第31話 『月が綺麗ですね』と『死んでもいいわ』
【水鳥 麗 再 四回目】
高校生の木村冬眞が刺される前日にやってきた。
季節は冬だ。空気が冷たい。3月らしい寒さを感じる。
手っ取り早くストーカー男を上手く誘導して犯罪行為を強いて、警察に逮捕させるのが楽ではあったけれど、根底的なところがまず駄目だ。
木村冬眞はストレス耐性が脆弱すぎる。
私との関りで多少はストレスの逃げ場があるのかもしれないけれど、その私の方も未来永劫続く自殺念慮のせいでいつ自殺してもおかしくない。
正直なところ、私の方も木村君の方も一日で簡単にどうにかなる問題ではない。自分と木村君なのに、客観的に見てこんなにも
――結局いつも、私たちは不安定だな……
一先ず、マスクと帽子で私が当時の私だと錯覚させるようにふるまうことにした。木村君の家の前の付近で待っていると、高校生の木村君が不安げな顔で帰ってくる。
私に気づくと、驚いて私の方を見る。
「麗さん、なにしているんですか! 危ないですよこんなところにいたら!」
『危ない』とは、やはり連日の嫌がらせで危機感を感じているのだろう。猫の遺体が家に届いたら誰だって恐怖を感じる。
「木村君、聞いてほしい。こっちへきて」
「……はい」
木村君に私は
「え……なんですか、これ?」
「竹刀」
簡潔に言うと、私は木村君に汚れてもいい服に着替えるように伝えた。木村君は何が何だか解っていないような顔をしていたけれど、私の言う通りに着替えてきた。
前の公園で私は竹刀を構えて木村君に向き合う。
「木村君、私は君に……君自身に強くなってもらいたい。いつまでも私が君の傍にいる確証はない。あらゆる困難から自分で身を護らないといけない」
願いを込めて、私は木村君に語りかける。
「麗さん、何を言っているんですか……?」
戸惑っている木村君が私に疑問を投げかけてくる。
「私の言っている意味が解らなくてもいい。でも、これを乗り切っても、またいつでも木村君は何度も何度も傷つけられる機会はある。だから、今から訓練しよう」
「えっ……そんな――――」
私は素早くかけよって、容赦なく竹刀を木村君の首にピタリとあてた。本当の刀であったなら、木村君は今死んでいた。
「今、一回死んだよ。木村君」
肩を強めに押して木村君を下がらせた。木村君はまだ戸惑った表情を浮かべている。戸惑っているのは、私も同じだ。
「やるしかないんだよ、周りの誰も助けてくれない。私でさえ、必ず助けてあげられる保証なんてどこにもない」
竹刀を空を切るように素早く振る。ヒュンッ! と空気が切れる音がした。願いを託すように、木村君に言葉を紡ぐ。
「君は脆すぎる。それが悪いとは言わない。繊細なのは君のいいところだと私は思う。でも、君は脆いままじゃダメなんだ。防がないと、これが本物の刀なら死ぬよ。ほら、それを構えて」
公園は、誰もいない。私たち以外は誰も。下は芝になっているから、転んでも怪我はしない。
どのくらい時間が経ったのだろう。
数10分? それとも数時間? 真冬だというのに暑い。
木村君は私を一緒に長い間竹刀を振っているのに、一向に私に打ち込んでくるそぶりを見せない。
防御はそれなりにできるようになってきた。しかし、圧倒的に何十回も木村君は私に竹刀を当てられている。
「防御に徹していたら勝てないよ、木村君」
いつまでも腑抜けている木村君の襟首をつかみ上げた。
「私が女だからって遠慮しているの? 殺す気で打ってきなよ。憎い相手だと思って」
「そんなことできないですよ……怪我をさせてしまいます……」
――君は……人を何十か所も刺し殺して、死刑確定するほどの罪人になる未来もあるんだ……
私はおかしくて笑ってしまう。
やっぱり、君は優しい。どこまでも。それが好きなところでもあり、罪なところでもある。
襟首を掴んでいた手を離して、木村君の服を整える。
「…………私はただ、君を護りたい。でも君は私を何度も何度も助けてくれたよ。私もけして強くない。でも、私も強く生きるから、君も強くなってほしい」
私がここで生きることを誓っても、記憶を失ったらそう思うことができるだろうか。不安で思考が支配される。
「……麗さん、今日……どうしたんですか……?」
「此処が分岐点なんだよ。木村君」
ここが乗り越えられたら、きっと私たちは強くなる。
そう、強くならなければならないのは、私も一緒。君となら生きる意味も掴める。自殺念慮とも決別できる。
今まで、自分が傷つきたくないから、木村君を傷つけないようにしてきた。
でも、それは間違い。
互いに傷つくことでしか解り合えないこともある。
「……これだけは……憶えていてほしいことがあるんだ」
「なんですか?」
「私は……――――――――」
◆◆◆
【木村 冬眞 残り5時間32分】
絶望とは、望みが絶たれることを言う。
今までの記憶を失った僕らがどうなっていくのか、考えると恐ろしくて仕方がない。
確かに僕には人を殺した記憶が微かに残っている。それは永遠に僕が償っていくべき罪だけれど、それでも麗さんが支えてくれたから僕は今まで自我を保っていられた。
自殺した麗さんの後を追うように僕は自殺した。それが、罰なのだと思えば当然だ。誰かの大切な人を殺傷した。大切な人を失うつらさを僕はまざまざと体感し、その罪の重さを知った。
耐えられなかった。僕は弱い。
しかし、麗さんも本当は強くはない。垣間見える弱さと気丈さは、安定しない。
拘置所の生活と、そこに届く麗さんの手紙には影があった。面会に来てくれる顔にも陰りが見えた。当時の僕には理解できなかったけれど、今なら解る。
あんな顔をさせてしまったことも、何もかも悔いる。
人生を本当にこれでやり直せるなら、今度こそ……正しい方向で生きたい。そう思えるのは、僕が今まで生きてきた記憶があるからだ。
今日は僕が刺される前日だ。前日に来たが、もしかしたら今日くるかもしれない。
僕は『永遠』の続きを、高校生の麗さんが自宅へ帰ってくるまでの間に最後まで読むことにした。麗さんがかけた願いを、僕は知りたい。
67ページ。
〈別たれた道を戻れるのなら、晃はどのような
もしそこで振り返る勇気があったなら、もしかしたら道は違っていたのかもしれない。互いが互いの為に、気持ちを殺す以外に両者に選択する術がなかった。いや、違う。選択する勇気がなかったのだ。
深い愛情はときに、相手の意思とは関係のない方向に働く。その深い愛情が自らの心と深く結びつき、その愛情を護りたいという心が働く。愛情とはときに鋭いナイフとなる。そしてときに、その刃が自らの手を血で濡らすことになるのだ〉
麗さんは、僕を救ってくれたあとに僕を突き放した。それは小夜と晃のような心境だったのだろうか。
いや、今の僕らもそうだ。互いの為に自分を永遠に犠牲にし続ける。
更に暗い気持ちになりながらも、ページをめくる。
81ページ。
〈その言葉の意味を知ったとき、晃の目からはさながら
夏目漱石は『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳したが、ロシア文学のツルゲーネフ著『片恋』では二葉亭四迷は『ваша(Yours、){(私は)あなたのものよ}』を『死んでもいい』と訳した〉
――死んでもいいわ。
声が鮮明に蘇る。
戸惑いと、憂いと、悲しみと、愛情がすべてその言葉に含まれていた。
この本に出てくる晃のように、涙が目に浮かぶ。
「なんでこんな遠回しな言い方……」
本当は、理解できていた。子供であった僕に「私はあなたのもの」と言えない気持ちと、それでも僕を愛してくれていた麗さんの精一杯の言葉だったのだろう。
この本の二人と僕らはあまりにも似ていた。
涙が落ちないように僕は何度か瞬きをして、その続きを読み進めていった。
最後の一ページ。
〈晃は今すぐにでもその細く白い手を握り、走り去りたい衝動を懸命に抑え、ずっと言えなかった言葉を小夜に渡した。
「月が綺麗ですね」
夕刻、大きな赤く燃えるような満月が地平に登っていた。小夜は困ったように微笑みを浮かべ、あのときと同じ言葉と気持ちを返した。
「死んでもいいわ」
そうして二人はすれ違う。両者ともに振り返ることはない。それを最後、永遠に二人の時間は別たれた。そしてそこには、永遠の愛だけが空に浮かんでいた〉
堪えきれずに僕は本を閉じた。涙が溢れないように懸命に堪える。
僕の決意は固まった。
――絶対に僕らはこうならない。絶対に僕は麗さんと別たれたりしない。永遠の愛なんて、そんな綺麗なものじゃなくていい。ただ、僕は麗さんと一緒にいたい。
「冬眞? こんなところでどうしたの……? え? 何その髪の毛。カツラ?」
帽子とマスクをして、髪の毛を束ねている僕を見て、高校生の麗さんはそう尋ねてくる。襲われる前日に僕は会いに来た。
長かった髪を切った高校生の麗さんは、今の麗さんそのままにも見えた。
今すぐにでも抱きしめて、想いを伝えたい気持ちが込み上げる。しかし、それを強引に抑え込み、できるだけ静かな口調で告げた。
「麗さん、聞いてください」
「…………」
長い睫毛の下の目が僕を映す。
「なんというか……口下手で申し訳ないんですけど…………僕は麗さんに生きていてほしいんです」
「……突然、どうしたの?」
訝しい顔をしながら、麗さんは僕の顔を真っすぐに見つめてくる。
「今まで、沢山……僕のこと助けてくれて、救ってくれて、支えてくれて、本当に感謝しているんです。でも、麗さんは危なっかしいと言いますか、自分を大切にしていないんです。そこが良いところなんですけど、でも……僕は麗さんに自分のことを大切にしてほしいと思っています」
不器用に言葉を重ねても、伝えたいことが麗さんに伝わっているかどうか、不安になる。
「……大切にしてるよ」
いつも、顔を逸らして麗さんはそう言う。自分のこと大切にしているっていつも言うけれど、それは僕にとっては自分を大切にしているようには到底見えない。
「麗さんの考えは複雑すぎるんです。結局は自分のエゴですることだとか、善意の押し付けだとか、難しいことを考えすぎなんです。そういう意味で大切にしてほしいわけではなくて、僕が言っているのは、純粋に……自分を大切にしてほしいんです」
麗さんは考えるように少しの間沈黙した。
「…………どうしてそんなことを突然言うの?」
突然ではない。いつも、いつも僕は麗さんに言ってきた。自分を大切にしてほしいと。結局麗さんは一度も自分を大切にしてくれなかった。
「麗さんに……自殺念慮があるのは知っています。僕にはそれがどんな気持ちなのかは……解りません。でも『生まれて初めて、生きていて良かったって思った』って、僕に言ってくれたなら、僕のために死ぬ道ではなくて、僕のために生きる道を選んでください」
拘置所にいる僕に、そう言ってくれた。あの時は意味が正確には解っていなかったけれど、今ならわかる。
それだけ麗さんにとって僕は、救いだったんだ。僕が麗さんに救いを見出したのと同じくらい。
なら、互いの為に死ぬ未来ではなく、互いの為に生きる未来を選びたい。
「…………私、生まれてきて良かったなんて、冬眞に言った覚えないけど……」
「………………」
視線を逸らして、遠くを見つめる。栗毛色の髪の毛をかき上げながら、どこか物憂げな顔をする。やはり、ダメなのだろうか。何度でも繰り返してしまうのだろうか。
「言ったことはないけど、そう思ったことはあるよ。君に逢えて」
クールに笑いながら、僕の顔をまっすぐ見つめる。
――あぁ、やっぱりだ……
やっぱり、そのあどけなさの残る年齢にも関わらず、その中には静かな鋭さがある。
「やっぱり……昔からズルい人です……」
「え? なにそれ? ていうか、本当にその髪どうなってるの?」
麗さんは髪に触れようとすると、僕の首元についているネックレスを見つける。
「それ……私の好きなバンドの……ラファエル、好きなの?」
「いえ、随分前にいただいたんです」
どれほどこの小さなネックレスに、心支えられたか解らない。
「ところで……麗さん、ラファエルって、何の天使かご存知ですか?」
あの時の問いを再度、彼女に投げかける。
「確か、癒しの天使でしたよね」
「守護分野に『精神障碍者』があるんですよ。自殺者の前に現れ、救うようなこともあるのかも知れません」
だから、私は麗さんが一番最初に僕を『ラファエル』と言ったときは驚いた。ただ、本人はバンドの名前を付けただけだと言っていたが、こんなことですら僕は因果めいたものを感じてしまう。
「どうかお気をつけて」
「何? 冬眞……どうしたの?」
僕は引き留める麗さんの声を振り切って、戻った。
僕がよく知る彼女の元へ。
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