六 音が死んだ 花火は音もなく咲いて、静かに枯れて溶けてゆくのか

 ― 音が死んだ 花火は音もなく咲いて、静かに枯れて溶けてゆくのか ―




 ある朝目覚めると、音が死んでいることに気がついた。

 アラームの鳴る前に目覚めた、静かな朝だ、と思って起き上がったはいいが、スマホを開くと、アラームの設定時間を五分ほど過ぎている。あれ、アラームに気づかなかったのか、とか思いながらスマホを握っていると、突然スマホが静かに激しく振動を始めた。音がしない。マナーモードの設定をいじってみたり、設定音量を上げてみたり、いろいろ試してみるが音は鳴らない。そんな急に故障することもあるのか、仕事帰りに携帯ショップに寄ってみよう、そんなことを呑気に考えながら薬缶を火にかけてテレビを点けた。こっちも音がしない。何かがおかしいぞと、どうしようもない焦りがふつふつと湧いてくる。顔の近くで何度も手を叩き、ドライヤーを耳元に近づけ、ギターをめちゃくちゃに掻き鳴らし、ようやく自分の方が壊れたのだと解った。解ったころには薬缶のお湯が吹きこぼれていた。


 音のない春を新生活の気分で過ごした。今まで普通にしていた通話も、道路を行く車の音も、人の声も、宅急便のチャイムの音も、火にかけたハンバーグが焦げる音も、何も聞こえない新生活は、戸惑うことばかりだったが、余計な喧騒も忘れられるから、と前向きに捉えることにした。思えば、泣く子に怒鳴り散らす部外者の声、渋滞した道路で飛び交うクラクションの音、不愉快な音をこれまでどれだけ聞かされてきたのだろう。もう何も聞かされなくてよい。受動的であることから解放されて完全に自由になれたんだ、という解放感を握りしめて放さなかった。


 春も梅雨も静かに過ぎ、夏は静かにやってきた。生活にもだいぶ慣れ、暑さに少し肌のひりつく感覚を覚える以外は特に変わらなかった。暑さの半分は音なんだな、と思った。

 日は音もなく沈む。気がつけば部屋は暗くなってきていて、真夏のど真ん中の日曜日は一瞬にして溶けてゆく。そろそろ慣れてきた無音調理をこなして、食事を終え、二十時頃には寝支度を終えてしまった。音がなくなるだけで、なぜか生活リズムも健康になっている。不便もあれど、なかなか悪くはないものだ。

 と、窓の外を見遣って、不意に涙が零れた。視線の先では、夜空に咲き誇る大輪が、音もなく溶けていくところだった。

 花火の音がしない、と慌てて窓を開けてベランダに飛び出した。食い入るように見つめ続けても、咲く音も、枯れる音も、もうなにも聞こえなかった。

 花火は音とともに咲き、音とともに枯れるものだった。今までそれに全く気付くことなく、夏のうるさくて少しきれいな風物詩くらいに軽く流していた。毎年どこに居ても見られるから、と花火の生き様に真剣に向き合うこともなく、何千本もの花を目の前で枯らしてきた。いざ音無しで見てみると、花火はただの火でしかなくて、ネオンの光の輝きにも蛍の光の寿命にも勝ることはない。そうしてあの音を、もうすっかり忘れてしまっている。

 劣悪な押し花と成り果てた花火は、金属製の錆びた栞のように心でつっかえたまま捨てられなくなってしまうのだろうか。




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