私にとって本とは

黒咲 章

私にとって本とは

私にとって本とは、小さな頃から慣れ親しんだ遊びであり、学びであり、人の人生である。

私は小さな頃から本を沢山読んできたが、そのジャンルはそこまで広くない。

少年向け漫画、少女向け漫画、推理小説、ファンタジー小説、SF小説などだ。

その多くは小説投稿サイトや自分で買った本たちだ。

中にはいわゆる駄作と言われる物も数多くあった。

「こんな物は駄作だ」「読む価値がない」

そう言われて捨てられてきた本を私は数多く見てきた。

その中でも本当に酷いものと実は面白いものがあった。

酷いものは本当に酷い。

文章構成もなってないし、キャラクターも分かりづらい。

あらすじも適当であれば誤字脱字もあり得ないほど多い。

そして何より、作者の感情が乗っていない。

いや、正確にはどんな本だろうと作者の感情は乗るのだ。

作者が楽しんで書いていれば読んでいるこちらも不思議と楽しくなってくる。

作者がめんどくさそうに書いていれば、読んでいるこちらも読む気が失せてしまう。

本当に読んで欲しくて書いている小説というのは、誤字脱字が少ない。

仮にあったとしても報告されればすぐに修正してしまう。

しかし、例え読んでいて面白くなくても、たまに何故か引き寄せられてしまうものがある。

そういったものには大抵、作者の思いや体験が乗っている。

そういうものは例え内容が詰まらなくても最後まで読み切ってしまうのだ。

そしてそういうものには大抵、学びがあるのだ。

私はそれを、作者の「人生」そのものだと思う。

例えば太宰治の「人間失格」あれは、明るくもなければ救いもない。

それなのにこんなにも人々に慕われているのは何故か。

それはきっと、太宰治の人生がそこに詰まっているからなのだ。

語りが始まって開幕の一言。

「恥の多い生涯を送ってきました」

それはきっと、太宰治でなければ書けなかったのだ。

真似をして書くことは私にだってできる。

けれど、そこに自分の感情を込めることは出来ない。

たとえどんなに上手く書いたとしても、本物を超えることはあり得ない。

なぜなら、太宰治の「人間失格」は太宰治だけのものだからだ。

太宰治が自らの人生をかけて書いたからこそ、あの本は未だに慕われているのだ。

とある人が言った。「あれは聖書なのだ」と。

聖書に関わる構成が数多く見受けられるのだという。

ある人はこういった。

「聖書が語っているのは、『人はどこから来て、どのように歩み、そしてどこへ行くのか』ということだ」と。

それらを聞いて、私は思った。

「本というのは、まさしく聖書なのだ」と。

人が死ぬときに自分の全てをかけて本を書く。

その中には、一言や二言では語り切れない深みと学びがある。

そしてそれは、まるで聖書とでもいうべき輝きがあるのだ。

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私にとって本とは 黒咲 章 @okaquro

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