第9話

「わたし、今月で仕事を辞めるんです」

 病棟の処置室でふたりきりになったとき、游子ゆうこがわたしにそう言った。

「……本当は今年度いっぱいまで働く予定だったんですけど。実は……赤ちゃんのことで医者にお仕事とめられちゃいまして。色々、急で申し訳ないんですが」

 そんなことないよ、それよりも体に気をつけてね、とわたしは言った。唐突だったし、随分と急なことでちょっと寂しいな、と思ったけれど、他になんて声をかけてあげたらいいのかわからなかった。年休の消化や引き継ぎなどは大丈夫なのかと訊ねると、患者さんのサマリーはぼちぼち書いていますし、あとは師長がうまくやってくれると思います、と游子は苦笑してみせた。

「それで、ですね」

「うん」

「辞める前に、篠井さんとふたりでお食事にでも、と思いまして」

「わたしと、ふたりきりで?」

 少し驚いて、わたしは游子に訊ね返した。

「はい。駄目ですか?」

 游子は少し緊張した面持ちでわたしを見ていた。わたしは持っていた膿盆を片しながら、どうして今更そんなことを言うのだろうと、考えていた。

 一年目、新人の彼女をわたしが指導した。

 師長から指導係を仰せつかったときには正直めんどくさいな、と思ったものだったのだけれど、游子は勘のいい子で、メモもしっかり取るような子だったからか、それほど手がかかった覚えがない。明るくて、ハキハキしていて、患者受けもいい。きっといい看護師になるのだろうな、と思っていた。そういう子を見るのはわたしも嬉しかった。そういう子が自分より先にいなくなってしまうのは、やっぱりちょっと寂しかった。

「いいよ。あとでLINEして」

 とわたしは答えた。

 ほっとした表情を浮かべ、わかりましたと言って去っていく彼女の後ろ姿を、じっと見ていた。いささか感傷的な気分で。

 精神科では珍しい、ワンピース型の制服に吊るされた手指用消毒液の容器が、彼女の動きに合わせてぷらぷらと、所在なさげに揺れていた。

 游子と最後にふたりきりで食事をしたのは……と考えて、ううん。違う。と頭の中の映像を改める。

 感傷の原因はもっと別の記憶につながっていた。

 游子が、うちに泊まっていったことがあったのだ。わたしたち二人きりで会ったのは、それが最後だった。

 ……あれは何月のことだろう。確か、彼女が入職一年目の、秋の頃だったから……十一月の下旬くらいだったか。

 その年の新人スタッフは皆、ワークショップでケースレポートの発表をしなければならなかったのだが、彼女はテーマが絞りきれていなくて、なかなか書き出せていなかったのである。取っ掛かりさえ掴めれば、あとはスラスラ書けるだろうと、わたしも彼女も思っていたのだけれど、その取っ掛かりがどうしても見つけられない。

 わたしは日勤終わりのその日、彼女に付き合って居残りをしながら、気付かれないように小さくため息をついて、カルテ庫の壁にかかった電子時計を見上げた。そしてすでに二時間近く時間を浪費していることに気づいて、もうそろそろ病院を出ましょう、と声をかけた。

「でも、まだ全然まとまってなくて……提出期限も近いのに」

 游子が泣きそうな声で言った。さすがに可哀想になった。でも、このときの仏心を、わたしはあとになってから、少しだけ後悔することになる。

「ちょっと気分を変えましょうか。わたしひとり暮しだから。んー。うちで続きをやってもいいよ」

 わたしは苦笑しながら、游子に向かってそう言っていた。

「本当ですか? ……その、すみません。ありがとうございます。でもお邪魔じゃないですか?」

「邪魔だと思ったら最初から呼ばないわ」

 わたしが言うと、冗談だと思ったのだろう、游子はぎこちなく笑った。

 でも、冗談ではなかった。

 職場に長々と居残るのなんてわたしは嫌だったし、ましてや喫茶店なんかで患者さんの話をするわけにもいかなったので、思考が閉塞する前に、彼女をわたしの部屋に呼んだだけのことだった。姉の遺影を見られないようにだけ、気を配ればいい。

 でも、わたしがビアンだからといって、勘違いはしてもらいたくない。後輩の女の子を連れ込むことに対して、他意のようなものは全くなかったと断言できる。

 游子は最初からわたしが下心を抱くような女の子ではなかった。ノン気なのはわかっていたし、付き合っている彼氏がいるという話も聞いていたし。何より、彼女に対してそういう欲望を感じたことは、一度もなかった。

「……一年目の新人スタッフのレポートに、教育部のお偉方が求めるものって、なんだと思う?」

 とわたしは彼女の前にコーヒーを置きながら訊ねた。游子は緊張した面持ちで、不躾にならない程度に、そっとわたしの部屋を見回していた。

 その姿を見ていて、可愛らしい子だな、と改めてわたしは思った。

 淡い色合いのコートは秋の終わりには少し寒そうだったけれど、塗り直した唇は、職場で使っていたそれとは違う、流行色のものだった。

「コート脱いだら?」

 游子はじゃあ失礼して、と口の中でもごもごと言って、コーヒーをこぼさないようにコートを脱いだ。ニットの胸の上の、小さな石のついたネックレスが、部屋の明かりを反射して光っていた。

「寒かったら言ってね。暖房入れるから」

「はい。それで……さっきの質問なんですけど」

「うん」

「レポートをまとめる能力、みたいなものでしょうか。あとは、そうですね、みんなの前で発表するってことなので、そういった発表のノウハウを身につけること……だと思います」

「それは建前。大前提だとは思うけれど……あのね、こういったケースレポートというのは、一つの物語でもあるのよ。だから、誰が何を読みたいと思っているのかを考えることが、とても大事になってくる……わかる?」

「わかるような、わからないような」

 彼女はそう言って、唇の端に曖昧な笑みを浮かべた。

「要するに、教育部の人たちが納得する物語を作ればいいの。例えば……この患者さんとの関わりでこういう苦い経験をしてしまいました。自分の看護を振り返ったときに、こういうところがいけなかったのだと思います。誰々という看護理論家もそういう失敗のことをこんな風に言っています。だから、次年度からはこの経験を生かして頑張っていきたいと思います……みたいな、ね」

 わたしがつらつらと告げると、游子は驚いたように目を見開き、それから半眼になって、どうしてそういうことを早く言ってくれなかったんですか、と恨みがましい声で言った。

「だって、邪道だもの」

 とわたしは答えた。

「それに本来、指導係は新人がまとめてきたものに対してアドバイスをするのが本筋だからね。こういう裏技みたいなことを教えるためにいるんじゃないのよ」

「そうですよね。ええと……患者さんの選定からやり直したほうがいいんでしょうか」

 游子はいささかしょんぼりとした口調でそう言った。

「そんなことはしなくていいよ。それにさっきのは失敗バージョンだったけれど、成功したバージョンだっていいの。わたしをこんな風に成長させてくださった患者さんに感謝しています、って感じで。結論ありきで考えれば、筋道も立てやすいでしょう?」

 やっぱり秋の終わりの部屋は、どことなく寒い気がする。わたしは立ち上がり、壁にかかっていたエアコンのリモコンを取って、ゆるく暖房をかけた。ちらりと覗いてみた窓の外は薄く曇っていて月も星も見えない。遠くにぼんやりと街灯が光っているのが、なんだかもの淋しい感じだった。

 游子はコーヒーを一気に飲み干して、

「わたし、明日休みなんですけど。篠井さんは……お仕事ですか?」

 と訊ねた。

「わたしも休みよ。そうじゃなきゃ付き合わないわ」

「なら、今日はとことん付き合ってもらってもいいですか」

「わたしは元々そのつもりだったもの。じゃあ今日で終わらせるつもりで、ぱっぱとやっちゃいましょう」

 そんなふうに始まったレポートの作成は、ある程度の目処がついた時点で、なぜか酒盛りに変わってしまった。ちょっと休憩して軽く飲もうよ、なんて。わたしが声をかけてしまったのが、いけなかったのだと思う。

 それに、游子が思った以上にお酒に弱かったのも誤算だった。

 看護師は男も女も、大酒飲みが多い。前の病院の主任さんは、ワインのボトルを三本開けてもほぼ完璧なしらふだった。もちろん、飲めない人は全く飲めないものなのだけれど。

 游子はわたしの知る看護師の中で、お酒が飲めるのに弱い、という……どちらかというと例外的な女の子だった。だから、ペース配分を見誤ってしまった。

 今も耳まで赤くさせながら、テーブルに肘をもたせかけてちびちびと赤ワインを飲んでいて、わたしはどうしたものかと思案にくれていた。今日はもうレポートどころじゃないな、と。そんな游子を見ながら思った。

 それにいつの間に降り出したのか、窓ガラスの外側に細かな水滴が付いていた。遠い街灯の光に照らされて、眠り男が撒いた銀砂のように、あわあわと輝いている。

 雨の音はしなかった。

 部屋の明かりはお酒を飲み始めた頃から間接照明に変えて、全体の光量を落としていた。パスカル・ロジェの奏でるプーランクの陽気で、けれど少しだけ不吉なピアノ曲が、小さな音でステレオから流れている。部屋の明かりも自分の好きな気の利いた音楽も、せっかく後輩と部屋飲みするのだからと思って整えてみたのだけれど、もしかしたらそれがかえってよくなかったのかもしれない。

「……篠井さん」

 眠そうな声で游子が言った。

「篠井さんは、恋人、いますか」

「いません」

「じゃあ、わたしでもよくないですか」

「よくありません」

 まったく、何を言い出すのだろう。酔っ払いの戯言には、付き合っていられない。

 時計を見ると、すでに夜中の二時を回っていた。とっくにバスも電車もなくなっている時間だ。タクシーだって捕まるかどうかわからない。自分の家に職場の人を呼んだのは初めてだし、こんな時間まで同僚と飲んだのも初めてのことだったので、どう対処したらいいものかと思案にくれていた。

「眠いです」

 むにゃむにゃと、猫が甘えるような可愛らしい声で游子が言った。

「床にごろんしてもいいけど、お化粧くらい落としなさいね。クレンジングは貸してあげるから」

「やです。今すぐ寝たいんです」

「……子どもみたいなことを言わないの」

 わたしが彼女の肩に手をかけると、游子はその手を、そっと振り払った。

 そして、

「篠井さんがレズだって噂、本当ですか」

 と訊ねた。

 わたしはそのときにふと、昼間病棟の休憩室で見た、政治家の不適切発言についてのテレビニュースを思い出していた。何かの会合の席だったのだろう。その政治家は悪びれもせずに、我が国は連綿と続く単一民族国家でありまして、などと話していた。比喩でもなく、逆説的なジョークでもなく。テレビ番組の識者は……当たり前だけれど……発言に眉をひそめ、批判的なコメントしていた。

 わたしはお弁当をつつきながら、ぼんやりとその画面を見ていた。

 游子の発言を聞いたときに感じた気持ちは、そのとき感じた気持ちに、似ていたように思う。

「それ、ハラスメントだからね」

 とわたしは言った。

「馬鹿なことを言ってないで、寝るなら早く寝ちゃいなさい」

「それは噂を否定するってことですか」

 わたしは何も答えずに黙っていた。

 游子はその後も何かむにゃむにゃと訳のわからないことを言っていたが、そのうちとうとうテーブルに突っ伏したまま、寝息をたてて眠ってしまった。

 部屋の外ではやわらかな雨が降り続いていた。静かに、とても静かに。スピーカーから流れる音楽は、いつの間にかベートーベンの弦楽四重奏に変わっていた。iPodに収められた膨大な楽曲が、時間を平坦に、緩やかにしていく。

 わたしはグラスに残ったワインと、游子の寝顔を交互に見ていた。

 そして、改めてマイノリティーであるということを思った。都合のいい物語の中の登場人物ではいられない、自分自身を思った。

 無責任な発言は、誰かの心を傷つける。それはわたしかもしれないし、あなたかもしれない。自分は正しい、もしくは圧倒的多数の側であるという思い込みは、必ずひずみを生む。

 オレンジ色の光を受けてグラスの底に沈んでいる、今のわたしのように。

 わたしはスマホを手にとって、少し恨みがましい文章を姉あてのLINEに送った。

 既読がつかないのは、最初から、わかっていた。

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