第22話 血文字と楽園の果て

 




【水鳥 麗 七回目の前】


 私は木村君の大学生姿を見に行く前に、一度現世の自分の部屋に戻ってきた。

 暗い、いつもの自分の部屋だ。日中にも関わらず、その部屋にはろくに日が射しこんでいない。やはり自分の部屋は安心する。


「私、死ぬときはどういう風に死ぬの?」


 白蛇は私の身体を舐めるように這う。冷たい感触が私の皮膚を撫でるのを感じた。


「木村冬眞が殺すはずだった人間と同じ死に方だ。因果の歪みがお前に還ることになる」


 確か、50か所以上の刺し傷で失血死をした。なら、自分もそうなるということだ。


「そう。……はぁ……気が乗らないけど……やるか」


 遺書のノートを鍵付きの箱にきちんと閉まって、鍵束に鍵をつけた。身辺整理をしなければ死ぬに死ねない。


「少し、死ぬ前の準備をさせてほしい。どうせ警察が根掘り葉掘り調べることになるでしょう?」

「残り少ない命だ。好きにするがいい」


 瀉血をして、その血で壁に文字を書き始めた。中学の時に作った自作の暗号文字で。日本語で描いたら、自分の筆跡が解ってしまう。しかしこの暗号文字なら筆跡など関係ない。

 めった刺しで死ぬなら、あれだけ大量の遺書が出てきたとしても、間違いなく自殺としては扱われない。母が真っ先に疑われてしまう。

 ならば、と別の場所で死ぬことも考えたが、私は自分の部屋で死にたかった。

 この暗くて、慣れた匂いのする誰も侵せない自分の世界。この世界に自分の居場所というものを感じられなかった私が、唯一安心できる自分の空間だった。

 ではどうするか。

 母が絶対にしないであろう常軌を逸した死に方をすればいい。

 それに、壁の文字が私の血液で書かれているとなれば相当な時間がかかる。なら、死亡時間と照らし合わせてアリバイも成立するだろう。


「はぁ……首痛い……」


 壁一面に文字を書く作業は何時間もかかった。

 正直、書いている最中はこんなことを始めたことに純粋な大変さから後悔した。しかし、もうすぐ書き終わるというところまでくると、また木村君の様子を見に行かないとならない。

 行きたい気持ちと、行きたくない気持ちが混在する。

 私は自分が死ぬことなんかよりも、木村君がきちんと生活を送っているかどうかにずっと気を取られていた。


 ――また……うまくいかなかったら……どうしよう……


 怖かった。見に行った時に、また思わしくない方向に行ってしまっていたら……

 結果を知らないまま、終わりを迎える物語には魅力がある。しかし、命まで払って「うまくいきませんでした」なんて、最悪な最後は迎えたくはない。

 これは悲劇ではない。必ず木村君を幸せにして見せる。


 ――絶対に……


 血文字で壁一面に文字を書き始めて休憩しながらも6時間、やっと書き終わった。しかしまだこれでは足りない。


「いつまでその狂気の沙汰をやっているつもりだ」


 白蛇が舌なめずりして私に問う。


「あともう少しだから待ってよ。どうせ命は差し出すんだから」


 私は床に魔法陣を描き始めた。頭の中にあった資料を必死に思い出しながら。


「このくらいぶっ飛んでる方が、私の死に相応しいでしょう?」

「……いろいろな人間を見てきたが、お前程意味の解らない人間も珍しい」


 そうしてまた数時間経ち、魔法陣も完成した。

 自分がある程度絵の描ける人間で良かったと痛感する。高校では、市の文化祭ポスターで賞をもらったこともある。もう、随分描いていなかったけれど。

 血液は酸化して茶色くなってしまっているが、まぁそんなことは大した問題ではない。私はその魔法陣の上に立った。


「さて……行きますか」


 大学生になった木村君の元へ。




 ◆◆◆




【水鳥 麗 七回目】


 すこし肌寒いくらいの空気が私を包んだ。目を開けると、茶色の落ち葉が舞う道の端に立っていた。周りには誰もしない。その道の先には大学らしき建造物が立っていた。


「……大学、無事に行ってるみたいだな」


 その目の前の大学に足を踏み入れた。

 大学の中に入ると、学科別の棟の案内板があったのでそれを見た。そこにあった文字を見ると、『文学部』『法学部』『医学部』『薬学部』『工学部』……大層な学部の名前が並んでいる。

 いいところの大学に入ったようだ。

 しかし、この広いキャンパスから木村君を探すのは至難の業だった。


「白蛇……木村君がどこにいるかわかる?」


 小声で白蛇に囁くと、


「ロビーで待っていろ。講義がそろそろ終わる時間だ」


 そう助言してもらった通り、私はロビーで待っていた。緊張してくる。歳はもう公判のときに見た年齢とかなり近い。しかし生きる道が違えば顔つきも変わってくるだろう。



 ――もう、私のこと忘れているかもしれない。いや、忘れてくれていればいい。約束すら忘れてくれていたら――――


 ロビーが生徒でにぎわい始め、ざわめき立つ中私は木村君を探したくはなかった。緊張の糸が最大限に張りつめられている中、白蛇が私に語りかける。


「右前を見ろ」


 心臓がうるさく脈打つ中、私は右前方を確認する。

 すると、懐かしいかんばせが見えた。そして、私の心臓は激しく脈打っていたものが凍てつき止まったように感じた。


 ――あ……


 隣に女性がいる。

 背の低い、少し線の太めなウェーブのかかった茶色い髪。顔は普通だが、化粧をしていて可愛らしい印象を受ける。服は女性らしい服装をしていた。

 とても親し気に話している姿が目に焼き付く。

 私とは正反対のタイプ。

 嫌な汗が噴き出してくるのを私は感じた。視界が眼振で揺れる。凍てついた心臓が再び激しく脈動を始めたように感じる。

 私は気づかれる前にその場を立ち去ろうと椅子から立ち上がった。


 ――これでいい。これで良かったんだ……


 背を向けて、できるだけ目立たないように出て行こうとする。

 しかし、ダメだ。足取りがおぼつかない。クラクラする。私はフラフラと出口の方へ向かって行った。そして棟を出ると近くにあったベンチに崩れるように体重を預けた。


「…………まぁ、想像はしていたけれど……」


 いざ本当にそうなってしまうと、気持ちの整理が中々できない。


 ――命がけで他人の幸せなんて願うものではなかったか。自分の心から願っていたものって、一体何だっけ?


 そう考えだすと、涙が出そうになってくる。


 ――違う。違う違う違う。私が望んでいたのは彼の幸せだ。これでいい。これでいい。隣にいられない私より、隣にいてくれる人の方がいいに決まっている……


 頭で理解していても、私は納得できなくて膝を抱えた。


 ――何してるんだろ。私。


 頭を抱えて呆然と、漠然と、忽然と、私はこれで死ぬのだと覚悟した。もう、思い残すことはなにもない。幸せそうな顔を見たら、それだけでいい。

 そう何度も自分を説得している中、私は呼ばれた。


「あの……日隈さん……?」


 やけに懐かしい声がした。私が顔を上げると、木村君が私を覗き込んでいた。

 相変わらず端整な顔立ちで、髪の毛は普通の男性よりも少しだけ長い。服装は当たり障りのない服装だ。

 彼は私の顔を見ると表情が明るくなって笑ってくれた。


「やっぱり! 後ろ姿でそうかなって思ったんです。約束憶えていてくれたんですね」


 明るい口調でやわらかく笑う木村君を見て、余計に胸が痛くなったけれど、ここで私が弱さを見せるわけにはいかない。

 私はベンチから立ち上がる。


「忘れるわけないよ。木村君の方こそ、よく覚えていたね」

「僕だって忘れるわけないじゃないですか」


 よく見ると、ネックレスをつけているのが見えた。


 ――まだ、つけていてくれているんだ……


 そんな思考がよぎる。


「……えっと……いや、さっき彼女と歩いているのが見えたから、水を差したら悪いかなと思ってさ……」

「あっ……えっと……そうなんですよ。実はお付き合いし始めて半年くらいなんですけど」


 嬉しそうに話す木村君を見て、嬉しさと、そして嫉妬と絶望と悲哀と落胆と、自分勝手な欲望がうずまいていく。それでも私は表情を崩さなかった。


「良かったね。幸せそうで安心した」

「日隈さんが良かったら、お食事でもいかがですか?」

「彼女さんに悪いから、いいよ。今日来たのはただの安否確認だったから」

「彼女にはきちんと説明しますから。日隈さん、またすぐに帰ってしまうんですよね?」


 複雑な気持ちで、少し遠くにいる木村君の彼女に目をやると、こっちを見ていた。

 少なく見積もっても、いい目で見られている気はしなかった。その隣には別の男子生徒が立っていた。木村君に負けず劣らず整った顔立ちをしているように見える。二人とも私たちをじっと見つめている。


「そうだけど……木村君と彼女さんの間に亀裂が入ると嫌だから……」

「そんなの大丈夫ですよ。なんなら僕の友人と彼女とで四人でも」


 それは気まずい。相手方も気まずいだろう。

 何故そう言ってくれるかは解らないが、それでも私のことは私のこととして大切に思ってくれている様子だった。


「なんや木村、二股か?」


 調子のいい声で後ろにいた木村君の友人が近づいてきて茶化した。

 短い髪で、ピアスを両耳に開けている。短い髪をワックスで立たせている。雰囲気的には少し遊んでいそうな感じがする。

 それを見て、私は少し渋い顔をする。中学の時に木村君を虐めていた人とかぶる。しかし、見た目で人を判断したらいけない。木村君の友達ならばきっといい人なんだ。自分にそう言い聞かせる。


「ちゃうって。昔からの知り合いなんや。久々に会うたから、食事でもって。こちら日隈弥生さん」

「日隈です。初めまして」


 苦笑いにならないように必死に笑顔を作る。こうなれば完璧に演技するしかない。


「俺は木村の同じ学部の森口正彦もりぐちまさひこ。よろしゅう」

「よろしく」

「こんな別嬪べっぴんさんの知り合いおるなら、はよ紹介しいや」


 やはり森口という奴は私の苦手なタイプだと瞬時で悟る。それを見て笑顔を引きつらせないように必死だった。


「日隈さん行きましょうよ。彼女、紹介しますから」


 木村君がそう言ってくる。残された時間を考えれば、少しでも木村君との時間を作りたい。やはりそう思ってしまう。


「解ったよ。食事行くから」


 4人掛けの椅子と机に、2対2で向かい合って座ることになる訳だが、どう2対2にしたらいいんだろうとファミレスに入った瞬間考えた。

 最悪の状況は木村君の彼女と隣になることだ。それだけは避けたい。しかしほかのどの組み合わせも違和感を感じる。

 結局私の隣は森口君で、向かいに木村君とその隣に彼女という座り位置となった。

 これはこれで、なんだか気まずい。いや、どの組み合わせでも気まずいんだけれど。

 粗方注文を終えてから、話が始まった。


「彼女は、若山わかやま美紀みきです」

「はじめまして。冬眞とお付き合いしてます。若山美紀です」


 可愛らしい声が聞こえてくる。しかし、すこしばかり棘を感じるのは私の考えすぎだろうか。


「日隈弥生です。木村君とは昔からの友人なんです」

「なんやそんな堅苦しい。敬語なんてやめてや」

「森口、日隈さんは年上やで」


 この、羊の中に一匹だけ狼がいるような、年下の中に一人だけ年上がいるという気まずい状況だ。

 木村君がばらしてしまったので、私は一度気まずくて目を逸らしたが、すぐに目の前の現実に目を向けた。


「いや、いいよ。敬語じゃなくて。なんか慣れなくて」

「えっ、そうなんや? ていうか標準語やけど、この辺の人とちゃうんですか?」

「群馬に住んでいるんですよ」

「そうなん!? じゃあ木村とはどう知り合ったんや?」


 答えづらい質問をしてくる。


 ――だから嫌だったのに。


 どう乗り切ったものか。


「どうでしたっけ……かなり昔ですよね。日隈さん全然変わらないので驚きます。相変わらずお綺麗で……」


 と、途中まで言いかけた木村君がはっとしたような顔をして、早口でまくしたて始めた。


「いや、その、変な意味ではなくてですね」

「木村、お前何人女おるねん。おとなし気な顔して隅に置けない男やでホンマに。つーかなんやねんそのガチガチの標準語の敬語」

「しゃーないやん、昔から日隈さんにはこうやねん」


 二人が言い合いをしている最中、私は彼女に睨まれているのに気づいていた。

 なんで木村君は気づかないんだろう。なんなら、殺意のオーラすら私は見えそうなものなのに。隣を見てほしい。隣を。


「今、彼氏居てないん?」

「あぁ、いないですね」


 急に森口君から話を振られて、若干歯切れの悪い返事をしてしまう。


「じゃあ俺と付き合わへん? 別嬪さんやし、木村にはもう彼女いてるから。ええやろ?」


 普通の女子なら、多少こういう強引な男にときめくのかもしれない。顔立ちも整っているし、別に断る理由もなかった。

 でも、私が愛しているのは君じゃない。そんな青臭い誘惑に乗るほど、軽い女だと思われたら困る。


「ごめんね、心に決めた人がいるから。丁重にお断りするわ」

「えー!? なんや、残念やなぁ……でも、連絡先教えてや。気が変わるってこともあるやろ?」


 なかなか引き下がらない森口君をどうあしらうか困っていた。別に、交換しても返事もできないのに。形だけでも交換しておくべきか?


「森口、日隈さん困ってしまってるやんか。やめときや」


 木村君が牽制してくれる。森口君は不満げにしながらも一応引き下がる姿勢を見せる。


「日隈さん、好きな方がいてるんですね」


 木村君がそう聞いてくる。少し残念そうに見えるのは、私がそう期待しているからだろうか。


「うん。まぁね……」

「どんな人なんですか?」


 君のことだよ。

 とは、この場で口が裂けても言えない。なんと説明したらいいか、少し考えたが、当時の木村君は随分特徴があったのでそれを端から説明し始める。


「えーと……髪が長くて、正義感が強くて、私と価値観が近くて……優しくて、頭良くて、笑うと可愛くて……それでいて、傷つきやすくて繊細な人……なんだけど、気弱そうに見えて、謎に強気な人……かな」


 拘置所での木村君を想像した。やっぱりあの姿を想えば、今の木村君が幸せならそれでいいと納得せざるを得ない。


「……変わった方ですね」


 ――だから、君のことだってば。


 そう思うと私は思わず笑ってしまった。


「えっ、なにか僕おかしなこと言いましたか?」

「いや、だって……あははは」


 自分のこと、変わった人だなんて絶対に思っていないだろうから。客観的に聞いてそう思うのに、そういう頑ななところが面白くて。


「ごめんごめん、なんでもないよ」


 本当に君は、よく解らない。でも、そのよく解らないところが好きだ。

 食事が運ばれてきて雑談をしながら時間が過ぎていった。しばらくして、若山さんと森口君がお手洗いに立って、少し不自然に時間がかかっていることに私は気づく。

 木村君は相変わらず、自分のペースで話をしている。


「それで、その時に街中で道を聞くのに声をかけたら、全然違う方向を言われて更に道に迷ってしまって」


 楽しそうに話している木村君を遮るのは嫌だったけど、様子を見てくるように促すことに決めた。

 さしずめ、二人とも帰りたがっているだろう。私と木村君がずっと話しているのは若山さんはさぞ気分が悪いだろうし。

 それをまったく気づかないのが……なんというか、木村君も初心うぶというか、鈍いというか。


「木村君、二人とも遅いね。ちょっと様子見てきた方がいいんじゃない?」

「あ、そうですね。でも大丈夫じゃないですか?」

「じゃあ一緒に見に行かない? 私もお手洗い行きたいし」

「わかりました」


 荷物を持って木村君と私はお手洗いに向かった。

 すると、裏手のお手洗いの廊下のところで二人で話している声が聞こえた。

 そこのファミレスのお手洗いは、少し長い廊下を歩かないとないところで、声が良く響く。立ち聞きする趣味はないけれど、聞こえた声があまりに不穏な単語を紡いでいたから、私は木村君に「しーっ」として死角で話を聞いた。


「……冬眞、全然うちのこと解ってくれやん。寂しいゆうても解ってくれやんし、顔はイケメンやけど、別に何してくるわけやないし、うちからそんなん誘えないやん」

「寂しいなら、また俺が慰めてやるで?」

「…………正彦、彼女何人おるの? その内、背中刺されるで」

「平気やって。木村鈍いからバレてへんやろ」

「……そうするわ。冬眞、日隈さんゆう人に夢中やし。あれが許されるならうちのも浮気ちゃうやんな?」


 あぁ、やっぱり。というべきか。複雑な気持ちがうずまく。

 幸せそうだからなんて勝手に思っていたけど、やっぱり蓋を開ければ人間なんてどいつもこいつも同じ穴のむじな

 結局、寂しいからとかそんな理由でつがいを求める。

 寂しいからって、そんな理由で軽く木村君を捨てるなら、そんな誰でもいいって気持ちで木村君と一緒にいるなら、いなくなってほしい。

 こんなに傍にいたいと思っている私は、木村君と一緒にいられないのに。

 木村君の顔を見ようと私が顔を右に向かせたら、木村君は影から堂々と出て二人の前に姿を現していた。


「それ、どういうことなん?」


 私は頭を両手で抱えた。

 私なら絶対にここで出て行かない。当然木村君も出ていかないものだと思っていたけれど、やはり謎に強気なところはその選択を壊したようだ。


「冬眞……いつからいたん……」

「木村、冗談やって」


 二人は月並みな弁解を始める。

 蓋を開けなかったら違う方向に行ったのだろうか。嘘でも、幸せな方向に行ったのだろうか。嘘でも、信じていれば真実になるから。


「冬眞が悪いんや! うちのこと何も解ってくれへんし、昔の知り合いやとか言って別の女の人と楽しそうに話しよるから!」


 若山さんは開き直って木村君を責める。


「寂しいって言うてるのに、全然構ってくれへんやん……うちの気持ち少しは考えてや!」

「……ごめん」


 木村君が謝り始める。

 なんでそこまで出て行って謝ってしまうんだ。強気な君はどうした。

 私は絶望的な気持ちから、それが怒りに変わって行くのを感じていた。


「いつもデート誘うのもうちやし、どこいくか決めるのもうちやん! それに話しててもちっとも面白くないねん!」


 聞いていて私の中の怒りの芽が芽吹き、葉をつけ、つぼみになる。


「いっつもメッセージ返してくるの遅いねん! 電話しても出やんし、かけなおしても来ないやん。うちのこと大切に思ってるん!?」

「………………」


 木村君は下を向いて何も言わない。


 ――それ以上は言わないでくれ。特に『あの言葉』だけは絶対に言わないでほしい。私は大人だけど、いくらなんでも『あの言葉』を言われたら我慢ならない。


 そう願っていたのにも関わらず、その言葉は若山さんから放たれた。


「うちはこんなに冬眞のこと『愛している』のに!」


 そのキーワードが響くと、憤怒の大輪の華が開花する。生々しい血の色の花びら。もう我慢することができなかった。


「黙って聞いていれば、言いたい放題言ってんじゃねぇよブス」


 隠していた身を晒す。その憤怒の大輪から溢れる蜜は何でも溶かす強い塩基性水溶液のようだった。


「そんな間に合わせみたいな気持ちで木村君と付き合ってるなら、さっさと別れろ」

「はぁ!? あんたには関係ないやろ!」

「自分勝手なことばっかり言いやがって。顔もブスなら性格も大概ブスだわ。そんなブスと付き合ってやってる木村君に感謝することだな」


 駄目だ。止まらない。

 怒りを抑えられない。悲しみが抑えられない。苦しみが抑えられない。


「木村君はお前が計れるようなつまらない人間じゃないんだよ。有象無象のブスが。だから嫌だったのに。こんな変な虫が木村君につくなんて容易に予想できるから」


 だから、離れたくなかったのに。なんでお前みたいなのが木村君の隣にいるの。私はどんなに願っても、もう叶わないのに。


「『愛している』なんてよくも言えたもんだな。てめぇのそれはただ木村君に求めてるだけだろうが! ふざけんな! ガキが愛がどうのこうの語るんじゃねぇ!」


 私は求めることすら、できなくなってしまうのに。

 メッセージのやりとり? 電話? デート? そんなの私にはなかった。触れることすらできなかった。

 隣を笑いながら歩くことさえ。ただ幸せになってほしいって願いさえ叶わなかったのに。

 相手が泣き出しているのが視界に入っているのに、華は跡形もなく溶かそうと蜜を垂らし続ける。


「何泣いてんだよ!? おい! こっち向け! 木村君に謝れよ!!」

「日隈さん、落ち着いて……」


 男が私の肩に手を乗せて止めようとする。その手を思い切り振り払う。

 バチン! という強い音が響く。


「気安く私に触るんじゃねぇよ。私に気安く話しかけるな」


 思い切り睨みつけると、男は私の肩の辺りを注視し、目を見開き「ひっ……蛇……」とつぶやいて慌てて逃げ出した。

 白蛇が私の身体を這う感覚を生々しく感じる。

 女を見ると女も尻餅をついて泣きながら後ずさる。しかし後ろはすぐ壁だ。逃げられようもない。


「謝れよ、早く」


 私の腕を伝い、白蛇が牙を向いて女へ近づく。

 何も気にならない。許せない。許せないよ。こんなの。こんなやつ、死んじゃえばいい。


 ――ワタシノカワリニ――――……


「日隈さん!」


 木村君の声で私は意識が浮上する。

 私は泣いておびえながら失禁している若山さんを確認する。

 大学生にもなって人前で失禁するなんて、汚いなと私は先ほどのことが嘘のように冷静に分析する。


「……大丈夫?」


 私が手を伸ばすと、怯えてそのまま若山さんは走り去ってしまった。

 木村君は放心している私の手を引いて、人だかりができているお手洗いへの通路入口を抜けて会計を済ませ、外へ出た。

 私は次第に意識が鮮明になってきて、自分が何をしてしまったのか理解するには、そう時間はかからなかった。

 人気のないところまで木村君は私を引っ張ってきてくれた。


「木村君……ごめん。私……若山さんに言いすぎちゃった……勝手なことしてごめん……」

「こちらこそ、すみません……不愉快な想いをさせてしまって……」


 なんで君はいつもそうやって、私に謝ってくるのさ……君は何も悪くないのに。


「ばか……」


 木村君を引っ張り、自分の腕の中に抱きしめる。その細い身体は震えていた。縋るように私に腕を回してくる。

 木村君の匂いがして、私は離れたくないあまりに、強く彼の服を掴んだ。


「君がそんなだから……私はいつも心配なんだよ……いつも……いつも……」


 欲を言うなら、誰の目にも触れないよう。誰も彼が認知しないように自分だけの檻に入れてしまいたい。傷つきやすく、壊れやすいものを、誰にも傷つけさせないように隠してしまいたい。

 絶対に他の誰にも傷つけさせなんてしない。


 ――君が統合失調症でも、そうでなくてもいいって私は思っていた……


 妄想で苦しんでいる君は見るに堪えなかったけれど、でも妄想から覚めてもこの世なんて傷つくことばかりなんだから。


 ――結局君が苦しむなら、そんなのどっちでも一緒でしょう?


「私が好きなのは、君だけだよ。他の……他の何もほしくない……ずっと君の傍にいたい…………」


 涙が溢れる。

 気持ちの抑制ができない。白蛇が私と木村君の身体を巻き付ける。

 あぁ、まるで呪いのよう。

 罪に濡れた私たちを戒める白い鎖。


「じゃあ、いてくださいよ……僕だって……あなたがいなくて寂しかった……」




 ◆◆◆




 まるでここは楽園の果て。

 濡れた髪。白い肌。華奢な身体。不慣れな愛情表現。

 グロテスクな欲望渦巻く、大義名分掲げた罪と罰。体温。混じる涙と二人の境界線。最初から全て操られ、決められた道を歩かされる繰り人形。


 ――それでも……それでも私は解らない……


 愛ってなにが正解なのか解らない。

 夢中で君を助けようとした日々も、結果も地獄だった。でも、君がいなかったら、私は生きる意味を見出せなかった。

 君がくれた生きる意味なら、私は君に惜しみなく命を使う。例えそれが酷く歪んでいても構わない。




 ◆◆◆




 木村君の家の部屋で、私と木村君は話をしていた。服をまとうのも億劫に感じる。

 私たちは大学から木村君の家に帰宅し、そして一夜を明かした。お母様は特に何も言ってこなかったし、私も泊るのは気まずくて挨拶にも行けなかった。

 他の女の子と付き合っていると思っている中、私が堂々と泊りにくるのはおかしい。

 一晩明けて、もう随分いい時間になってしまっていた。


「……会いに来ない方が良かったかな」

「もう、行かないでください」


 何も私に求めてこなかった君が、私にそうやって明確に求めてくるのは嬉しい反面、尚更心が痛む。


「……そうなりたいよ……」


 隣にいる木村君を抱きしめる。暖かい。体温が容易く混じる。


「日隈さんが怒ってくれて、嬉しかったんです」

「あんなところ、見せたくなかったけどな……」

「あんな乱暴な口調で怒るんやって思いました」

「………………」

「僕……日隈さんのこと何も知らない……教えてください」

「………………君のことが大好きってことくらいしか、私はないよ。他に何もない」

「なら、どうしていなくなっちゃうんですか……」


 今までのようにすがる『ような』声ではない、明確に私に縋る声。答えられない。全部言ってしまったら楽になれるだろうか。


「いなくなってないじゃない。また会いに来るよ。……地獄の果てからね」

「……次はいつになるんですか?」

「2年後……かな」


 木村君の腕の抱きしめる力が強くなる。木村君の鼓動を薄い胸板から感じる。

 私にとっては一瞬の出来事かもしれないけど、木村君にしてみたら2年の歳月はけして短いものではない。それは、自殺未遂をしたあのときに嫌という程解っていた。


「ひとつ、言っておかないといけないことがある」

「なんですか……?」

「人を悪く言うのは気が引けるけれど、若山さんとか、あとは森……森なんとか君みたいな、卑賎な人間はきちんと見分けないといけないよ」

「……ヒセンってなんて意味ですか?」

「えーと……卑しくて低俗なって意味だよ」

「酷いことを言いますね」


 木村君はクスクス笑っている。


「もっと乱暴な言葉を遣うなら『クズ』だよ。君は優しすぎるから、気を付けて。解った?」

「解りました……でも、やっぱり、解らない。どうして日隈さんは僕のこと、そんなに気にかけてくれるんですか……?」


 どうしてと問われても、私自身も明確に説明ができない。


「私のこと、救ってくれたから」

「僕が……いつの話ですか?」

「随分前だよ。木村君は覚えてないだろうけど……詳しいことは言わないけど、そう。私、木村君がいなかったら今生きてなかったかもね」


 私の左腕の無数の傷痕を自分でなぞりながらそう言う。私の左腕の傷痕を見ても、何も言わなかった。


「それだけじゃない。私の人生に……意味をくれた。ずっと苦痛に苛まれていた私を助けてくれた」

「…………それじゃ、解りません」


 不満そうに彼は言う。それを聞きながら、私は彼の部屋にあった時計に目をやると、もう行かなければならない時間だった。


「解らなくていいの。はぁ……そろそろ、行かなきゃ……」

「もう……行っちゃうんですか?」

「私も行きたくないけど……いかないといけないから……」


 起き上がって自分のその辺に脱ぎ捨ててある服を着ると、再び彼のベッドに腰かける。木村君も華奢な身体に服を纏う。

 拘置所にいたときのような、飾り気のない服を着ている。以前より少し伸びた髪に触れると、その感触を私は記憶に刻んだ。


「それじゃ、また、必ず会いに来るから」


 木村君の家を出て、私たちは再び別れることになった。

 会うたびに、名残惜しさを増していく。これはまるで薬物の中毒症状のよう。


「元気でね」

「日隈さんも、必ず会いに来てください」


 そう言って別れた。できるだけ潔く。

 冷たい空気の中、私は木村君の体温を思い出していた。




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