赤な実を滴らせるように、右にも左にも、ずっと続いていた。いちご。いちご狩り。わたし自身、何年振りだろう、と思った。子どもの頃、父に連れられて姉と出かけて以来……かもしれない。あの時は競い合うように貪って、お腹が痛くなったっけ。

「……ハイネさん?」

 立ち止まったままのわたしの袖を、雪が心配そうに引いた。

「ごめんなさいね。昔、父さんと一緒にいちご狩りにきたなぁって、思ってたの」

「いいお父さんなんですね」

「うん」

 わたしは小さく頷いた。

「思い出話をしていると時間がもったいないわね。食べましょうか」

「案内してくださいますか」

「もちろん」

「あ、そのまえに」

 そう言って、雪は歩みを止めた。

「手を、洗ってもいいですか」

 そういえば雪は、よく手を洗ったり、ウエットティッシュで拭いたりする。少し潔癖性なのだと思っていた。

 けれど、

「わたしは目が見えないので……何にでも触ってみなければわからないので、だから、手の消毒はしっかりとしないといけなくて。目の見える人よりも。それがいいとか悪いとか関係なく、必然的に……色々な場所に触れてしまうから」

 と雪は、顔を伏せるようにして言った。

「それにわたしの白杖は奇数折りだからまだいいのですけど、偶数折りだと持ち手と床に触れる部分が付いてしまったりもするんですよね。それもあまり衛生的ではないですから。冬はインフルエンザも怖くて……つい神経質になってしまうんですけど、でも感染予防で大切なのはうがいと手洗い、って言いますもんね」

「そうね、その通りだと思う」

 わたしは頷きながら、彼女に、雪にとっての指先は、目なのだと思った。改めてそのことを思い知らされた気分だった。

 ビニールハウスの入り口近くに設置してある水道で、わたしたちは手を洗った。仕切りのついた薄いプラスチックの容器に練乳を垂らして、わたしが左手で持った。容器はへたを入れるのにも使う。そしてそこに入りきれなくなったへたは、設置されているゴミ箱に捨てるようになっていた。

 わたしたちは子どもたちに追い抜かされながら、ゆっくりと歩いた。

 いちごの棚には表札が出ていて、列ごとに違った種類が植えられていた。どの棚も、真っ赤ないちごで鈴なり状態だった。見ると細長いいちご、少し小ぶりないちご、大きな赤いいちご……と棚ごとに少しずつ違う。葉っぱの形さえ、少しずつ違って見えた。

「……この棚のいちご、完熟のものは桃の香りがするって書いてある」

 わたしは言った。雪が興味を惹かれたように足を止めた。わたしの肘を掴む手に、ちょっとだけ力がこもった。

 小さな蜜蜂が飛んでいる。

 わたしたちはその蜂に導かれるように、ハウスの奥へ奥へと進んでいった。

 棚と棚のあいだが思いのほか広く感じて、車椅子の利用も可というのも頷けた。わたしたちはふたり並んで、一つずついちごを吟味していった。葉っぱやいちごの実を撫でる雪の指先には、植物園で見たのと同じ優しさがこもっていた。

 遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。足早にかけていくその音も。蜂の羽音、風に吹かれてビニールハウスが揺れる音。青い草の匂い、それに混じって、ほのかに甘酸っぱい匂いがする。

 最初の一つ目は、雪が自分で選んだ。指先で、恐る恐るといった感じで、いちごの大きさを確かめ、その赤く熟れた表面を優しい仕草で撫でている。その表情はまるで初めて嬰児の頬に触れる……若い母親みたいだ。

「これ、どうですか? 赤い?」

「真っ赤よ。へたの方まで赤いわ」

 農家の人に教えられた通りに二本の指で細い枝を挟み、勢いよくいちごの実をもぐと、ぷちん、と小気味いい音が響いた。

 知らなかった。いちごは枝から離れるときに、こんな音を立てるのか。

「練乳は?」

 とわたしは訊ねた。

「最初はそのままで」

 と雪が答えた。

 実の先の尖った方から、半分ほどが口の中に消えた。雪がゆっくりと実を食むと、途端に甘い香りがわたしの方にまで広がった。それはみずみずしい、命の匂いそのものだった。

 雪は目を閉じて、いちごを味わっている。唇が少し濡れている。まつげが少しだけ震えている。目尻がほんのりと、赤くなっている。

 恍惚としたその表情だけで、彼女が何を感じているのか手に取るようにわかる。わたしの口の中にもいちごの味が広がったような、何かが通じ合ったような、そんな気がした。

「確かに、口の中に桃の香りがします」

「本当?」

「ええ。……ハイネさんと、いちご狩りにこられてよかった」

 雪が言った。左手が動いた。

 掴んでいたわたしの肘から自分の手をそっとはずして、そのままわたしの手のひらまで、彼女の指が滑り落りてきた。指と指を絡ませて、まるで……恋人にするように、しっかりと握り合わせた。

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