再戦

第24話 血文字と魔法陣

 




【木村 冬眞 十四】


 麗さんが涙を流して僕の方を見てくる。

 こんなときですら、彼女は美しいと僕は感じた。染めていないのに少し明るい髪の毛、一重と二重の境いの大きな瞳。すらりとした高身長、痩せた身体。病的に白い肌。

 何度見ても変わらない。

 その姿はこの場所には不釣り合いに見えた。

 拘置所の前は車がいくつか停まっているだけで、閑散としている。そこから奥には公園が見える。何人かが散歩をしている様だった。更に奥には大きな川があり、手漕ぎボートをしている人たちの掛け声が聞こえてきた。

 ここは麗さんがいつも見ていた景色だ。

 初夏の新緑芽吹く頃、眩しい日差しの真夏、葉が枯れて落ちるころ、冷たい雪が舞う真冬、指がかじかむ新年早々、そして桜の芽吹く春……春夏秋冬いつでも麗さんは会いに来てくれた。

 その度にここの変わる景色を見てきたのだろう。

 桜が咲いた頃は面会室に桜の花を摘んで持ってきてくれたこともあった。

 僕の誕生日にお祝いの花束を持ってきてくれたこともあった。

 いつも手紙をくれた。

 僕の為に遠くから通ってくれた。


 ――気づけなかった


 どれだけ愛されていたか、僕は気づかなかった。

 二回分の人生の記憶が戻ったとき、僕には酷い後悔があった。自分が事件を起こしてしまったことへの後悔と、麗さんに命を捨てさせてしまった後悔。


 ――でも……事件がなかったら、僕らは会うことすらなかった


 僕は絶望していた。

 でもふと現れた麗さんが支えてくれた。ずっと独りだった僕に麗さんという友達ができて、話をしていて笑うこともあった。

 ずっと引きこもっていて笑う事もろくになかった僕が笑える日が来たのに、結局全部破綻してしまった。

 僕のことを想い続けてくれている彼女が無残に何度も何度も死ぬ運命を変えたかった。

 目の前で泣いている麗さんを見ると心が痛む。

 白蛇は僕の身体に巻き付いたまま麗さんの様子を窺っている。麗さんは涙を拭い、白蛇に向かって話を始めた。


「魔法陣で捕らえられて、あそこから動けないんでしょう? だから発狂することなく干渉できる木村君の記憶を戻して、おびき寄せ……上手く取り入って抜け出す機会を窺っていた……そうでしょ?」

「ふん……察しのいい娘だ」


 何の話か、僕には全く解らなかった。

 蛇は麗さんを牙を向き出しにして咬み殺そうと威嚇するが、一向にそうしない。


「木村君の記憶を戻すなんて、契約違反じゃないの?」

「最初に契約違反をしたのは貴様の方だ……あまつさえ、私をあのような場所へ閉じ込めた。その罪は煉獄にいてもそそぎきらないぞ」


 白蛇は大きく口を開き、鋭い白い牙を向き出しにして激怒している。

 しかし麗さんはそれに臆することはなく、更に白蛇に言葉を続けた。


「抜け出したいのなら、私と取引しよう。お互いに損はないはず」

「取引だと? くだらない感情で命を差し出し、あまつさえ契約を放棄した小娘ごときが言ってくれる」

「でも、私の血がないとあなたはあそこから出てこられない。木村君に私の血をあの部屋に運ばせて魔法陣を無効化したいんでしょう?」


 麗さんは更に強気で白蛇と対話する。


「私が命をかけると解っていて、最初の契約をさせたくせに……木村君に私のところへ来させたのも、彼が私を助けられなくて命を捨てるって解ってやった……汚いのはお互い様でしょ?」

「そのような憶測で、私を丸め込めると思っているのか。下劣な人間が……!」

「こんなの契約でもなんでもない。弱い立場につけこんで……そんなに私たちが滑稽に踊ってるのが面白いの? 天使? 悪魔? 神? そんな大層な名前で呼ばれていても、あなたは所詮ただの低俗で最低な蛇」


 白蛇に対して冷たく言い放つと、鱗を逆撫でられた蛇は激昂する。


「言わせておけば!」


 白蛇が勢いよく飛びかかり、麗さんに牙を食い込ませた。

 牙が食い込んだ部分は麗さんの左腕。麗さんが首を咬まれないように左腕で防御したからだ。

 麗さんの表情が痛みで一瞬歪む。

 白蛇はしっかりと麗さんの腕に牙を食い込ませているようだった。僕は慌てて麗さんにかけよって、白蛇の口を無理やりに開けさせる。

 ズルリとその細い腕から牙が抜けると、腕からはポタリポタリと血が滴った。服に赤い波紋が広がって行く。


「麗さん、止血しないと……」

「大丈夫」


 白蛇は強引に引きはがした後も、麗さんを咬み殺そうと尚も牙を向く。


「ふふふ……“くだらない感情”で身を滅ぼした私の二の轍を踏もうとしてるの? 笑える」


 更に麗さんは挑発するように言うと、白蛇は威嚇しつつも飛びかかろうとするのを辞めた。

 驚くことばかりだ。

 この得体のしれない『魔』に対して、強気で交渉する麗さんに驚きを隠せない。僕に対してそう強気な態度を麗さんがとったことはなかった。


「喧嘩したいんじゃなくて、私は交渉したいの。私と木村君をキチンとやり直させて。最初から。また私たちを過去に戻して。私は回数がまだ5回分残っているでしょう? 戻してくれたら、解放するから。他にあなたに選択肢はない」


 白蛇は麗さんと暫くにらみ合い、そして答える。


「…………この私をこんなに侮辱したのはお前が初めてだ。……いいだろう承諾してやる。この男に解除方法を教えろ」


 白蛇が呼応すると、麗さんは鞄から鍵束を取り出し、それについているカッターで左手の小指を躊躇うことなく切った。

 僕にした様な『指切り』だ。


「『契約』の指切り。逃がさない。解除されたら戻ってきて。木村君から離れてもらう」


 白蛇は再度、麗さんに大きく牙を向いて威嚇する。威嚇するものの、再び飛びかかろうとはしない。大きく開けた口を閉じた白蛇は二つに割れた舌を素早く出し入れしながら長考する。


「…………あの女から解除方法を教えてもらえ」


 渋々とそういうと、白蛇は姿を消した。

 僕が麗さんを見つめると、麗さんは首を押さえながら首をほぐしていた。昔の男勝りな麗さんの面影をそこに見る。

 自分の左腕の咬み痕を確認して、服の上から押さえていた。気まずそうに僕の方を見る。まだ頬に涙の跡が残っていたが、それをゴシゴシと右腕の袖で拭った。


「はーあ……私が命まで捨てたのに、君は幸せにならなかったんだね。残念」


 そう言いながら僕の方へ近づいてきて、僕のことを抱きしめてくれた。

 麗さんの匂いがする。

 花のような甘い香水の匂いが、いやに懐かしく感じる。先ほど抱擁されたのとは違う、まるで別人のような彼女。

 記憶を取り戻した本来の彼女だ。


「悲しい反面……嬉しいと思ってしまう私はずるい女だよね……君にこんなに想われて……」


 抱きしめる腕にも力が入る。

 僕も麗さんの背中に腕を回す。細い身体の骨の感触を確かめる。その細い身体を抱きしめると、僕はその温かさを感じた。


「ごめんね、酷いこと言っちゃった……」

「いいんです……僕の方こそごめんなさい。もっと、上手くやれたと思いますが……」

「私のこと、忘れてって言ったのに……」

「僕の方も麗さんに忘れてくださいって言いました」

「……お互いに、どうしようもないってことだね…………」


 しばらく互いに言葉がなかった。

 無言で互いの体温を、生きている鼓動を確かめる。もう僕はそれだけで何もいらなかった。今抱えている問題も、解決できていない問題に対しても、何もかもがここで途絶えたらいいのに。

 そしてその幸福感を断ち切るように麗さんは現実の話をし始める。


「……あの部屋の文字は私が書いたんだよ。魔法陣もね」


 抑揚のない声で彼女はそう言った。

 あの凄惨な部屋の光景が記憶に鮮明に残っている。それを懸命に描く麗さんの姿は僕には想像できない。


「なんでわざわざそんなことを……」


 僕から身体を離して麗さんは悪戯っぽく笑った。


「保険だよ。魔を捕える為の魔法陣。魔が裏切らないって確信もないし……弱み握っておいても損はないでしょう?」


 したたかに笑っている麗さんを見て、僕もつられて苦笑いをしていた。

 確かに、あれだけ精密に魔法陣やら文字を書くのは、芸術の心得がないと無理だ。僕が拘置所にいた時、よく絵を描いて送ってくれた。その技術があればこそだろう。


「文字には何か意味があるんですか?」


 あれだけびっしり書いてあったあの文字に、まったく意味がなかったとは思えない。


「あれはね、私が中学の時に自分で暗号の文字を作ったの。その文字を使ってる。五十音をそのままあの文字に変えただけだから、どの文字が何の読みなのか解れば普通に読めるよ。あの魔が魔法陣の方に注意を向けないように先に文字を書いたの」


 相変わらずの奇才ぶりで、僕は唖然とする。

 普通の人間では想像もできない破天荒ぶりだ。


「なんて書いてあるんですか?」

「私の好きな本の一節が書いてある。『永遠』って小説。本はノンフィクションしか読まないんだけど、この本だけは面白かった。回りくどくて、言葉が綺麗なんだよ。その本の世界のようにロマンチックな終わり方が良かったなって思ってね」


 麗さんは両手を後頭部で組んだ。そして僕に背中を向ける。


「気になる? 私の部屋にあるから読んでみたらいいじゃない。私が抜粋したのは三十二ページ、五十五ページ、六十七ページ、八十一ページの一部と、最後の章だよ」

「よく覚えてますね」

「その本は十回以上読んだからね、覚えちゃった。……まぁ、一先ず、あの白蛇が捉えられている私の部屋に行って、魔法陣を解除してほしい。私の血を渡すから、それで魔法陣に十字を書いて消してほしい」


 麗さんは辺りを見回したり、自分の身体を触ったりしたが目当ての物がないのが解ると、がっかりしたような仕草をした。


「小瓶か何かないかな……」


 何かを見つめたと思ったら、木から大きめの葉を1枚千切った。


「持っていて。平らになるようにして」


 僕に葉を持たせてきた。

 そして自分の左腕をまくり、まだ止まっていない滴る血をその葉に垂らす。葉に血液が溜まるほどになったときに麗さんは服の袖を元に戻した。


「じゃあ、これ持って行って。早くいかないと血液凝固始まっちゃうから」


 僕は血の溜まっている葉を零さないようにしていた。麗さんは別に止血するわけでもなく、袖を降ろしたままポタポタとゆっくり血が滴って落ちている。

 それを僕を見つめた。


「どうしたの? 行かないの?」


 麗さんは不思議そうな顔をして僕を見る。


「止血……してください」

「大丈夫だよ。すぐ止まるから」

「そうではなくて……自分の身体を大切にしてください」


 複雑な顔をして、麗さんは目を逸らす。困っているような顔だ。自分を大切にしてほしいと言うといつもその顔をする。


「善処するよ」


 あまり乗り気ではないときの顔だ。


 ――もっと自分を大切にしてほしい……


 前からずっと、自分のことを大切にしてほしいと感じていた。

 しかし、その自尊心の低さがなかったら命がけで僕を助けてはくれなかったのかもしれない。

 それに助けられてきた面もあるけれど、それでも自分の身体や、自分の人生を大切にしてほしいと思っていた。

 しかし、それを彼女は解ってくれない。

 自分のことをないがしろにしてまで僕のために色々してくれる。


「僕は……麗さんに自分を大切にしてほしいんです。僕のことに色々手を尽くしてくれて感謝していますし、実際救われました。でも……僕のために自分を簡単に投げ出さないでほしいんです」


 そう言うと、麗さんは気まずそうに視線を泳がせる。


「………………」


 暗い表情のまま何も答えない麗さんを見て、言ってはいけないことを言ってしまったかと僕は焦りだす。


「あの……麗さんの書いた遺書を見てしまったんです」

「うわぁ……あれ見ちゃったのか」


 誤魔化す様に苦笑いをした。苦笑いのあとに、心底気まずそうな顔をした。

 もっと触れてはいけないことだったのかと更に僕は焦りだす。


「……言いたいことは、解っているよ。でも今は血液凝固しちゃうから早く行って。魔法陣に十字になるように私の血を塗ればいいから」


 気まずい空気のまま、僕は血の溜まっている葉をもったまま、麗さんの部屋に戻るよう意識を集中させた。




 ◆◆◆




 僕が目を開くと、麗さんの部屋にいた。

 手に持っている葉の血を魔法陣につける為に右手の指につける。ぬるぬるした冷たい感触がして、少しだけ不快感が込み上げる。

 僕が人を殺してしまった事実がその血によって思い出される。


 ――血の感触……これが僕の罪。僕があんなことしなかったら、こんなことにならなかったのに……


 と、思う反面、でも僕は事件当時のことは正直本当に憶えていない。

 気が付いたら知らない人の家にいて、手が血まみれになっていた。警察の人に囲まれて……

 手に麗さんの血の感触を感じるたびに、僕は怖くなった。

 また統合失調症が再発して……今度は麗さんに手をかけてしまうのではないかと。

 もしそうなってしまうなら、僕はどうしたらいいんだろう。


 ――結局、死刑という選択は間違っていなかったのではないか……


 そんなことすら考えてしまう。

 魔法陣に十字を書くと、別段目立った変化は確認できなかったが、白蛇の身体が魔法陣の中からずるずると完全に姿を現した。

 僕が見ていた白蛇の身体は、三分の二程度だったことを知る。


「忌々しい女だ……。ふん、貴様もあの『悪魔のような』女には気を付けた方がいいぞ。あの女が抱えている闇はお前程度では計り知れない。骨の髄までしゃぶりつくされることになるぞ」

「麗さんはそんな人ではないです」

「部屋に血で文字を書き連ねる女を庇うなど……せいぜい後悔すればいい。先に戻る」


 白蛇は姿を消した。

 麗さんのところへ戻る前に部屋にある『永遠』という本を僕は探した。

 本棚にある本はどれもこれも小難しい本ばかり並んでいる。『プログラムされた細胞死』『人体の極限』『罪と罰の教典』……あまり女の子らしい本は置いていない。

 その中に『永遠』という背表紙の本を見つけた。比較的に並んでいる本の中では薄い方だ。

 僕は本を手に取る。

 表紙には洒落た独特の絵が描かれている。ペラリとページをめくろうとすると本に紙が挟まっているのを見つけた。『あらすじ』と書いてある。


 ――なんで本にあらすじなんて紙を挟んでいるんだろう……


 しかし麗さんの奇行についてもう疑問を持つことはない。彼女はそういう人なのだろう。

 その紙を読むことにする。


 〈雪の降る候、黄昏時に身分違いの男女は出会う。片や貴族の娘。片や一階の家につかえる召使。貴族の娘の『小夜さや』はその召使『あきら』の主の元へ、家柄の為に不本意ながらも嫁入りするが、夫婦生活は仮面生活であった。小夜はある日、庭を歩いていると晃が文字が読めずに困っているところに居合わせ、読み方を教える。それから小夜は晃に文字の読み方や書き方を教えることになる。両者は互いに心を通わせるが、小夜の主がその間を裂いてしまう。離れ離れになった二人は、それぞれの道を歩む。小夜に読み書きを享受した晃は立派な物書きとなり、召使の身分から脱す。本をたくさん読むようになった晃は、小夜がいつしか言った言葉の意味を知る。別れより五年の月日が経ち、偶然にも晃は小夜と街で出逢う。風貌の変わった晃に主は気づかなかったが小夜と晃は互いに気づく。しかし、けして主に悟られるわけにはいかない。互いにしか解らない言葉で挨拶を交わす。そしてそれを境に二度と会うことはなく、道は別たれる〉


 ロミオとジュリエットのような、典型的な恋愛を題材にした本のようだ。

 意外だった。確かに麗さんは幼少期に好きな人を亡くしている。それが心的外傷後ストレス障害になり、歪みを生じさせているのかもしれない。普通の幸せな恋愛に対する後ろめたさのようなものを感じているのだろうか。

 本の内容が気になりページを開こうとしたが、麗さんを待たせてはいけないと思い、本を持ったまま僕は麗さんの元へ帰ることにした。




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