第25話 感謝と虐待
【水鳥 麗 十五】
私は黙って木村君が戻ってくるのを待っていた。見慣れた拘置所の外観や、前にある公園などを見ていた。
以前大型台風がきた影響で木が少し向かって左に傾いている。
色々なことがあったことを思い出した。記憶を取り戻さなかったら、何故木が傾いているのか、何故ラファエルと名付けた彼が会いに来るのか、そして彼が誰なのか忘れたままだった。
――でも……それは私が望んだこと……
来てほしかった。
会いたかった。
抱きしめたかった。
でも、
来てほしくなかった。
会いたくなかった。
私は彼が幸せになってもらう未来を望んだはずだ。その為に命を捨てたはずだ。その為に延々とむごい死を繰り返すことになっても、私は木村君の幸せには変えられないと思った。
――でも……木村君の幸せは私が描いていた幸せとは違ったのかな……
私がいなくても幸せになってくれていたらと思っていたけれど、そう自分が思いこんで自惚れていたのかもしれない。
白蛇との交渉の先に、本当に私たちの幸せというものはあるのだろうか。
そう考えていると白蛇が先に戻ってきた。
「おかえり。ダーリン」
ふざけ気味で、嫌味たっぷりに白蛇に言うと、明らかに不機嫌な様子で敵意と牙を向き出しな態度を見せる。
「お前が少しでも隙を見せたら、咬み殺してやる」
相当怒っている様だった。それも当然と言えば当然だろう。その不機嫌な蛇相手に、私はずっと懸念していることを尋ねた。
「……ねぇ、過去に戻って、もし上手くいったら私たちの記憶と意識はどうなるの?」
木村君には聞かせたくなかったことだ。きっと、彼は上手くいくと信じているだろうから。
白蛇の口から出た言葉は、案の定想定していた言葉が返ってきた。
「お前たちの記憶は消える。これまでの全てがなかったことになるのだからな。本来、記憶の持越しなど、ありえない」
――やっぱり、そう上手くはいかないか……
私は空を仰ぐ。
曇天だ。灰色の雲が
「それって、過去の私たちを救ったら、今の私たちは『死ぬ』ってことだよね?」
「そういう解釈もある」
それではまた同じことを繰り返してしまうのではないか。
これだけの記憶全てがなくなったら、私は木村君のことをよく知ろうともしないまま、また木村君は統合失調症を発病してしまうのではないか。
危険性を考えるなら、いくらでもある。
生きていくということは、常に危険と隣り合わせだ。選択を一回間違えただけで思わぬ方向に行ってしまう。
全然私が思っている筋書き通りに話は進んでいかない。でも、君はいつもそうだ。
「……前門の虎後門の狼って、まさにこのことだね」
私は独り言を言って木村君が帰ってくるのを待つ。
嫌だった。もう少し、あと少し、このままでいたい。今なら、木村君と一緒にいられる。楽しい時間を過ごせる。
けれど、今まさに拘置所にいる木村君は苦しみ続けている。そんなのもう嫌だ。一日でも早く解放してあげたい。
あの時に感じたそのつらさがそのまま胸を軋ませる。
――話すだけでも心の支えになってます。
その言葉だけが私の心の支えだった。
結局、私は自分の命の使い道を木村君にしただけ。それを木村君が助ける必要なんてなかった。
歪んだ私の過去で、木村君が現れた点で殺されたり、逆に殺し返してしまった後の転落人生の記憶もすべて蘇る。
通り魔に殺されたり、電車事故で下半身不随になったり、強姦魔に襲われたときに殺してしまったり……、何度も何度も木村君が助けてくれた。
長い年月、何十年私は生きたのだろう。その地獄の輪廻から木村君が解放してくれた。
「…………本当に酷いこと、言っちゃったな……」
あなたには関係ないでしょなんて、関係ないところなんて一つもなかった。
私が思いを巡らせていると、木村君が帰ってきた。手を見ると本を一冊持っている。
「おかえり、ハニー」
抑揚のない声でふざけて木村君に言うと、木村君は恥ずかしそうに顔を逸らす。
「記憶が戻った麗さん……軽薄です」
「これが素なの。本、読んだ?」
「いえ、まだです」
木村君が本を開いてページをめくろうとするのを私は止めた。目の前で読まれたら流石の私も恥ずかしい。
「ほら、過去に行くんだから本読んでいる場合じゃないでしょう」
「すみません。いつに行くんですか?」
「5回残っているとはいえ……根本的なところで、過去に戻ったときに過去の私たちを会わせるのが手っ取り早いと思うんだけど、どう?」
今までの経験則からして、今の私や木村君がどうこうするよりも、ならば当時の当人同士が出会う方がいいと私は考えた。
「5回って、戻れる回数のことですか?」
「そうだよ」
「僕は回数ではなくて、時間で契約したんです。24時間分の時間で移動できると……だから長く留まることは出来ません」
木村君がしきりに「時間がない」と言っていたのは、本当に『時間』がなかったからだったのだと悟る。
白蛇が封印され、力が抑えられていたせいで私と同等の契約は出来なかったのかもしれない。
「契約内容の変更は可能?」
白蛇に問うと「それは出来ない」と素っ気なく言われた。
そんな虫のいい話はないとは思っていたので、それは承諾するしかない。
「過去の僕と麗さんを会わせるって、どうするつもりですか?」
「私の親、私が幼少期に離婚しているんだけど、父親が京都出身なんだよね。だから、母親に引き取らせないで父に引き取られて、尚且つ木村君と同じ学校に通えるようにしよう」
木村君は少し考えるそぶりを見せて、疑問を呈する。
「でも麗さんは学年一つ上ですよね? 学年が違うと会わないんじゃないですか?」
「そこをうまく繋げるのが私たちの仕事でしょ?」
私は作戦を木村君に話し始めた。
まず母と父の親権争いで、父に有利になるよう母の暴力シーンの証拠を渡し、親権を父に付与できるようにする。
その条件として、木村君が通っていた小学校、中学校の区域に住んでもらうように交渉する。
その後、木村君と接触するように私の注意を誘導する。イジメられているところにうまく誘導して助けさせる。その後も木村君に注意を向けるようにして、うまいことやってもらう。
どうだ。この完璧な作戦は。
「本当に……そんな筋書き通りいくんですか? 麗さんのお父様はそんなに簡単に容認してくれるんですか?」
「確かに、この漠然とした作戦において、客観的成功率はかなり低いかもしれない。でも、私は私のことを熟知しているから大丈夫。あと、私の父は私と同じで破天荒だから」
「…………」
木村君は何とも言えない難しい顔をしている。不安に思っているのか、無謀に思っているのか。そんな顔だ。
そんなことはもう、考えていても仕方がない。なぜならばもう、始まってしまったのだから。やるしかない。
「私は長時間1日いられるけど、木村君はそうじゃないから、定期的な確認は木村君がしてくれないかな。私は待っているからターニングポイントになったら私が動くから教えて。木村君はあと何時間残っているの?」
「あと13時間47分残っている。今も着々と減っていっているがな」
白蛇がそう口添えた。では尚更早く行かなければいけない。
「じゃあ、まずは私の母の暴力シーンを納めないといけないから……ビデオカメラがほしい」
買いに行く時間がもったいないと感じたので、血液を代償にそれをもらった。
血液が抜ける度に、少し私はクラクラしてくる。あまりに血液を白蛇に与え過ぎたら私が動けなくなってしまうかもしれない。
「木村君にお願いしていいかな。証拠集めてきてくれたら、私が交渉するから」
「…………解りました」
「じゃあ、行ってらっしゃい。私、この辺のビジネスホテルに行っているから。そこに戻ってきて」
私は木村君が消えるのを見送った。
◆◆◆
ホテルにチェックインして私はベッドに身体を投げた。
色々なことが一気にあって、疲労が溜まっていた。記憶が戻り、色々なことを取り戻して、それでもこれが正しいかどうか迷う時はある。
「あのさ…………あの時は酷いことしてごめんね」
誰もいないホテルの個室空間で、私は白蛇に語りかける。白蛇は姿を見せ、私の顔を覗き込む。蛇の表情の変化については解らないが、機嫌が良くないことだけは解った。
「……何故謝る?」
私の読み通り、少し不機嫌そうに言う。
「何故って、悪いことをしたって感じているからに決まっているじゃない」
私の肌に滑らかな蛇の冷たい感触が這い、首元で白蛇は言葉を続けた。
「悪いと思っているだと? これほどまでに私を侮辱しておいて、謝罪など……」
「それについて私は悪いと思ってる。やり直す機会をくれた事には感謝してるよ……また木村君に会えたし。会わない方が良かったかも知れないけど」
素直にそう伝えると、白蛇は血のように赤い瞳で私の方をじっと見つめてくる。
「…………お前の心は誰よりも穢れていない。しかし、その反面お前の心は誰よりも傷つき荒んでいる。そんな状態であるにも関わらず、お前の精神は壊れない。あの男はお前と似ているが壊れてしまった。何故だ? 何故お前は私を従えられる?」
ベッドから見える天井の照明の模様を目で追う。じぐざぐになっている模様で、その一つ一つの行く先を私の目は追いかけた。
「……壊れているよ。とっくに」
「……そうだな、狂気とお前は長い間共存してきたのだろう」
小さい頃からの自殺念慮。
自傷行為。
生きる意味が見いだせない日々。
『狂う』とはなんだろう。私は狂っているのだろうか。
「ずっと壊れていると、これが普通だと思うんだよ。でもね、木村君はそうじゃないでしょう? 寂しいとか私は解らない。でも、きっとずっと独りで寂しくて、それがあなたを引き寄せた。それは木村君のせいじゃない」
私は自分の膝を抱きかかえた。私は私だ。他の人の精神状態は解らない。
しかし、自分が抱えている狂気を知っている。だから、他の人が持っている狂気も解る。
「私が彼に会わなかったら、彼は壊れたままだったのかと思うと、私が生きてきて良かったって生まれて初めて思ったよ。生きる意味を見つけるって、こういうことを言うんだね」
私は白蛇の艶やかな身体に手を振れた。
冷たく、なめらかな白い鱗の表皮。こんな風に触れるのは初めてだ。その真っ白な表皮から、何故か悲哀のようなものを感じる。
「あなたは生きる意味ってあるの? 私はあなたに酷いことをしてしまったけれど、本当に感謝しているんだよ。木村君が死刑を言い渡されたとき、私は本当に悪魔にも縋る想いだった。あなたのせいで木村君は壊れたかもしれないけれど、でも木村君が壊れなかったら私と彼は逢うことはなかった。できれば、恩返しがしたい」
しかし、逢わないに超したことはなかったかも知れない。
悲劇なんて、最初から起きない方がいい。知らなければいい。
それでも私は木村君に逢えて良かった。話ができてよかった。今になっても私は心の底からそう思う。
「私は……生きる意味などない。生まれた以上、死ぬまで生きるのが当たり前だ」
その感覚が解らない私には、それが羨ましく感じた。
「私はそう思えなかった。だからあなたや木村君が羨ましい。生きようとしていた姿が眩しかった」
私の命で木村君が救えるなら、命すら惜しくないと感じた。そんなに生きたいと彼が願うなら、私は簡単に命を差し出す。
抗えない運命を感じなかったわけじゃない。でも、それでも動ける機会をくれた。あのまま死刑を確定されていたなら、私は今ここにいられなかった。
「あなた……か。お前は、私に『名』を聞いてこないのだな」
白蛇は私から視線を逸らし、そして私の身体から離れ、ベッドに身体を降ろす。白いシーツと同化するような白い美しい鱗。
「名前?」
「今までの人間、全員が私の名前を訪ねてきたというのに、お前は私に名を訪ねたことは一度もない。なぜだ?」
「何故って……別に名前なんて興味ないから。例えば、名前の解らない花が咲いていたって、私はその花に名前を求めたりしない。ありのままの姿とか、香りや毒性を受け入れるだけだよ」
「………………」
白蛇は黙る。名前があるなら、呼べないのは多少不便を感じるところではあるから教えてくれてもいいのだけれど。
「そんなことを言ってくるってことは、名前っていうものに何かあなたたちは特別な意味を見出しているんでしょう?」
「私たちには名がない。存在の系統名称は人間が勝手につけたが、私固有の名称は存在しない。毎度、私と契約した人間は私の名を求めた。お前は契約違反をしたとき、自分の名前を名乗った。そんなにも名前というのは特別なものなのか?」
自分の名前を隠し通すことは、別に難しいことではなかったはずだ。でも、私は名前を名乗った。
本当の名前を木村君に呼んでほしかったから。
本当の名前を木村君に知ってほしかったから。
「人間として生まれた時から持っているものだから、特別な思い入れがあるんじゃない? 『自分』というものを、他者と明確に隔てる為に必要なんだと思うよ」
「そんなものは、名などなくても明確な隔たりは確認できるだろう」
私はそこで違和感を覚える。
この魔はなぜ蛇の姿をしているのだろう。自分を他を隔てるのに、やはり名前や、象徴がなければ他と自分を隔てることはできない。
「その姿は、あなたの本当の姿なの?」
「…………」
白蛇は物憂げに黙り込む。
「その姿はどう見ても蛇の姿だし。普通の人間は蛇を忌み嫌う。神聖なものか、あるいは悪魔の化身と言われていたりするけど。でも魔の者が実体を持つ時、何かの姿を借りなければならないのでは?」
私が疑問をぶつけると、白蛇はしばらく私を見つめた。その赤い目に私はどのように映っているのだろうか。
「……鋭い娘だ。確かに私の他の者は、実体を持っていないことが多い。ただの思念のようなものだ。私たちは人の善意と悪意によって生まれる。善意で生まれたものは『天使』などと言われ、悪意で生まれたものは『悪魔』と呼ばれる。そして善意と悪意両方が混在する特殊な者も生まれる。私はそれだ。私には名前がない」
「善意と悪意から生まれたんだ……じゃあ、私が名前をつけてもいい?」
名前がないというのであれば、別にあっても困らないだろう。いつまでも二人称で呼んでいるのも親しみというものがない。
「……お前の名前の命名感覚は信用できない。狂っている」
私はその毒舌を聞いて苦笑いする。白蛇とこんな話をするのは初めてだ。いつも、硬い話しかしてこなかった。
木村君のことしか考えていなかったので、あまりその存在そのものには興味がなかったからか、会話を楽しむということはしてこなかった。
「…………お前に憑いていると、こちらの気がおかしくなる。余計なことは考えるな」
白蛇は再び姿を消した。手に残るその滑らかな感触だけが残る。
――とはいえ『魔』に名前を与えるとなると、どんな名前が良いんだろう……
私は木村君を待っている間にシャワーを浴びようと、浴室に服を脱いで入った。腕の咬み傷に血液が凝固している。それを汗と一緒に洗い流し、身体を清めて浴室を出た。
バスタオルを身体に巻き、髪の毛から滴る水を目で追っているさ中、目の前に人影が現れて私は物凄く驚いた。
「うわっ!?」
「あっ……ごめんなさい!」
勿論それは木村君だったわけだけれど、突然のことに驚いて変な声が出てしまう。
木村君も私のバスタオルだけの姿を見て、慌てて視線を逸らし脱衣室から出て行った。
――あぁ……しまったな。これは気まずい……
私は髪の毛を軽くふいて、服を着用した。
部屋に戻ると、心底気まずそうにしている木村君がいた。目を泳がせて物凄く気まずそうにしている。
そんな反応をされるとこっちがもっと気まずい。
「その、故意ではなくて、下心があったわけではなくて……あの……」
「………………」
木村君に近づいて、彼の腕をとった。そのまま腕を引きベッドに押し倒す。
上に覆いかぶさり木村君の目を見つめる。私の濡れた髪からまだ
「今更でしょう? 前にしたこと覚えてないの?」
「…………」
顔を逸らして何も言わない。恥ずかしがっている木村君の長い髪の毛に触れる。ギシギシで手入れをされていない髪だ。しかし、私は彼のその髪が良かった。
チャラチャラと着飾って伸ばしている訳ではない、伸ばしいっぱなしの黒い髪。
――あぁ、こんなことをしている場合ではない。解っているのに……
私は木村君の上から離れた。
時間がない。時間がないからこそ、少し望むことをしてもいいのではないだろうか。
いや、こんなの私の望むことじゃない。
私は木村君に幸せになってほしい。それだけだ。私欲を肥やす道具のようには使いたくない。
「からかって悪かったよ。撮ってきた映像見せて」
何事もなかったかのように、私はドギマギしている木村君からビデオカメラを受け取り、映像を見た。
母が私を罵倒しながら、手を何度も何度もあげる映像が移っていた。何シーンか、別の日の記録がしっかりと残っている。
それを見て私は当然嫌な気分になった。しかし、こんなところを撮影していた木村君のほうがよほど嫌な気持ちになったであろうと、私は胸が
「……こんなところ、撮らせてごめん。ありがとう」
木村君はやはり苦虫を噛みつぶしたような顔をしていて、複雑な感情が彼の中に渦巻いているのだろう。
「………………それで、よくなってくれるなら」
「必ずするから。じゃあ、私は行ってくる」
髪の毛を乾かしもせず、私は幼少期の父の元へ行くことにした。
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