第10話

 それはとある水曜日の午後だった。冬間にぽっかりと浮かんだ穏やかな陽気に包まれて、わたしは雪とデートしていた。

 わたしはマフラーを外しながら、お店の前の日なたに並んだ鉢植えの、その青々とした植物の葉に、優しく指を這わせている雪の後ろ姿を見ていた。

 右手にはいつもの白杖を持ち、左手はわたしの腕から離れて、硬く艶やかな大ぶりな葉を撫でている。

 その指の動きがあまりにも優美で……わたしは思わず見とれてしまっていた。リバよりなタチであるわたしであったが、あんな風に撫でられたならきっと気持ちいいのだろうな、と思ったのだ。

「ハイネさん?」

 雪がわたしを振り返り、わたしの名前を呼んだ。

「どうしてわたしをじっと見ているんですか?」

「……わかるの?」

「わかりますよ、そのくらい」

 雪がくすくすと笑う。笑みにつられるように、小春日の風が彼女の髪を小さく揺らしている。

 雪の傍らを吹き抜け、わたしのところに届いた風は、ほのかに甘い、ミルラに似た優しい彼女そのものの匂いがする。

「雪の指先を見ていたの」

 わたしは答えた。雪は少し曖昧な、やわらかな笑みをその頬に浮かべている。

「指、ですか」

「ええ。あまりにも綺麗だったから」

「わたしの指……」

「さっき鉢植えの葉を撫でていたでしょう。なんだか植物に嫉妬してしまうくらい、官能的な指使いだったわ」

 わたしが言うと、雪はちょっとだけ目尻を赤らめて、ハイネさんはそういうことばかり言うんですね、と返した。

「そういうことって、どういうことかしら」

「……意地悪を言わないで」

 雪がわたしに向かって右手を伸ばす。わたしはそっとその手を自分の手のひらに迎え入れる。

 ああ。この手が、この指が、わたし以外の誰かを愛することがあるのかと思うと胸が締め付けられるようだった。横隔膜にコールタールがへばりついたみたいに、うまく呼吸ができなくなる。

 そんなわたしの心を知ってか知らずか、きゅっと握りしめようとした雪の指先は、わたしの手のひらから逃れ、もう一度離れていった。彼女の指先は蝶のように舞い、再び緑の上で楽しげに踊っている。

 約束していた日のデートを、游子との食事に当ててキャンセルしてしまったお詫びに、わたしたちは雪の希望で植物園に来ていた。都心から少し外れた場所にある、埋立地を利用した、そういうところである。

 ぐるりと温室をまわり、エキゾチックな香りに包まれながら、いろいろな植物に触れながら歩いた。熱帯植物の部屋は暑いくらいで、ランの部屋は逆に少し肌寒かった。仕切られた区域ごとに匂いも違う。わたしは雪が足を止めるたびに立て札の説明を読み上げた。これはジャカルタのなんという植物で開花時期は夏の終わり頃で白い五角形の花が咲いて……などなど。雪は指先の感覚と、匂いと、そしてわたしの説明を耳にしながら、植物を感じていた。肌で。視覚以外の全ての感覚で。知るということは、こういうことなのだと。改めて思わされる気分だった。

「ここは、どんなお花のお部屋ですか」

 扉をくぐったとき、雪がわたしに訊ねた。その部屋はそれまで以上に華やかで、色にあふれていて、ほとんど目の見えない雪にも、少しだけその有り様が伝わったのかもしれない。

「ベゴニア室、って札が出ていたわ」

 わたしは答えた。色とりどりのベゴニアが、籐で編んだ籠に植えられて、天井から吊るされている。わたしたちの目の高さに、花が咲き誇っている。赤。黄色。オレンジ……。まだ蕾のものもあるが、ここの部屋では一年中花が楽しめるように展示がしてあるのだと、設置されたプレートに書かれていた。

 光がきらきらと乱反射していた。中央に据えられた水盤に、幾つもの大輪の花が浮かんでいる。

 その様子に見とれていると、

「ベゴニアって、花の色で花言葉が違うんです」

 と雪が言った。そういうのは薔薇だけかと思っていたわたしは、そうなの? と小さく声を上げた。

「はい。でも、どの色の花にも共通している花言葉は、『片恋』なんですよね」

「片恋……片想い、ってことかしら」

 こんなに、薔薇の花を思わせるような明るい花なのに。どうして片恋なのだろう。

「ベゴニアの葉の形。左右非対称でしょう。歪んだハートの形。どちらかだけが強い思いを宿しているから……そういうことみたいです」

 雪がわたしの肘から右手を離し、そっと指先を伸ばして、空中を探るように、ベゴニアの葉に触れた。確かにベゴニアの葉は、いびつなハートの形をしている。わたしは雪の横顔に、何かを見た気がした。切ないような、苦しいような、何かを。その何かに、けれどわたしは上手に名前をつけることができなかった。

 そして、園をぐるりと一回りして、今は併設された販売所に来ていた。大小様々な植物が鉢に植えられて、所狭しと並べられている。温室に入ってすぐにコートは脱いでいたが、外も珍しくマフラーさえいらないくらいの暖かさだった。

 とても楽しそうにしている雪を見ているのは、わたしも嬉しい。けれど、どうしてわたしなのだろう。……夫と来たりはしないのだろうか。と、そんなことを考えていた矢先のことだった。

「あ、気をつけて。それ薔薇よ。棘があるから」

 わたしが慌てて言うと、雪の指が空中でぴたりと静止した。いけない。嫉妬で、文字通り目の前が見えなくなっていた。今のわたしは雪の目の代わりなのに。そう思って自分自身を恥じた。

「……薔薇?」

 雪がそっと顔を近づけて、匂いを確かめている。そして、恐る恐る指を伸ばし、その薔薇に触れた。

「冬だもの。まだ蕾も付いていないのだけれど。咲くのは……もっとあと、春になってからだそうよ。秋にも返り咲く、って書いてあるわ」

「花の色は何色ですか」

「白。中心部がほんのりと杏色……アプリコットピンクに染まるのですって。まだ新しい品種だそうよ」

 わたしは枝に付けられた説明書の札を見ながら、そう答えた。

 雪はちょっと考えてから、

「……クラリス、ですか」

「えっ、すごい。どうしてわかったの?」

 確かにその薔薇の札にはクラリスと書いてあった。

 驚いて少し大きな声を上げると、雪は苦笑して、たまたまです、と答えた。

「花が白くて、中心はほのかな杏色に染まるって、ハイネさんがおっしゃったので。それにこの子、半蔓薔薇でしょう? だからクラリスかなって思ったんです」

「雪は花にも詳しいのね」

 わたしがそう言うと雪は少しだけ困ったような、苦しげな表情を浮かべた。そして沈黙した。

「雪?」

 雪はわたしの方にそっと顔を寄せ、ソナタを奏でるピアノの、最後の音が鳴るように。

「お花……特に薔薇は、品種によっては強い匂いがするじゃないですか。それならわたしにも、楽しめるから」

 小さな、かすかに震える、溶けてしまいそうな声で、そう言った。

 わたしは雪の手を取った。しっかりと指と指を絡め、今度は逃さなかった。

「ハイネさん?」

「この薔薇。育てやすい?」

「ええ。うどん粉病なんかの病気にも強かったはずです。……けど、どうして?」

「わたしの住んでいるところの中庭に、植えようかと思って。……面倒を見る手伝いを雪もしてくれないかしら」

「……お家にお邪魔してもいいの?」

 つないだ手のひらに、熱がこもった気がした。

「ちょっと年数のいった集合住宅の一階なのだけれど。中庭をね、ある程度自由にできるから。駅からも近いし……離れられなくて。雪が来てくれるなら、わたしは嬉しい」

 それは半分本当で、半分嘘だった。

 雪が来てくれるのは嬉しい。でも、離れられないのは、利便性ではなくて、そこに別れた彼女の痕跡がまだ、かすかに残っているからだ。野良猫が庭にやってきて、二人で餌をあげたこともある。小さな濡れ縁に並んで座って星を見たことも。あの場所がそれら全てを記憶している。わたしの心の傷と同じように。彼女がいなくなった今でも。

 でも。それではいけないのだ。

 ずっと彼女の幻影を追って、生きていくわけにはいかないのだから。このあいだ志子が泊まりに来たときに、改めてそう思った。

 ……生理用品が同じだったくらいで、あんなに動揺してしまうなんて。思ってもみなかった。だいたい、そうやって過去に縛られ続けるのは、元カノにも雪にも失礼だ。

「……ハイネさんはきっと、モテる女のひとなんだろうなって、思っていたんです。だから、わたし以外の誰かの影を見つけてしまうのが、知らない人の匂いを感じてしまうのが、怖かったんです。……結婚しているわたしが言うのもなんですが」

 雪の目尻は、ほんのりと朱を帯びて、西日にきらきらと輝いていた。

「本当は雪にも同じものを送りたい。離れていても、わたしを感じてもらえるように。一つの木に花が咲いたら、もう一つの木にもきっと同じように白い花が咲くわ。花が咲くたびに、薔薇が甘い匂いをさせるたびに、わたしを思い出して欲しい」

 わたしは雪をぎゅっと抱きしめながら、耳元でそう囁いた。売店で花を見ていた客たちが、遠慮のない視線でわたしたちを見ていた。構わない。構うものか、とわたしは思った。きっと物珍しい見世物か何かだと思っているのだろう。どれだけ苦しい思いをしながら雪を抱きしめているかなんて、想像もつかないのだろう。

 雪の顔に頬を寄せると、思いの外冷たいその肌に、わたしはなんだか泣きそうになった。どうして泣きそうになっているのか、自分でもよくわからなかったのだけれど。

「でも、あなたに薔薇を送ったりしたら、雪の旦那さんに勘ぐられてしまうかもしれない。だから、わたしの家で、一緒に薔薇を育てましょう。わたしたちの……ふたりのしるしに」

 わたしは言った。

 雪が小さく頷いた。

 雪からそっと体を離すと、その隙間に小さな風が吹いた。やわらかくて暖かかったけれど、それでも冬の風に違いなかった。

 そしてふと、雪はまだ子どもを欲しているのだろうかと、気になってしまった。もちろん、

 ……訊ねたりはしないけれど。

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