第21話 蜉蝣と夕焼け
【水鳥 麗 六回目】
約束どおり、木村君の中学卒業式の日に私はやってきた。まだ桜も咲いていない、肌寒い気候。また校門の前。
時間を確認するとお昼すぎくらいだった。
「そういえば……卒業式って早めに終わるんだっけ……」
私は校門の近くの木の陰に入り、寄りかかって待っていた。無事な姿を早く確認したい。早く木村君に会いたい。
でも、私たちの時間は回を重ねる度にずれて行ってしまう。
木村君との時間は、記憶は、私とは重ならない。いずれ私は消える定めだ。
「はぁ……」
私の気分は晴れない。そのまま学校の方を見つめて待った。
――でも、よくよく考えたら卒業式の日って、友達と話したいこととか色々あるんじゃないだろうか。あれから随分経ったし、私の元に来てくれる保証なんてどこにもないのに。
そんなことを考えている間に、ざわざわという声が聞こえてくる。校舎から生徒たちが出てきていた。黒い筒を持っているのが見える。
察するところ、卒業生たちだろう。親御さんと一緒に笑顔で出てきている。
「会ってもいいのかな……」
私は寄りかかっていた校門から身体を自立させる。少しすると、一人走ってこちらに向かってくる生徒が見える。
息を切らしながら私の方へ走ってきて、肩で息をしているその人は、言うまでもなく木村君だ。
――そんな急いで来なくてもいいのに
と私は苦笑いする。
約束を覚えていてくれたことを私は嬉しく思った。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
「お母様は……?」
「先帰ってもらったんです」
木村君は笑ってくれた。よかった。無事に卒業できたんだ。
ならもう私がいなくても大丈夫だろうか。イジメがなくなって、無事に卒業できたならこれからどんな障害があるのか、私には想像ができない。
「なんで? 普通こういう日って親御さんと帰るもんじゃないの?」
苦笑いで問う。
「日隈さんと約束していましたので。本当に来てくれて嬉しいです」
眩しいくらいの笑顔だった。
嬉しいけれど、その分どんどん胸が苦しくなってくる。拘置所では、そこまでの笑顔を見たことはなかった。
「あのね……木村君……」
「なんですか?」
あどけない顔を向けてくる。あどけなさの中に、もう高校生になるという風格を私は見つける。段々、あの時の木村君に近づいている。刺された腹部の痛みと、あのときの悲し気な表情も、困ったように笑うその顔も。
もう少しで私との時間も関係も分かたれてしまうのなら、もう少しだけ楽しい時間を過ごしてもいいよね。
「ううん、木村君はこの後空いているの?」
「はい、空いています」
「じゃあ、一緒に観光しない? 私こっちの方何も知らなくて」
「お恥ずかしながら、僕もそこまで詳しくはないですが……行きましょうか」
木村君が歩き始める方向に私も歩き始める。親御さんと帰っている生徒の中を私たちは並んで歩く。こうしてみると、恋人同士に見えるのだろうか。
だとしたら犯罪の匂いがする。せめて学生服でなかったら警察に止められることもないだろうか。
「着替えなくていいの?」
「えーと……日隈さんは今日、何時までお時間ありますか?」
「丸一日空いているよ」
「それなら着替えてきます。遅くまで大丈夫ですか?」
言葉の一つ一つが、残酷に私に突き刺さってくる。
その笑顔は、私だけのものなのに。誰よりも私とは遠くの場所へと行ってしまうのだから。
「うん。着替えてきなよ。家の前で待っているから」
「わかりました」
歩きながら卒業したことを嬉しそうに話してくれる木村君の話を聞いていた。友達がどうだとか、恋人がどうだとか、そういった類の話はない。
私もそれを特別聞こうとしなかった。楽しそうに話してくれているその姿だけで十分だ。
「では、着換えてきますね」
木村君は家の中に入っていった。私はもう見慣れた辺りの景色を見回す。
本当は、これが夢で、目覚めたら地獄にいるのではないかという恐怖感が私を突如支配する。
木村君の死刑を言い渡された光景が脳裏によぎり、私は動悸がした。
――気分が悪い。怖い……!
あの時の木村君の顔が脳裏に焼き付いている。冷たい手錠と無情な拘束紐に繋がれた、私の最愛の
法廷の冷たい空気。視線。届かない手。何もかも鮮明に……――――
「日隈さん、大丈夫ですか?」
頭を抱えていると木村君に呼ばれた。ハッ……と、私は意識が戻ってくる。先ほどまでの現実という悪夢が、目の前の夢の中に溶けていく。
「日隈さん……、大丈夫ですか? 具合でも悪いんですか……?」
「……最悪だよ…………」
本当に、最悪の光景だった。思い出すだけで冷や汗が出てくる程最悪な現実だった。
「気分が悪いなら……やっぱり遊ぶのはやめて――――」
「違う!」
強く私は木村君を抱擁する。折れてしまうのではないかと思う程、強く。
「違うの……違うんだよ……木村君……」
木村君は私の背中におずおずと腕を回してくれた。
怖かった。私は、また君を助けられないんじゃないかと。私は木村君から身体を離した。きっと酷い顔をしているだろう。今は顔を見ないでほしい。
「ごめん。いつも突然。訳わかんないよね……」
「…………何か悩みがあるなら教えてもらえませんか? 僕にできることがあれば……」
――なんでそんな優しいことを言うの、君は。君の優しいところを知るたびに、私は胸が詰まって息がどんどんできなくなっていくのに。
私は抱きしめたまま、言葉を絞り出すように言う。
「君にできることは……君自身が幸せになることだよ」
「僕が……? それと何が……」
「言えないの。言いたくても……喉が裂けてでも言いたいけど、でも、言えないの……」
君が統合失調症になる未来も、それで死刑が言い渡される未来も、私の記憶には克明に刻み込まれている。
残酷なほど。
「……木村君、あのね……君が幸せなら、私はどうでもいいから」
「……どうでもいいなんて、言わないでください……僕は日隈さんがいなかったら中学を卒業することができなかったと思うんです……初めて声をかけてくれた日……僕、学校行くのやめようって思っていたんですよ」
木村君の声は震えていた。
――知ってる。だから会いに行ったの。
「それに、あのあと一カ月後に来てくれたとき、あのタトゥーシールは
「……良かったね」
「だから、日隈さんは僕の恩人なんです。なのに……どうしていなくなっちゃうようなことを言うんですか……?」
その言葉に、ギリッと強く歯を食いしばる。
――私に最初にいなくなっちゃうことを……別れを先に告げてきたのは、君の方なのに
悲しげな顔をして「さよなら」を告げたのは、木村君の方だったのに。
そう思うと私は心臓の方から指先までビリビリとしてくるほど悲しかった。
「……私……私だって、ずっと君と歩んでいきたいと願ってるよ……でも……」
私はもう、魔に命を差し出した人間なんだとは言えない。
「遠いところに……行かないといけなくてさ」
「外国ですか? なら、手紙でもなんでもいいです。電話もできるじゃないですか。それに……僕もそこへ行きますよ。それなら――――」
「やめて……」
涙がまた流れ出す。
木村君はどうしていいか解らない様子だった。
どうしていいのか解らないのは、私も同じだ。
――ごめん。そんな顔させて。私は最低だね。本当のことはいつだって言うことはできない。君と話しているときはいつもそうだ。
「やめてよ……無理なんだ……どうしても…………」
「……理由を教えてください。納得できません……」
私だって何一つ納得できない。
私は泣きながら空を見上げた。曇天だ。雨は降りそうにない程度の明るさ。木村君に伝える言葉が見つからない。
「……『死んでもいいわ』」
「え?」
「……それが答えだよ」
「死ぬってことですか? なんでですか!?」
木村君は私の抱擁から離れ、一段と焦ったように私に問う。その顔は私の表情と同じ。不安に駆られ、焦っていて、悲しげだった。
「ふふ、違うよ。まだまだ勉強不足ね。木村君」
木村君はわけが解らないようだった。
「君が大人になってから、私を口説いてね」
「えっ、どういうことですか。教えてください」
「だーめ。いつか解る日が来るから」
私は涙を拭って木村君の手を取った。
残り短い時間、泣いていたらもったいない。せめて、幸せな時間を過ごさせてほしい。
「ほら、行こう? 観光」
まるで、蜉蝣のよう。短い命を精一杯生きようとする様がそう連想させる。
ウスバカゲロウの命の短さを、ウスバカゲロウ自身は知っているのだろうか。彼らは死期をさとっているのだろうか。
短い命を精一杯生きることの美しさ。この世の穢れの一端すら知らないまま命を散らすその儚さ。
――羨ましいよ。私もそんな風に生きたかった
◆◆◆
夕暮れはいつも寂しさを連想する。
別れを暗示させるあの燃える橙色と紫色。当たり前に空の青を侵す暴力の色。
まだ、三月の終わりは寒い。しかし、この寒さも私は感じるのすらもう最期になるのかもしれない。私は冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。空気が乾燥していて、少し喉に張り付き感を覚える。
生きているんだなと、生きていることに感謝する。私の隣にいる木村君の笑顔にも。
こんな風に、笑い合える日がくるなんて思っていなかった。ほんの些細なことですら、私はいつも嬉しくなる。
他の人が知らない木村君の姿。ぎこちない手の振り方も、その笑顔も、まるで私には手の届かない輝きだった。
「また……帰ってしまうんですね」
私の服の裾を掴みながら、行かないでくれと言いたげな、だけれどそれを押し殺している声。
「うん。また……そうだな。今度はいつになるかな」
高校生になった木村君の姿を想像すると胸がより一層軋む。
でも、ここで独り立ちできないようでは駄目だ。私はこの刹那でしか君と一緒にいられない。
「君が大学生になったころになっちゃうかな」
「そんな…………」
明らかに落胆する声。
――辛い思いをさせてごめん。ごめんなんて言葉じゃ補えない……
私は3年後の約束をして自殺未遂をした木村君を思い出してした。
また……同じ道を辿ってしまわないか私は怖かった。でも、私は木村君の保護者ではない。
ただ、関係性を明示できる言葉が見当たらない。
「……木村君、私のことは忘れて……たまに会いに来るけど、これから楽しい高校生活に入るんだから。友達も沢山できるだろうし、恋人も……」
恋人と、自分で口に出しておきながら、その言葉に足を掴まれる。恋人なんてできたとしても、私はやはり素直に祝福できない。
「僕は……!」
口を開いたものの、その後の言葉が出てこないようで気まずそうに黙り込んでしまう。
――突き放す言葉しかかけられない私を、どうか許さないでほしい。どうか君が私を忘れても、それでもその許せない
「意地悪言ってごめんね。解ってるよ、私よりいい女なんていないって」
私は精一杯強がりを言った。
私の声も震えてくる。どうか、私の動揺を悟られませんようにと私は祈る。
「では、必ず。約束してください」
木村君が小指を私に差し出してきた。
――こんな風に君から約束を持ちかけられるのは初めてだ……
私はその小指を両手で包み込んだ。
「いい? 木村君。『指切り』って言うのはね、本当に、本当に本当に大事な約束をするときの一回しか使っちゃいけないんだよ」
自分の傷のついている左手の小指を見た。木村君と『指切り』をしたときの傷。本当に大切な約束の傷だった。
「もし、私がいないときに辛いことがあっても、そのネックレスをお守りにして負けないで。君の幸せを心から願ってる」
もし次に来たときに幸せそうなら、私はそのまま消えよう。それでいいはずだ。その為に私はここにいるのだから。
「……待ってますから」
無我夢中で木村君の幸せを祈ってきた。それが実現するかもしれないというのに、私はなんて強欲なんだろう。
この手を放したくない。どこにも行ってほしくない。
――欲張ってはいけない。
そう思いながらも喉から手が出るほど、私たちの安息の地がほしかった。
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