第27話 32ページと信頼

 




【木村 冬眞 十五】


 麗さんが出て行ってから、僕は落ち着かない気持ちでいっぱいだった。

 お風呂上りの麗さんを見て、その後に急に押し倒されて……僕はその考えを頭から追い出そうと必死になっていた。

 そんなこと、考えている場合ではない。これは真剣なことだ。よこしまな考えをしている場合ではない。

 しかし、彼女の身体のいたるところについていた傷痕を僕は見逃さなかった。やけに白い肌の表面には無数の自傷行為による傷痕があった。それは腕だけではない、身体中そうだった。

 そんなにも苦しんでいた彼女を僕は本当の意味では救えなかったのではないかと考える。


 ――傍にいられたことなんて、ほんの少しでもなかった


 長くても一夜を共にした程度。いつもけして『傍』にはいられなかった。

 僕はため息をつく。落ち着くために、手に持っていた『永遠』を読み始めた。本には附箋がついていて、麗さんが言っていたページ数を憶えていなかったが、おそらくこの附箋のページが部屋の文字が、あの部屋の壁に書かれていた文字なのだろう。

 その附箋のページを開く。32ページ。


 〈「いかがしました?」

 小夜が声をかけると晃は驚き、手から本を落とす。慌てて向き直り、小夜に深々とこうべを垂れる。

「小夜様、大変失礼いたしました」

 落とした本を小夜が優美に拾い上げ、その薄い本を読み始めた。それは簡単な子供が読むような童話の本であった。文字が大きく、美しい絵がページを飾っている。ラプンツェルと表紙に書かれている。

「童話がお好きなの?」

「……いえ、お恥ずかしながら、私は文字が不得手ですので勉強にと思いまして」

 羞恥と憂いを纏い、晃が小夜にそう告げると小夜は笑顔で晃にさえずるように答えた。

「では、私が教えましょう。ちょうど、時間を持て余していたので」

「私は召使です。小夜様にそのような――――」

「私がそうしたくてするのだから、気にしなくていいのです。好意を素直に受け取ることも礼儀だということを覚えておきなさい」

 強い口調であるが、しかしその裏にある不器用な優しさは晃の胸に溶ける。幼少期に奴隷市に出された晃は優しさを感じずに育ってきた。その凍てついた心の一角が、少しだけ溶かされたような感覚があった〉


 麗さんの言葉とかぶる。僕が拘置所で遠方からくる麗さんを気遣う言葉を言ったときに


 ――私が木村君と話したいから、気にしないで。


 何度も彼女はそう言ってくれた。僕が安心できるように、何度も、何度も。僕がその一節を見て考えていると後ろから、トンと肩を叩かれた。驚いて僕は軽くとびあがる。


「あ、ごめん。驚いた?」


 麗さんの声が聞こえる。一瞬飛び上がったがすぐに落ち着き、戻ってきたことを確認した。


「……仕返しですか?」

「え? あぁ、そういうつもりはなかったんだけど……驚かせてごめん」


 冗談めかして言ったつもりだったのだが、真剣に謝ってくる麗さんに少し悪い気がしてくる。

 僕らはちぐはぐだ。僕がずれているのは感じるが、麗さんも別の方向にずれている。おかしな具合に交差しない。


「恐らくこれで、私は父に引き取られて木村君を同じ小学校、中学校に行っているはず」

「そんな簡単に行くものなんでしょうか」

「うちの父は、そういう人だから。大丈夫」


 自信ありげに、父親を信頼する麗さんは僕にとっては意外だった。

 信じられる人がいないと言っていた僕とは根本的に違う。麗さんには信頼できる友達がいる。僕にはいない。麗さんがすべてと言ってもいいほど。

 それなのに、麗さんは僕のために命を賭けてくれた。

 僕なんて、何もないのに。僕に沢山書いてくれた手紙には、僕に生きる意味を見出してくれたと記されていた。


 ――どうして?


「麗さん……どうして僕のために色々してくれたんですか?」


 麗さんはすっかり乾いた髪を触りながら、僕の方を見た。少し癖のある髪だ。


「どうして……? んー……色々理由はあるけど、もう、自分でもよく解らないよ。君が好きだから。じゃ、ダメかな?」


 僕には、それが納得できない。


「麗さんには大切にしているご友人もいますし、他にも大切にしていることとか、ものとか、あるんじゃないんですか……?」


 僕がそう問いかけると、麗さんは少し口元に手を当てて考えていた。ほんの数秒。


「あるよ。でも、私は……私の生き方は、私の友達なら解ってくれる。信じているから。お互いの生き死にっていうものには干渉しない。っていうのが私たちの暗黙の了解だから。……あー、でも、幼少期に京都に行ったら会わなくなるのか。まぁ……でも、私たちは会わなくても繋がっていると思う。本当の友達っていうのは、そういうものだと思うんよ」


 ズキリと心が痛む。

 だったら、だったら尚更、捨ててなんてほしくなかった。僕にないものを持っているのに、僕のために簡単に捨ててほしくなかった。


「そんな大切な人たちを捨ててまで……僕は……何も持っていないのに……」


 うつむく。髪の毛で視界が遮られ辺りが暗くなる。


「あなたが一番なの、とでも言ってほしいの?」


 少し強い口調で、麗さんがそう言う。僕が顔を上げて麗さんを見ると、少し険しい顔をしているように見えた。


「それは一見優しさのように見えて、そうじゃない。君は私と同じで臆病なだけ」


 怒っているわけではなく、静かに諭すような口調。


「別に木村君は、私が過去のあの時に途中で投げ出してもけして責めたりはしないとは思う。でも、きっと木村君は『あぁ、あの人もそうだったんだ』って思うだけ。私はそうだった。そう思わないと自我を保っていられないから。木村君がそう思うか、それを自覚するか解らないけど、その苦しさが解るのに、それから目を逸らすことはできなかったし、意地でも私のことそんな風に思わせたくなかった」


 悲しそうな顔をして、いう言葉に偽りがないことだけは感じる。


「そんなことでって思うかもしれないけど、それは理由の一つでしかないけど。……だから……あー……なんていうか……もっと自分に自信持ってほしいっていうか。木村君が私に自分のこと大事にしてほしいって思っているのと同じような気持ちで、私は君に自信を持ってほしいっていうか」


 心の中に、暖かい何かが溢れるような感覚があった。

 凍てついた心を内側から溶かすような感覚。麗さんも、僕にこんな気持ちを感じて助けてくれたのだろうか。

 何も言えず、僕は麗さんの目を見ることもできず、目頭が熱くなる。


「まぁ……上手く言えないんだけど。善意を押し付けるのは好きじゃないけど、でも私が私の為に好きにやってるだけだから。『木村君の為にしてあげてる』みたいな感覚でいるわけじゃない」


 苦笑いでそう言う。

 手紙に、何度も何度もそう書いてくれていたのに、どうしても信じられなかった。麗さんは僕を信じてくれていたのに。


「納得できたなら、次の分岐点に行こう。次は……中学のときかな。木村君が……その……イジメを受けていた時期。見るのは……つらいだろうけど、日にちは解るから」

「……行きますよ。でも、校舎に入るなら僕ら、部外者ですからどうするつもりなんです?」

「確かに……じゃあ、保護者として行こう。スーツで……木村君、髪の毛縛った方がいいかもね」


 麗さんは僕の髪の毛を手櫛で梳かし、自分の右腕についているヘアゴムで僕の髪を結んでくれた。


「でも保護者っていう歳には見えないかな……一応私たち、まだ20代前半だし。教職の講師……には、見えないかな?」

「僕が……その、加害されたのは放課後の校舎裏なので、麗さんの下駄箱に手紙か何か入れておくっていうのはどうですか?」

「ラブレターみたいな感じ? じゃあそれでいくか」


 気は進まなかったが、僕は麗さんと共に『あの日』に行くことにした。




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