第32話 切るものと繋ぐもの

 




【高校生 三年水鳥 麗・二年木村 冬眞】


 今日は高校三年生の卒業の日だ。

 つまり麗は今日で卒業し、大学へ進む。

 刺す様に冷たい空気。まだ朝は光が届き切らない暗さを残していた。赤と黒のマフラーを靡かせて苛立ったように歩く。改めてこの辺りの風景を見つめ直した。

 見慣れた木の配置、錆びた鉄柵、歪んだ道路、いつもと同じ風景が広がっていた。

 麗は昨日のことを考えながら、足早に通学の途中にある冬眞の家に向かっていた。

 嫌な胸騒ぎ。


 ――こんなもの、持っていたらいけないのは解っているけれど……


 果物ナイフをポケットに入れていた。すぐ出せるように。

 ストーカーの件で冬眞とは少しだけギクシャクしていた。そんな冬眞が現れてわざわざあんなことを言っていたものだから、麗はますます嫌な予感がしていた。

 冬眞は無事なのだろうか。まだ朝の7時台。まだ冬眞は眠っているかもしれない。

 それでも、早く会わないといけない気がしていた。卒業したら、もう一緒に登校することもなくなってしまう。


 ――これが最後の日になるかもしれない。


 冬眞の家に麗が到着したときは何もなかった。別段動物の死骸が置かれているわけでもなく、他に何か異変があるわけでもない。

 麗は少しだけホッとしたが、すぐさま辺りを見回した。ストーカーの中年男性がいないかどうか。


「…………」


 ガチャリ。冬眞の家の玄関が開く音が聞こえた。そちらを振り向くと、冬眞のお母様がゴミ袋を持って出てきた。


「あっ、びっくりした。麗ちゃんおはよう。今日卒業やんね? おめでとう。冬眞のこと迎えに来てくれたん?」

「おはようございます。驚かせてしまって申し訳ございません……冬眞君、まだ寝てらっしゃいますよね」

「起きてるよ。外寒いやろ。中入って待っててや」


 私はもう一度辺りを見渡した。不安な気持ちが消えない。そんな様子を見る冬眞の母親の心配そうな顔に麗は気づかなかった。


「お邪魔します」


 麗の声が聞こえると、まだ寝癖を直していない朝食の途中だった冬眞は手が止まった。冬眞の母が麗を中に通そうとする声に、麗は玄関で大丈夫ですと答える声が聞こえる。

 冬眞は立ち上がって、家着のまま玄関を見に行くと麗と目が合った。

 寒そうにマフラーに顔を半分埋めて不安そうな顔で冬眞を見つめる。


「……おはよう」

「おはようございます……」


 言葉が途切れる。互いに目を逸らす。お互い昨日のことを思い出していた。双方が言っていた言葉を双方が思い出す。

 けして交わらない言葉だ。


「朝早くごめん。一緒に学校行こう」

「はい。すみません。急いで準備します」

「いいよ、急がなくて」


 なんだか、会うことすら今日が最後になってしまう気がした。

 何の根拠もない漠然とした心の中に沈む不安。昨日見たのは幻覚だったのだろうか。しかし、あまりにも鮮明だった上に、麗は幻覚を見るような薬も病気もない。直前にそういう怪しいものを口にした記憶もなかった。

 麗がかじかんだ手を握っていると、冬眞がバタバタと準備を終えたのか二階から降りてきた。見慣れた制服姿の冬眞だったが、寝癖はそのままな上に、ボタンも掛け違えていて、焦っている様子が容易に見て取れた。


「すみません、お待たせしました」

「…………こっち、きて」


 麗は冷たい手で冬眞の寝癖を手櫛で軽く整えた。

 ボタンも掛け違えているところを一つずつ直していく。冬眞は恥ずかしそうに目を泳がす。後ろで冬眞の母が笑いながら見守っていた。


「行こう」

「はい」


 麗と冬眞は玄関を出て、外の冷たい空気に抱かれた。吐きだす吐息が白く凍てつく。二人を同じ空気が包む。


「あのさ……私……もう周りに振り回されて冬眞とのこと、ぐちゃぐちゃにされたくない」

「………………」


 歩調が重なる。ゆっくりとした時間に置いていかれそうな歩調。


「冬眞が嫌なら、私はもう卒業だし……冬眞と関わらないけど……」


 意地悪を言う訳ではないけれど、それも麗の本心でもあった。半分の方。もう半分は勿論、冬眞と離れたくないという気持ちがある。


「そんなこと……!」


 冬眞が声を少し荒げたのを見て、麗は横目で冬眞を見た。そして視線を前方にすぐ戻す。


「私といると、冬眞が変な目で見られたり、茶化されたり、今回みたいなことになって……」

「それは……麗さんのせいではありません」

「……そうだね。私のせいではないよ。でも、周りは私と冬眞を放っておいてくれない」


 麗はポケットに入れていた手を凍てつく外気の海に晒し、冬眞の細い手の小指を握った。冷たさとわずかな体温が交差する。

 冬眞は緊張して手が震える。


「それでも……私は冬眞のこと好きだから……傍にいたい」


 温度のない声。

 冷静な、まるで冬の銀世界のような静かな声。冬眞は小指を掴んでいる麗の手を握り返した。手をつなぐ恰好となる。


「……今度は、僕が守る番ですね」


 意外な冬眞の言葉に麗は驚いた。いつも麗の後ろを自信なさげに歩いていた冬眞が、麗の手を引くように少し前を歩いている。

 冬眞の背中は、もう頼りない子供だった頃とは違う。麗はそんな冬眞の背中を見て、少しだけ安堵を得た。


「ねぇ、今日の帰り久々に一緒にどこか行こうよ」

「はい」


 まだ寒い冬であるにも関わらず、二人の周りだけは早い春が来たかのような空気が包んだ。




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