四 ぬかるんだ夕立暮れの泥道を踏み固めるな 私の道だ

 ― ぬかるんだ夕立暮れの泥道を踏み固めるな 私の道だ ―




 かれこれ三年ほど、毎日こうして海辺の崖上に通い詰めている。海岸線沿いに走る公道の途中にある誰も使っていない駐車場の、右奥の鉄柵が壊れたところからこっそりと入ることのできる、何もない辺境のこの町で一番綺麗な場所。過疎を極めるこんな田舎では、この道は車すらろくに通らない。当然この場所に入ってくる者も誰もいない。しかし、鉄柵から崖までの間には、三年間ひとりで踏みしめた末の、獣道のように細く土の露出した線が引かれている。それに気づいた日から、僕は白線だけしか踏めない子供のようにずっとその線上を歩くようになった。


 ときどき、はじめてここに来た時のことを思い出す。自転車営業のフランチャイズのコンビニで無賃残業に日々の生活を預け、だけどどうしようもなく疲れて、丑三刻の家路に車を走らせていたある日の話だ。この町には金も人も職も何もないが、ひとつだけ美しいものがある。海だ。砂浜がないので観光収入にもならないが、ここで毎日生活をしていても、綺麗だと思わなかった日は一度もない。あの日は海が一段と魅力的に見えた。

 真夜中の海の魔力に魅かれて、空っぽの月極駐車場に無断で車を停めた。少しでも海に近づこうと車から降りて奥まで行くと、鉄柵が一部壊れていることに気が付いた。ラッキーだ、と思った。ツイてない人生だったから、最後くらいはこんなラッキーに遭ってもいいよな、とも思った。最高に美しい夜の海は、崖上から飛んできた僕の身体を優しく受け止めて、そのまま遠いところに送ってくれると思った。海の寛容さに、母の面影を感じた。

 たしかにあの日の夜の海は母だったのかもしれない。結果から言えば、僕は飛べなかった。道を走っていた時は月灯りを反射した美しい海だったものは、崖から覗き込むと真っ暗な闇だった。母のような怖さと底の見えなさに、膝をついて下を覗き込んだまま一歩も動けなかった。

 それ以来、毎日通い詰めては死ねるチャンスを探している。どうせ死ぬならここがいいと何百回も思い、飛ぶのを何百回も諦めた。ホームセンターに寄って練炭を買ってきて、未だに燃やせていない。煙草には何度でも火を点けられるのに、七輪に入った練炭には点かないまま今もトランクに積んである。

 それから転職して、だいぶまともな時間に帰れるようにはなったが、こんな田舎では相変わらずだ。なんなら待遇はさらに悪化している気もする。けれど、夕焼けに染まる海を見られるようになった。夕焼けじゃ飯は食えないが、毎日ここに来る理由はできた。


 今日は退勤直前にひどい夕立が来た。この町は降水量が少ないが、必ず毎年一回夏の夕立が来る。その時は決まってひどい雨になるのだ。

 夕立はすぐに上がり、陽暮れの西日を真横から受けながら海沿いの帰り道を走った。いつもの駐車場に着くころには、太陽の下の方が水平線にかかっていた。

 車を降り、鉄柵の間を抜ける。ひどい雨に地面はぬかるんでいた。いつかこんなぬかるんだ日に足を滑らせたりなんかして、意外と呆気なく飛ぶことになるのだろうか。そんな無様な死に方をしたら海に怒られる気がして、このぬかるんだ道を明日からまた踏み固めてやろうと思った。


 夕立、夕暮れ、のち夕餉。


 それから寝て、もう一度夕暮れに戻ってくるのだ。



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