第8話
「…経凛々、何が言いたいか…わかってるよねぇ。」三階のバックヤードの階段のすぐそばが、仏具置き場です。左右の端に馨子や木魚を置く棚と、香炉や線香、燭台と小さな鳴り物類の入った棚があります。昨日きっちり釘を差した木魚達磨と乳鉢坊は、素知らぬ顔で棚に収まっています。香炉や燭台に隠れるようにして、普通の印金に紛れようと、小さくなっている経凛々 を見つけ、私は背後に隠していた
「ひぃっ!ひぇぇっ!」どうやって分泌しているか不明ですが、脂汗のような液体をどこからともなく垂れ流しながらジリジリ小刻みに後ずさりしていく経凛々 。私は鏨を持ったままの手に、『がしっ。』と奴の持ち手部分を握りしめます。
「…逃げられるとでも思ってるの?」先刻から断続的に聞こえている『チリチリチリチリ…』という音が、急にスピードアップします。もはや『チリチリ…』ではなく『チリリリリリリ』になっています。持ち手の部分まで振動が伝わってくるほどです。私はテーブルの上に経凛々を横倒しにして置き、鏨を奴の金属部分の中央にあてました。
「自分が今日、やらかしたという自覚はあったんだよねぇ?経凛々 ?」
「ひぃぃっ!お、お、お助けぇぇー」ガクガク震えだして鏨に当たり、『チリチリ…』が、『ジリジリ…』になり、脂汗的な謎の分泌物は振動でテーブルに飛び散る状態です。
「…このまま鏨で真っ二つにぶち割られるのがいいか、鋳とかして延べ板に戻されるのがいいか、どっちにする?前にも言ったでしょう?せっかく居場所が見つかったのに、馬鹿なことしてすべて台無しにするつもりならここで私が始末つけてやってもいいんだけど。」これははっきり言って本心です。人型をとって社会に溶け込んで生活できるアヤカシと違い、
「つい、楽しくなっちゃったんだよぅー。あの新人坊主があんまり緊張してたからさぁー。もー絶対やんないよぉー。堪忍してくれようー。」『ジリジリ…』という音と謎の分泌物を撒き散らしながら、経凛々は必死に謝り始めました。私の本気の殺気を感じとったのでしょう。残った二体にもさすがにマズイと察知してか固唾をのんだような気配があります。だって、私は外見上『歳をとる』というような器用な変化が出来ませんので、この職場に居られるのもせいぜいあと2、3年です。彼らは私なしでもここで『平穏に』暮らしていってもらわなくては。
「…ふぇっくしょいー。そこらで手打ちにしておいてやりなされ。隠摩羅鬼の。」
棚の中から気の抜けたくしゃみと共に嗄れ声が話かけてきました。私が連れてきた三人の他に、実はここには先住者が居たのでした。
非常に貫禄のある見た目のモノノケですが、僧侶は基本的に自分専用の仏具として持参するので、忘れたり、破損したりといった非常事態にしか出番のない付喪神、『
「…次はないからね!経凛々!あと残りの二人も!やらかしたら火にくべてやるからね!」後難を避けるためにも再度釘を差して置きます。まだまだアヤカシの人生『?』長いんですからね。
経凛々が撒き散らした謎の分泌物の始末をして、奴を棚に片付けて、時刻を確認すると現在19時少し前です。そろそろ事務所に戻って当直業務しましょうか。
事務所に戻る途中の階段の下から、三階の騒動の気配を感じたのか、覗きこんでいたモノに安心させるために微笑みかけて、事務所の扉をあけます。まだ御池氏は当直室でドラマを見ています。ホワイトボードにも何の変化もありません。トイレから戻る風に、ハンカチで手を拭きながら席に戻って食事を続けましょう。サラダを食べ終えた頃、ドラマが終わったのか御池氏が部屋から出て、事務所の流しに向かいます。いつもなら冷蔵庫の愛妻弁当を取り出してレンジで温めるのですが、今日は珍しくカップ焼きそばの支度をしています。私の意外そうな顔を見てとったのか、御池氏は気まずそうに焼きそばのお湯を流しに捨てながらうつむき加減に何か早口で言っています。
「…え?何でした?」ステンレスの流しの温度急変の音にかき消されて単純に聞き取れなかったので、私が聞き返すと、
「いや、たいしたことじゃないが、…女房が、娘と仲直りするまで弁当なんか作らんというもんだから…。」と言いにくそうに呟く御池氏。どうやら昼間の小鳥さんの情報が正しかったようですね。恐るべし女性の情報網。ですが、ここは知らないふりで更なる情報の収集に勤めましょう。
「…娘さんと喧嘩されてるんですか?」
「…そうなんだよ。」少ししょんぼりしている御池氏、珍しいものを見ました。一人娘だとは聞いていますが、男親ってこんなふうですかね。不思議です。
「それはまた大変ですね。」とりあえず同情してみましょうか。人間の反応は時々予想外で驚かされます。
「…大変というのか…、女二人に対して男は俺一人で、女同士が結託して 居場所がないのがなぁ…。」本当にそれだけでしょうか。
「何が原因なんですか?」パートさん情報の真偽がはっきりしますね。
「…別に大したことじゃないんだけどよ。」そういうふうに思っているから解決しないんですね。自分は大したことじゃないと思っていることが相手側には『大したこと』だという価値観の相違こそが世の中の紛争の原因の大部分をしめているのです。これは長引くでしょう。私が会話を切り上げようとして体の向きを変えると、難しい顔をした御池氏と目が合いました。
「…何ですか?」何か言いたい様子なので、あえて聞いてみます。
「……鶴羅、お前幸せか?」疑問符が飛び回るのが見えた気がしますね。大分昔のTVCMで某前歯がチャームポイントのお笑い芸人が歌って踊るポン酢のCMを思いだしてしまいました。『しあわせーって何だっけ〰️🎶』というあれです。私はCMソングを唄いながら踊るお笑い芸人を脳内でねじ伏せながら顔面の筋肉を総動員して、真面目な顔で、無難な答をひねりだします。
「……まぁ、自分が不幸だと思ったことはありませんが。」それにしても、一体どこからその質問が出てきたのでしょうか。
「…そうか。…悪かったな。」そして何故謝罪の言葉に繋がるのかもわかりません。私の顔面筋肉が疑問符を押さえ切れなかったようですね。御池氏が呟きます。
「…いや、昔散々お前に『結婚せんのか』って言ってたがな、女はやっぱり結婚して幸せになるのが一番と思っていたんだよ、俺は。というよりも親として、娘は嫁に出して当たり前で、そこまでが一人前の親だと、思っていたからな。だからいい年して独身なんて、可哀想なもんだと思って心配して言ってただけなんだがな。けど、まぁ、何が幸せで何が不幸かは他人が決めていいもんでもないからな。嫌だったろうな。」そういう繋がりかたでしたか。どうやらパートさん情報は本当にかなり正確なようですね。そして人間の価値観は堅固に見えても案外甲殻類の脱皮のように変化させることが可能なものだというのがわかってかなり驚かされました。
「…そうですね。私は別に結婚に必要性を感じていながら実現できずにここまできてしまった訳ではないですし。結婚するしないが幸不幸の基準になるとは思いません。そういうものはたとえ身内でも押し付けられるものじゃないと思いますけど。少なくとも私は幸せですし。」今までお会いしたことはありませんが、御池氏の娘さんにエールをこめて断言してみましょうか。
「…そうか。そうだよなぁ。押し付けられるものじゃないか。…明日帰ってからでもちょっと娘にも謝ってみるか。」御池氏の愛妻弁当復活は近いかもしれませんね。
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