第15話

 熱い梅干し入りのお出汁の効いたおかゆを食べながら、わたしは、

「この前、職場の子とデートした」

 と花純に伝えた。

 花純は目の動きだけで先を促した。

「潜在的には、あるいはビアンなのかもしれない。けれどたぶん、一生ノン気サイドにいる子。結婚を機に仕事を辞めるから、その前にわたしと一度食事がしたかったって、言われたわ」

 花純は何も言わなかった。ただ自分の注いだビールを、一息に飲み干しただけだった。わたしは続けた。

「妊娠していて、夫になる人は優しくて、幸せで、けれどこのまま流されるように結婚してしまっていいのか不安だって、そう言うの。もしかしたらお腹の赤ちゃんの発育のことで悩んでいたみたいだったから、ちょっとナーバスになっていただけなのかもしれないけれど、ね。もちろん、わたしはそういった諸々を全部ひっくるめてマタニティーブルーっていうのよ、って。食事のあいだ、ずっと言い続けていたのだけれど」

 でも、きっとそういうのとは違う気がするんです。しばらくためらってから、游子はぽつりと言った。そして少しのあいだ、沈黙した。

 わたしはもしかしたら、篠井さんのことが好きだった……ううん、今も好きなのかもしれません。そう続けた游子の頬は、引きつっていた。とてもとても緊張しているのが、手に取るようにわかった。

「自分がレズビアンなんだって自覚は、全然ないんです。でも、それでもわたし、この人のことが好きなのかもしれないって、あるときふと思ったんです」

 女性が女性に好きだと告白するのは、並大抵のことじゃない。わたしにも経験がある。大丈夫だよ、と言ってあげたかった。もちろん、対象がわたしでなければの話だが。

 わたしは何気ない顔で食後のコーヒーを一口啜り、音を立てないようにそっとソーサーの上に戻した。

「仕事を辞める前に。今言わなきゃ、駄目だと思って」

 そして今にも何かがこぼれ落ちそうな瞳で、わたしを見つめるのだった。

「篠井さんがおうちに泊めてくださった日のこと、覚えてますか。一年目のまとめのレポートが終わらなくて、わたしの家で続きをやればいいよって言ってくれて」

「覚えているわ」

 わたしは言って、小さく微笑んだ。

 游子がほっとしたような、安堵の表情を浮かべた。でも。


『篠井さんがレズだって噂、本当ですか』


 ……游子の言い放った一言に、あの日のわたしがどれだけ傷ついたかなんて、きっと、彼女は想像もしていないだろう。そう思うと切ないような気持ちになった。人を傷つけて、自分でそうと知らなくて。

 その上わたしが好き、というのは、いったいどういうことなのだろう。

「ねえ、正直に答えてくれる?」

 わたしは言った。

「あの日言ったこと。……わたしがレズだって噂、本当にあったの?」

 游子はハッとしたような顔で一瞬わたしを見て、それからそこに何かを見たのだろう、静かにわたしから目を逸らした。

「すみません、嘘をつきました」

 游子はわたしを見ないまま、小さな声で言った。

「あのときイエスって言ってくれたら、わたしにもチャンスがあるかなって、思ったんです。……ごめんなさい」

 やっぱりそういうことだったのか、とわたしは思った。なんとなくだけれど、薄々そんな気がしてはいたのだ。わたしはどちらかというと……意外なことだけれど……男性にモテると思われていたみたいだから。現に同じ病棟の美咲にはそう思われている節があるし、時々からかわれたりしたりもする。そもそもおおっぴらにビアンだと吹聴して回るはずはないにしても、それとなくそういう雰囲気は、職場では隠していたはずだ。

 それでも何かを感じたなら、それはきっと同族にしかわからない何かなのだ。ふとすれ違ったときの匂い、ある瞬間の視線、一瞬触れた手と手の感覚。そういうもの。そういった些細なことが、ときに人生を狂わせてしまう。

 あのとき、わたしの部屋に泊めてあげたあのとき、游子は酔いつぶれて寝てしまったのだとばかり思っていたけれど……本当は、寝たふりをしていただけなのかもしれない。起きて、複雑な思いで胸を焦がしていたのかもしれない。

「でも」

 とわたしは言った。

「あなたは男性と結婚する。お腹の中には大切な赤ちゃんだっている。わたしにどうしろっていうの?」

 游子は雷に打たれたようになって、小さな声で、そうですよね、今更ですよね、と言った。だって彼女は選んだのだ。今の、自分自身の人生を。それを今日になってわたしに委ねるなんて。虫が良すぎるのではないだろうか。

 わたしはちょっと怒っていた。そしてそれと同じくらい、悲しかったのだと思う。いつの間にか語気が強くなっていた。

「それに、わたしがビアンだって証拠はどこにもないでしょう?」

 わたしは言った。

 游子がわたしを見た。

 本当に、とその目がわたしを疑っていた。

 わたしはその目を見返しながら、言葉を続けた。言わねばならなかった。

「だいたいね、そもそも他人のセクシャリティを簡単に訊ねるような人を、わたしは信用しないことにしているの。わたし自身もそういう話を……自分の根源に関わる話を……公の場でしたりしないわ。なぜだかわかる?」

 游子はわかりません、と答えた。

「わたしが色々な意味で、本当のマイノリティーだからよ」

 わたしはもう一度コーヒーを口に含み、ゆっくりと飲み下してから言った。

「もう亡くなってしまったけれど、わたしの母はこの国の人じゃなかったの。だから小さい頃は謂れもないことを随分と色々言われたわ。それこそひどい言葉だっていっぱい受けた。傷ついたわ、子ども心にも。それに」

 わたしは飲み終えたコーヒーカップをソーサーの上に置いた。今度はかちゃりと音が立った。

「わたしはあなたが言うように、確かに同性愛者だから。そのことでもひどい言葉を受けたことがある。双子の……実の姉から、ね」

 游子が小さく、ごくんと息を飲んだのがわかった。わたしを見つめる目がふるふると震えていた。

「ご飯、美味しかったわ。餞別代わりにわたしがここ払うわね。わたしを好きって言ってくれて、ありがとう」

 わたしはそう言って席を立ち、伝票を手に取った。それからそっと游子の耳元に顔を寄せ、ささやくように言った。

「結婚を前にナーバスになっていようと、初めての妊娠に不安を感じているのだとしても、わたしはあなたの感情を決して気の迷いだなんて言わない。それにね」

 一瞬言い淀んでしまう。そのとき頭に浮かんだのは、まっすぐに前を見つめているような雪の横顔だった。

「わたしは……ビアンはビアンでも人妻専門のたらしなの。あなたが結婚生活に飽いて、何かに餓えて、その上でわたしを求めるのなら、連絡を頂戴。相手をしてあげるわ」

 わたしは游子の反応も表情さえも見ずにその横を通り過ぎ、そのまま会計を済ませて店の外に出た。受け取ったコートに袖を通しながら足早に歩く。見上げるとネオンサインが涙に濡れてきらめている。通りを吹き抜ける乾いた風が頬に冷たい。

 身も心も寒々としていて、早くどこかに逃げてしまいたかった。

 けれどわたしを追いかける氷のようなその冷たさは、わたしの中に凝った冷気そのものだった。どこまでい行っても逃れられない、わたし自身のわだかまり、そのもので。

 遠くから誰かに呼び止められた気もしたけれど、流しのタクシーを捕まえて乗り込むまで。わたしは一度も、振り返りはしなかった。

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