第8話

 わたしの姪は、少し風変わりな子だ。

 名前を志子ゆきこという。大きくて黒目がちな、澄んだ目をしている。じっと見つめられると体が透けてしまって、反対側まで見通されてしまうのではないかと思うくらい、花純とはまた違った意味で目の圧力が強い子だった。親戚の中ではわたしのことをなぜか不思議と気に入っていて、ふらりと泊まりがけで遊びに来ることが、これまでにも何度かあった。わたしも志子のことは好きだった。好かれているから無下にはできない、ということではなくて、生前……一度も双子の姉とわたしを見間違えなかったから、というとてもシンプルな理由で。

 姉が病を得るまでは、父親だって時折わたしと姉を間違えたものなのに。

 でも、彼女といると疲れることも多かった。

 突飛な発言もそうなのだけれど……まるで占い師にこれからのことを占ってもらうときのように、どこか緊張してしまうような、こちらが身構えてしまうような、そんな雰囲気をいつもわたしは彼女に感じてしまって、そのことをちょっと苦手にしていた。

 おまけに中学三年生だというのにすでにわたしよりも背が高くて、並んで立つといつも見下ろされてしまうのも、わたしの苦手意識に拍車をかけていたように思う。

「今日はどうしたの? お母さんと喧嘩でもしたのかしら」

 わたしがコーヒーを入れて彼女の前に置くと、制服姿の志子は小さく首を傾げて、

「生理になったから」

 と答えた。長い時間外にいたせいか、志子の顔は青白かった。

「生理になったからわたしに会いたいと思ったの?」

 わたしは訊ねた。志子はただ、こっくりと頷いて見せただけだった。

 生理とわたしの部屋の前でわたしの帰りを待っていたこと。その二つのあいだにどうしても整合性のある答えを見つけられなかったので、わたしは志子と同じように黙って、微笑んでいた。志子は首を傾げたまま、どうしてわかってくれないんだろうというような目で、わたしをじっと見ていた。

 志子はわたしが仕事から帰ってくると、わたしが借りている部屋の前で、まるで餌をねだりに来たよそ猫のように、寒風の吹き荒む中、小さく膝を抱えて座っていたのである。

 ……小さくと言っても、十分存在感のある大きさだったのだけれど。

 初めは暗がりにうずくまっているそれが人だとは思わなくて、何がもごもごと蠢いているのかとめちゃくちゃびっくりしたのだけれど、志子の母親……父方の年の離れた従姉である……に電話をしたりしているうちに、最初の驚きは遠退いて、なんだかどうでもよくなった。

 それはそれとして、わたしは昨日のカラオケ店でのことがまだ尾を引いていて、じっと志子に見つめられると、あのときの場面を今まさに覗かれているみたいに感じて、少しだけいたたまれない気持ちになった。もちろん最後までしたわけじゃない。カラオケ店の個室でそんな破廉恥なことができるわけがない。それでも志子の視線に感じた心は、恥ずかしいという気持ちに、やっぱりちょっとだけ、似ていたかもしれない。

「おばちゃん」

「……おばちゃんじゃない」

「お姉ちゃん」

「何?」

 志子はマグカップを両手で持って、ふうふうと何度も表面を吹いた。黒い小さな波が立って、マグの中でコーヒーがゆれた。

「志子ね、生理用品を変えたのよ」

「……うん」

「だから来たの」

 なにが「だから」なのか、さっぱりわからなかった。傍らに座って、その長い艶やかな黒髪を撫でると、志子は猫のように目を細めた。

「あ、お姉ちゃんのお姉ちゃんにお線香あげなきゃ」

 志子はおもむろにそう言って、次の瞬間、わたしの手からするりと抜けて行った。隣の部屋からお鈴の鳴る音が微かに聴こえた。志子はすぐに戻ってきて、再びわたしに頭を差し出した。わたしは小さくため息をついて、もう一度、彼女の髪を撫で始めた。

 黒猫、と思う。

 彼女は本当に、猫のようだ。しなやかで、のびのびとしていて、自分の興味のあることにしか関心を示さない、わたしには理解の及ばない美しい獣。そんな存在が自分に懐いてくれているというのは、どこか誇らしく思える。

 以前、わたしは志子に聞いてみたことがある。

 どうしてわたしといるのが好きなの、と。

 たしかそれは、誰かのお葬式での出来事だったと記憶している。わたしは喪服を着ていたはずだ。父方の叔父だっただろうか。それとも……誰だったのだろう。母方の親戚でないことだけは確かだった。でも……焼香の匂いと蝉の鳴き声だけはあれほどはっきりと覚えているのに。遺影に誰が写っていたのか、まるで覚えていない。

 志子はこういった場では極度の人見知りで、俯いたまま誰とも目を合わせず、声をかけられてもほとんど返事をしない。そんな中にあって志子は、わたしにだけは不思議と懐いた。私立小学校の制服姿の彼女は黒いワンピースを着たわたしの側を、片時も離れなかった。

 なぜ自分の母親ではなく、わたしの双子の姉でもなく、……わたしなのか。不思議だったのだ。

「おばちゃんの……」

「お姉ちゃん」

「お姉ちゃんの心の中には、不安がないのがわかるから」

 と志子は言った。お寺の裏の竹林からは、蝉しぐれが、まるで雹でも降るような激しさで、夏の空を覆っていた。そのうえ風もなくて、うだるような暑さだった。

「不安がないってどういうこと?」

 とわたしは首筋の汗を拭いながら訊ねた。

 わたしにだって人並みくらいの将来への不安はある、と思っていて、だから志子の発言が、よくわからなかったのである。

「お姉ちゃんはりんごを買うとき、一番になにを思う?」

「……りんごってどうして一年中あるのかな、とかかしら」

「本当に、最初にそれを思う?」

「多分」

「そういうところ。志子がお姉ちゃんを好きなのは、そういうところよ」

 志子は微笑みを浮かべたままわたしの腕をきゅっと掴んで、額を寄せた。彼女の説明は全然わからなかったし、りんごの質問の意図も全く理解できなかったし、納得もできなかったけれど、志子の体温が冷たくて気持ちよくて、まあいいか、そういうことにしておこうかな、と思ってしまった。

 ……そう言えば。

 姉は……あのとき、本当に葬儀の席にいたのだろうか。

 姉の姿が全然思い浮かんでこない。記憶の中から抜け落ちている。あるいはすでに体を壊して入院していたのだろうか。あの当時の頃のことは全てがひどく曖昧で、思い出そうとすると頭の芯がずんと重くなってしまう。記憶の井戸の蓋に、決してどけることのできない重石が乗っているのを、自分でも感じていた。

 わたしが頭を撫でる手を止めて、難しい顔をしているのを見た志子は、大丈夫よ、と言った。

「大丈夫。お姉ちゃんの中には、不安がないもの」

 と。とてもやわらかな、優しい笑顔で。

 志子のマグカップがいつの間にか空になっていた。猫舌だと思っていたのに。いつコーヒーを飲み終えたのだろう。それほど長いあいだ、わたしは考えて込んでいたのだろうか。

「もうちょっと飲む?」

「いらない」

 と志子は言った。

「それよりもお話をして」

「お話?」

「うん。……お姉ちゃんのお話。どんなのでもいいから」

 わたしは苦笑して、生憎と手持ちがないの、と返した。志子はきょとんとして、恋バナでいいよ、と言った。それがさも当然であるかのように。

「恋バナとか……志子も興味あるの?」

「もちろん。花の女子中学生だもの」

 花の女子中学生って微妙に語呂が悪いな、と思ったけれど、わたしは茶化したりはしなかった。わたしだって志子と同じくらいのときには、恋や恋すること自体に、うつつを抜かしていたのだから。

 もっとも、わたしが好きなるのは決まって女の子だったのだけれど。それに……今だって人妻にうつつを抜かしているわけなのだけれど。

 ……恋バナ。恋バナ、か。

「誰にも言わないって約束できる?」

「うん。誰にも言わない」

「わたしね……今、好きな人がいるの」

「どんな人?」

「目の見えない人」

 志子は何も言わず、ただ首を傾げている。

「白杖ってわかるかしら。目が見えない人が杖をついて歩いているのを見たことはある?」

「うん」

「いつもその杖を持って歩いている人。とっても……綺麗な人よ」

 風が強いのか、窓ガラスがカタカタと鳴った。冬の小人がその小さな手でノックをするように。そしてそのとき、ふと思った。

 わたしは雪のことをどれだけ知っているのだろう、と。

 音楽が好きで歌がうまい。わたしよりもちょっとだけ背が高い。ミルラに似た甘い匂いの香水をつけている。夫がいる。でも、わたしと付き合っている。

「《眼がなければ見えない以上、眼は視覚の器官だが、同時に眼は視覚の障碍である》」

 と志子が言った。

「本当だと思う?」

「……それ、誰の言葉?」

「アンリ・ベルクソン」

 わたしは考えた。本当かどうかという前に、その言葉がいったいどういう意味を持つものなのか、わからなかった。何かの隠喩なのだろうか。それともそれはある種の哲学的な真理なのだろうか。

「目が見える、ということは、限界を規定してしまう……ということかしら」

 わたしが言うと、続けて、と志子が先を促した。

「見える範囲には限界がある。けれど、世界はその先まで、ずっと続いている。わたしたちは目で物を見る以上、それを超えることができない。だから目は視覚の限界を規定してしまう障害となり得る」

 誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。……そう言ったのは、確かショーペンハウアーだったと思うのだけれど。

 志子は何度かうなずいたあと、

「じゃあ、目が見えない人は、限界を超えられると思う? 目が見えない人は目が見える人よりも遠くを、正しいものを見られる?」

 わたしはそれを聞いて、なんだか禅問答のようだと思った。ただ、見えない人は見える人よりも遠くが見えるのか、正しいものが見えるのか、という志子の問いは、胸にいつまでも残り続けた。

「……志子はどう思う?」

 そう訊ねてみると、志子は小難しい顔をして、自分でわかったら質問なんてしないんだよ、と答えただけだった。

 それからわたしたちは近くのファミリーレストランで夕ご飯を食べた。寒くて風の強い、星のきれいな夜だった。冬の大三角が頭上できらきらと輝いていた。カシオペア座も北極星もしっかりと見えた。けれど星の瞬く夜空を見上げていると、理由はわからないが胸にぽっかりと穴が空いてしまったように思えて、泣きそうになるのだった。

 もしかしたらそれを察したのだろうか。志子は帰り道、ずっとわたしの手を握ってくれていた。不思議な子だな、とわたしは思った。志子の手は冷たくて、冬そのもののように乾いていた。……わたしを繋ぎ止めてくれている、優しい手だった。

「オムライスが美味しかった」

 繋いだ手を大きく振りながら志子が言った。

「お姉ちゃんは作れる?」

「オムライス?」

「うん」

「玉子が、ね。こう……広がらなくて」

「じゃあ、練習しなきゃね。好きな人に食べさせてあげられるように」

 わたしはそうね、と苦笑しながら返事をして、そして、雪がわたしの手料理を食べているところをぼんやりと想像した。それは取りも直さず、わたしの部屋に雪がいるというシュチュエーションを想像することでもあった。

「ところでお腹は痛くないの」

「お腹?」

 志子は不思議そうにわたしを見下ろしていた。……その見下ろされるのが、わたしのプライド的にはちょっとばかり苦痛なのだが。

「志子、食べすぎた?」

「違うわ。そうじゃなくて、生理になっちゃったのでしょう」

 今生理は何日目なのかと訊ねると、二日目だという。ならば出血量もそこそこ多いだろうし、わたしは比較的軽いほうだけれど、多かれ少なかれ生理痛だってあるだろう。腰の周りの重だるい感じだって、あるかもしれない。ナプキンを長い時間つけていれば蒸れたりだってするだろう。それともそういった痛みや不快感といったあれこれを、志子はあまり感じていないのだろうか。きょとんと首を傾げている姿を見ると、そんな風に思える。

 案の定志子はすっかり忘れていたと言って、小さく笑っていた。

「今日は泊まっていくの? 明日の学校はどうするの?」

 ため息まじりに訊ねると、志子はちらりとわたしを見て、なんでそんなことを聞くのだろうという、不思議そうな表情を浮かべた。

「今日は土曜日で学校はお休み。明日も日曜日でお休み」

「あ、あれ? でも、ならどうして制服なんて……」

「外出時には制服を着用することって、生徒手帳に書いてあるもの」

 こともなげに志子は言って、わたしを唖然とさせた。そういえば志子が私服で訪ねてくることなんて、ほとんどなかったのだ。それからわたしは曜日を失念していた自分がとても馬鹿みたいな気持ちになって、アパートにたどり着くと自分のコートと一緒に、彼女の学校指定の重たいピーコートも脱がせた。

 彼女を先に浴室に入れ、志子が以前泊まって行ったときに置いていった下着などを用意しているとき、ふとクレンジングルームの棚を見ると、そこに自分のものではない、生理用のナプキンを見つけた。薄い包み紙に印刷された羽のロゴマーク。夜用の。多い日用の。羽根つきの。見覚えがあって、わたしも何度か用意してあげて、でも、自分では一度も使ったことはないもの。

 ……それは、出ていった彼女が使っていたナプキンだった。間違いない。見間違えるわけがない。なぜなら彼女はお風呂に入るときにはいつも、そこの棚に、同じ場所にナプキンを用意していたのだから。今、浴室にいるのは誰なのだろう、そう思った。そう思うと胸の奥から少しずつ苦い何かが染み出してきて、指先がだんだんと痺れていった。

 違う。

 同じもの、同じシチュエーションに思えるけど、でもやっぱり違う。

 だって、今更そんなものが残っているわけがないのだ。彼女のものは全部捨てたのだから。何もかも、捨てたのだから。週に一度は必ず棚の整理だって、しているのだから。

 だから……だからそれは、志子のもの。志子が変えたという、新しい生理用品。だからここにいるのも、志子だ。

 でも。志子は最初、なんて言っていたのだったか。

 生理になったから、生理用品を変えたから、うちに来た……?

 嘘だ。偶然の一致だ。そんなのはただの偶然で、なんの関係も、運命的な何かみたいなものも、あるわけないに決まっている。

 頭ではしっかりと理解していた。ありえることとありえないことの違いくらいわかっていた。理性の声は、ちゃんとわたしにそう言っている。

 でも、でも。

 ……心が、感情が、それを全部否定して、合理的な考えを拒否していた。

 わたしは志子の使うシャワーの音を聞きながら、しばらくのあいだ、何も考えることができずにいた。

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