あとがき
あとがき
『犯罪』と聞いて、自分とは一切関係のない事件なのに、犯人に憎しみを向ける人は多いのではないでしょうか。
かくいう私も、以前はそうでした。
しかし、刑事事件というのは物凄く奥が深い。
深すぎてどんどん沈んでいってしまって、よもや何も知らなかった頃に戻ることは出来ません。
この物語は、いわば私の願望からできた物語です。
その願望とはなんなのか、その願望の理由をある程度解りやすく解説しましょう。
裁判の傍聴に行ったことがある人は、そう多くないのではないかと思います。
まぁ、あんな堅苦しいところは若者の遊びには退屈なのかもしれませんが、これがまた色々と考えさせられることばかりです。
罪名によってはまったく特色も違えば、当然ですが被告人の特徴や性格、考え方、生い立ちなどが全く違う。
結果は大して変わらなくても、そこに至る過程が何もかもが違う訳です。
私は犯罪者と接点が一切ありませんでした。
幸いにも知る範囲では血族に前科のある人はいませんし、自分も警察のお世話になったのは、中学の時に自転車で右側を走っていた時に注意を受けた時くらいしかありません。
言うなれば『犯罪』というものは、私にとって異世界のようなものでした。
ニュースでは時々聞くけど、自分に関係のある近いものにはどうしても感じない。「自分とは関係ない」「自分はこんなことしない」というのが昔の自分の感覚です。
そうして育った私は、初めて裁判の傍聴に行ったときに『犯罪』という異世界に触れました。
それはもう、衝撃がすごかった。
言うなれば異世界召喚されたような感じです(異世界召喚されたことないですけど)。
『被告人』というものを初めて生で見ました。
初めは漠然と「酷いことした人」くらいにしか思ってませんでしたが、さまざまな裁判を聞いていくにつれて私は考えを改めることになります。
私の世界の天地が逆転したのは、冬眞のモデルになった被告人(以下、『彼』『本人』と言います)と出逢ったことです。
彼は重度の『妄想型統合失調症』でした。
しかし、本人には病識がなく裁判中は妄想所見をずっとはっきりした声で話していました。
心理学科を出て、尚且つ以前、統合失調症というものを患った人の本を読んだことがある私は『統合失調症』とすぐに解りました。
重大な罪を犯してしまった彼は、症状が酷く検察官の言っている事実らしい事柄とはかなりかけ離れたことを言っていました。しかしそれは彼にとっては『真実』であり、嘘ではないわけです。
懸命にそれを訴える彼の姿を見ていて、私は痛ましく思いました。
彼の中では自分は人を殺していないことになっていました。偶然その場に居合わせただけだと。
そんな中、検察官の厳しい尋問に対して彼が謝罪する局面が訪れます。
「あなたが持っていた刃物が当たって、怪我をさせたとは思いませんか?」
それについて彼はこう答えるわけです。
「それについては申し訳なく思っています。ごめんなさい」
けして自分が切り付けたということを彼は認識できていなかったのに、彼は素直に「ごめんなさい」と謝罪したことに私は違和感を感じました。
重ね重ね言いますが、彼は嘘をついている訳ではないのです。
自分の中の事実が統合失調症という病気のせいで歪んでしまっているだけで、罪を逃れようと嘘をついている訳ではない。というのが前提です。
素直に謝罪している彼は素直なだけでした。
この世界の認識が歪んでいるだけで、それは彼にとっては真実なんです。けして外部からの訂正を受付けません。
確固たる真実がそもそも歪んでしまっている状態。
赤だと思っていたものが青だと他人は言う。
Aだと思っていたものはBだと他人は言う。
同居していた母が実は他人だと他人は言う。
実は海外というものは存在しておらず、全ては架空の存在だと他人は言う。
自分の目で見ているものは本当は実在していないと他人は言う。
自分が正常だと思っていたら異常だと他人は言う。
そんなかんじです。
度々『妄想』という言葉を使う人を見かけますが、『妄想』と『空想』を混同しているように思います。
ただ想像して思い描くだけで、それが現実かどうかの区別がつくのなら『空想』。
かたくなに信じ込み、誰が何と言っても是正することができないほど思い込んでいることが『妄想』です。
妄想型統合失調症とは一様にこうだとは言えませんが、自分が国から狙われているとか、自分の頭の中の考えが声に出していないのに盗まれるとか、食べ物に毒が混ぜられているとか、そういうことを思い込みます。
幻聴や幻覚が伴う場合もあります。
話は戻りますが
普通の被告人は心象をよくするために裁判官にこびへつらうものです。しかし彼は裁判官に対して喰ってかかっていた。
その姿を見ていたからこそ、違和感を覚えました。
――素直に謝れるなら、本当は悪い子じゃないのかもしれない
そんな違和感を抱えたままでしたが、たまたま見た裁判だったのでそのまま暫く時間が過ぎました。
私は麗と同様に、精神疾患があります。
傍聴の中で、その場にいた誰しもが彼を理解しようとしていなかったように感じました。精神疾患は理解されません。それは身をもって知っています。
身体障害者や奇形に対しては口汚く罵らないのに対して、精神疾患者は罵詈雑言を吐かれます。
私はそれに対して今も疲れています。
だからこそ、彼の妄想所見の懸命な訴えに反して「理解されない」ということが理解できました。
私は既に理解してもらうということを諦めていました。しかし、彼は懸命に訴え、理解してもらおうとしていました。
それだけではありません。私が捨てようとしていた「生きる事」を彼は諦めていなかった。それだけ理解されないという事実があっても、彼は理解を「諦める」のではなく「勝ち取ろう」としていた。
私よりも圧倒的に理解してもらえないその現実すら、彼は認知できていなかったのかもしれない。
その姿がやけに印象に残ったのです。
しばらくしてから事件のことが気になっていました。
彼の名前を憶えていたので某検索エンジンで検索すると、沢山の記事がヒットしました。当時はそれなりに有名な事件だったようです。
その中に、どういう経緯があって彼の実際に人生が壊れていったのかということを書いているものもありました。
それを読んで私は素直に可哀想と思いました。
彼自身は可哀想などと思われたくないのかもしれません。でも、どう少なく見積もっても憐憫を感じざるをえませんでした。
犯した罪はけして軽いものでもなく、結果だけ見るなら彼は裁かれて当然だと思う人も沢山いるでしょう。
その世論をくみ取るように、彼の精神疾患については一定の認めをするものの、重い刑が彼に言い渡され、私は釈然としない気持ちでいました。
日本には刑法39条というものがあり「心神喪失者は罰しない。心神耗弱者はその刑を軽くする」というような文言が記されています。
何故そう記されているのか?
何故罰しないのか?
その問いは、体感するように明らかになります。
事件のネット記事を見ていて「何かしてあげられることはないかな」と、思ったのが私の転機でした。
まさか、本当に彼に逢いに行くとは夢にも思いませんでした。
自分でもどうして遠くの地にいる彼に会いに行ったのか、どうしてそこまで会社に行く以外は引きこもりの自分がそうしたのか、説明ができません。
どうしても確かめたかったのかもしれません。
自分が感じた違和感を拭いきれないままではいられなかったのかもしれませんし、正直なんなのか解りません。説明できません。
フットワークは物凄く重い上に、仕事に行くこと以外はひきこもりなのでそう簡単に外に出ません。
外に出るのは嫌いです。外に出て人の悪意に晒されるのは本当に苦痛です。
それでも私は足を運びました。
自分でも本当に説明がつかないことをしていると思いました。
拘置所という場所に生まれて初めて行った私は、また別の異世界に行ったような気持ちになりました。
みんな暗い顔をして、面会室に呼ばれるのを待っているのです。
勿論『その筋の人』らしき人たちもいました。
正直怖かったです。
そのときの私の中で『被告人』は『悪い人』でしかありませんでしたし、その界隈の人たちも『悪い人の仲間』でしかなかった。
でもその認識は間違ってました。
徹頭徹尾、何もかもが間違っていた。
彼と、初めて逢ったときなんて言っていいか、何を話したらいいか、解らなかった。初対面だし、アクリル板越しであることを除外しても、どう話したらいいか解らなかったです。
私も彼も口下手で会話が全くスムーズでなく、長い沈黙が何度もありました。
それでも、やはり私が感じた違和感は正しかったと確認できました。
彼は真面目で、真っ直ぐで、正義感が強くて、「生きる」ということを真剣に考えていた。
だからこそ、私は彼に聞きました。
「何か、私にできることある?」
そう聞くと、妄想初見を述べ始め、現実世界では到底できそうにもないことを真剣に頼まれました。
しかし、弁護士の名前を彼の口から聞いた私は弁護士に連絡してみることに。
結果として、門前払い。
その門前払いだったという報告をするべく、なんとか仕事に都合をつけて住んでいるところから物凄く遠いのに拘置所に再び訪れました。
律儀にも。そんなことをする義理はないのに。
どうしても放っておけなかった。
そのとき私が放ってしまっても、彼は多少に疑問は残しつつも私のことを忘れていたでしょう。
それでも、孤独に独り、妄想と現実と戦い続ける彼を放っておけなかった。
放っておきたくなかった、の方が近いのかも知れません。
「ごめん、門前払いだった」
そう告げても、彼は私を咎めたりしませんでした。
「自分ではこんなところにいるので、助かります」
そう彼は言っていました。
なんとも気まずかった。
何もしてあげられない自分が歯がゆかったし、何もしてあげられないのに私はどうして彼の前にいるんだろうと思いました。
以前よりも歯切れ悪く話す私に対して、それでも彼は面会の終わり際に
「話す人いないんで、話すだけでも心の支えになってます。ありがとうございます」
と言いました。
もう、わざわざ言わなくてもいいとは思いますが、麗の心境のままです。
その言葉にどれだけ私が救われたか解りません。
今まで何の意味も見いだせなかった人生に、心許ない意味をくれました。
心許なくても、確かに感じられるその「生きていることを許された感覚」は、それなりに生きてきた私の人生の中では初めての感覚でした。
ずっと、生きていることが許されないと思って生きてきました。
得体のしれない罪悪感をいつも抱えて生きていた時期もあります。
なによりも、精神的な疾患について理解を求めても、本当に仲の良い友人意外は理解してくれる人はいませんでした。
私は、理解を求めるのが間違っているのだと諦めました。
諦め、追い詰められ、逃げ場を失い、もう後ろに下がれば『死』があるのみ。
特に執着もない命を私は持て余していました。
「こんな命、いつでも捨てられる」そう思い続けて、「そろそろ潮時なのかも」と思っていました。
そんな自尊心の低い私が、話しにたった3度訪れただけで彼の『心の支え』になっているのなら、それが自分の存在意義にすらなってしまった。
「たったそれだけのことで」と思うかもしれませんが、私には胸に手を当ててそう言って笑顔を見せてくれた彼に、投げ出しかけていた命を救われました。
私と話すことで、少しでも彼が救われてくれるなら、笑ってくれるなら、せめて私だけは彼の味方でいようと感じました。
それから、私は拘置所という場所に通います。
それこそ春夏秋冬、真夏の暑い日も、真冬の凍えるような寒い日も、少し寒くなってきた秋、桜が咲き乱れる春、拘置所に通いました。
拘置所の中では四季の感覚がどうにも薄いらしくて、桜が外で咲いていても彼には解らなかったようです。
だから、私が外にある桜の花を一輪摘んで面会室へ持って行ったこともありました。
誕生日に花束を持って行ったこともありました。
台風が来ていたのに40分も外を歩いて面会に通ったこともありました。
私たちの間には、『言葉を交わす』ということしかできませんでした。
彼に触れたことなど、一度もありません。いつも間にアクリル板があって、第三者が私たちの会話を聞いている状態。
何十回も、何百回も説得するよりも、一度抱きしめたら伝わることもあるでしょう。
どれだけ大切に思っているか、どれだけ心配しているか、口でいくら説明しても彼にとっては信じることができなかったのだと思います。
それでも、私が遠方から通っているという事実だけは彼にとっては、多少は心を打つものだったのかも知れません。
それでもどうして遠方から通っているのか、彼に理解してもらうことは出来ませんでした。
私の人生そのものを救ってくれた彼に、「大切に思ってる」ということをどれほど解ってほしかったかわかりません。
不思議なもので、朝の面会待ちの為に早く来る人達とは、人見知りの私がよく話すようになりました。
右も左も分らない私に対して、色々教えてくれたりしました。
人生の半分を刑務所で過ごした80歳のおばあさん。
銃の所持で捕まって釈放中のその筋の二人組。
元その筋の人で色々教えてくれた目立つ刺青をしている人。
赤ん坊を連れたお母さん。
息子が逮捕されてしまったフィリピン人のお姐さん。
誰よりも早く来て、一度も順番で勝てなかったお兄さん。
色んな人がいました。
その全員が私に対して優しくしてくれました。
みんな、私にとってはいい人たちでした。
私が遠くから通っていたからなのか、私が女だから優しくしてくれたのか、それとも誰にでも優しくする人たちなのか解りませんが、とにかくみんな、話しかけやすそうではない私に対して気さくに話しかけてくれました(土地柄もあるとは思いますが)。
私は「犯罪をしてしまった人でも、その人を大切に思っている人がいるんだな」と痛いほど感じました。
『犯罪者』という言葉で何もかもが片付いてしまう程、世の中簡単ではないのだと知りました。
私が彼を大切に思うようになってから、尚更世の中の不条理というものに直面していきます。
彼はずっと独りでした。
それでも、私と話しているときは時折笑顔を見せてくれました。
事件の話とか、時事的な話とか、堅い話ばかりしていましたが、時折馬鹿馬鹿しい話をして笑い合うこともありました。
私から見て、その笑顔は、他のどんな、誰の笑顔よりも貴重なものだと思っています。
ずっと独りで、笑うこともない生活から事件を起こし、事件を起こした後に笑うことがどれだけあったのだろうと私はいつも考えてしまいます。
話をするたびに、事実は別にしてやはり彼が事件をおこすような人間には思えなかった。
妄想型統合失調症の症状が色濃くありながらも、彼は人を傷つけるようには見えませんでした。
それが『心神喪失』と『心神耗弱』というものの真意なのだと思います。
そうなっていないときは、症状はありながらも落ち着いている。けれど、一度『その状態』になってしまったら本人自身も止めることは出来ない。
時折彼は妄想所見をまくし立て、私が何も言っていないのに怒り始めることがありました。私は戸惑いました。
けして自分が統合失調症だとは認めようとしない。
世界が狂っているのだと彼は主張しました。
何度も何度も。
その度に、私は彼の世界と、自分の世界のどちらが正しいのか、本当に狂っているのは何なのか、何が正しいのか、何度も何度も考えました。
だからこそ、刑法にそう記されているのだと、私は彼に関わり続ける中でそう解りました。
凄惨な事件の裁判を聞く度に、心の底から同情できない被告人を見る度に「どうして彼の方が重い刑なんだろう」と何度も思いました。
それに、(土地柄のせいもあるとは思いますが)私は街を歩いているだけで何度も何度も何人にも絡まれました。
別に特別派手な恰好でもなければ、色気のある恰好でもなかったのに4回行くと1回は絡まれます。
私は落胆しました。
その落胆は至極私の勝手なのですが……
「どうして彼が拘置されているのに、こんな男たちは野放しなのだろう」
「どうして彼と話せるのは多くて30分なのに、どうしてこんな男たちは20分も30分も私のことをつけ回してくるのだろう」
「どうして……」
虚空に問うても、答えは返ってきません。
事実だけがあるだけです。
私の前で笑ってくれる彼の顔を見る度にこれ以上なく、現実と乖離してしまって辛い。
それが私の事実です。
彼は、自分が起こした事件のことを正しく憶えていませんでした。
なのに、たった一度だけ話をしただけの私の誕生日を彼は憶えていてくれていました。
それがどれだけ私にとって辛かったか、辞書に出てくる言葉の全てを使ったとしても現し切れません。
代われるものなら、私がその罪や罰を背負いたいと強く願いました。
できることなら、事件が起こる前に私が止めたいと祈りました。
しかし、私たちは事件がなかったら会うことはけしてありませんでしたし、勿論『魔』というのはこの世にはありません。
私が過去に戻って彼の事件をなかったことにはできませんでした。
仮にあるとしても『魔』がさすというのは、自分の弱さを誤魔化すための言い訳にすぎません。
あるのは『魔』ではなく、自分の弱さだけ。
私も彼も強くない。
でも、互いを支えることくらいはできるはず。
色々な倒錯がある中、この『ウロボロスの指切り』を書きました。
そうなってほしいと強く祈りました。
教訓があるとしたら『起こってしまったことはどうあがいても元には戻らない』ということです。
言い放った言葉でさえも、けして取り消すことは出来ません。
奪った命はけして返ってきません。
返したくでも、代わりに差し出すこともできません。代わってあげたくても、罰を代わることも出来ません。
病気が治るなら、私が代わりになれるなら代わりたい。そう願っても代わることは出来ません。
そう簡単に物事をかえることはできないのです。
それでも、私はこんな結末を変えたかった。
これまで、それから今もずっと苦しんでいる彼には、これからの人生で償いもあるけれど、それでも幸せになってもらいたい。
彼が償いきれないなら、私が半分背負いたい。
その願いがあります。
だから私はこの話を書きました。
麗と冬眞には、末永く幸せになってもらいたい。
私と彼はそう物語のように幸せな結末にはならないと思いますけど、それでもいつか彼に、私が他の誰よりも、なによりも大切に思っていたということが伝わればいいなと思ってます。
それが彼にとって、かけがえのないことになってくれて、私のことを大切に思ってくれて
そして大切な人ができたことで、自分が奪ってしまった誰かの尊い人の命の重さに、本当の意味で触れてほしいと思っています。
それで彼が耐えられないほどつらい想いをするなら、私が支えたい。
一緒に迷いながらも歩んでいけるように手を取りたい。もう二度と同じことが起きないように。
断罪するのではなく、悲しい想いを誰一人しない世の中になってほしいと心の底から願っています。
それでは、長くなりましたが最後まで読んでいただきましてありがとうございました。
亡くなった方のご遺族の方に、彼に代わりまして深くお詫び申し上げます。
ウロボロスの指切り 毒の徒華 @dokunoadabana
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