五 五月雨にひとのたたずむ早水瀬 いはねど祝ふ人の心は

 京の北には御室川といふ川あり。御室の川のみなかみには権中納言定孝の領じ給ふところなる花園ありて、中納言の太郎君なる翡翠かわせみの君、いとけなきころより住まひ給ひけり。


 ある日、よはひ七つなる翡翠、乳母子の早瀬をともなひ侍りて、御室の川をのぼりぞし給ひける。しばらく往き給ふと、霧、にはかに濃く立ちのぼりけりて、来しみちもしりあへず、あひ泣きののしり給ふ。さるほどに、肌のいと白くすかぬばかりのげにうるはしき白装束のもの、名を白縄と名のりて、「我、ここらをたびたび通り侍るものなり。みやまの霧にかどわかされしまよひ子の君ら、我が汝らの住まひしところまでみちびき給ふ」と翡翠らを院までみちびくと、こころざしひとつ給はらずかへる。乳母らは、「狐か狸かにこそはかられ侍りけれ」ととりあへざりけれど、翡翠、ゆめ思しうたがはず。

 後日、白縄のもとにふたたび翡翠とぶらひ給ふ。翡翠、白縄をこのかみのように思い侍りけるのか、翡翠のこと、中納言のこと、花園にてすごしはべること、とやかくやと、いと親しく語らひけり。かくて、翡翠はことにふれて白縄のもとへかよひ給へり。


 さて、年ごろ経るほどに、翡翠のおひまさり給ふにつれて、ゆくすゑは世に成り立たむと官位をこそ給はり侍りまほしけれ、などと言草つもり、白縄、いと困ず。立つか立たぬかの世など由もなく、さること語らふにつけてもはかばしからざるが、官位や世のことをまなびつとむ。

 さらに年ごろ経て、翡翠、みかどより官位を給はり侍りてのち、白縄をとぶらはざりたり。


 翡翠、よはい十七となりて、雨のそほ降る五月のある日、にわかに白縄をとぶらひ給ふ。いろのつゆ移らざる白縄、いみじくよろこびてむかへ、ものがたりなぞしけるが、翡翠やをらに、左大臣の中君と契り給ふ由をあらはして、「我、これまで汝にねんごろにあつかわれ侍りけり。かく契りのことも汝によるものとぞ思ひ侍る。なにとぞ、祝ひ侍り給へ」と言いけり。白縄、はかなく笑みて、ことぶきし、はじめて見えしときのやうに院までおくり奉りてのち、かくれて泣きけり。

 白縄、なみだがはを流しつつ変化を解きて、白蛇のすがたに戻りたり。尋常なるままではおよばぬ恋路としりてなほ、翡翠のこのかみのごときをのことしてもてなしたりける白蛇のをとめは、「官位をこそまなびしとき、ともにまなびしものなり。さりとて、わが思ひの内をながめ尽くることの、いと難きこと」とて、


 五月雨にひとのたたずむ早水瀬

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