第28話 吸血鬼の夜
音さえ凍りつくような、冬の夜。世界が忘れかけているような、廃墟の教会。礼拝堂のひび割れたステンドグラスから注ぐ、月光が暴いた悲劇。
(|吸血鬼≪わたし≫たちはいったい、なにを間違ってしまったのか)
姉の背中を見つめて、日傘はそう思わざるをえなかった。
(|吸血鬼≪わたし≫たちは、なにもかも間違っていたのか)
姉が少女の血を啜っている姿を見て、日傘はそう思うしかなかった。
「――――、……」
姉の肩に頬を預けていた、その少女がこちらに気づいたように微笑んだ。微笑みながら、少女は瞳を眠るように閉じていく。
即座に、日傘は少女と姉のところへと駆けていく。けれど遅かったのだ。
「来てしまったのね」
ゆっくりと振り返る姉――イクリプス・ザ・ブルームーン。唇を伝い落ちる鮮血をぬぐいもせず、抱きしめていた少女――|霧花≪きりばな≫を大事そうに横たえさせた。
「どうして、血を……っ」
日傘は問うた。深紅に染まった両眼が、その答えだと分かっているのに。
「――答えよっ! どうして、われらをかくまってくれた人の血を……どうして、われらを友と想ってくれた人の血を……っ!」
イクリプスは横たえさせた霧花の手を胸元で組ませる。
「霧花は吸血鬼の、闘争の日々を送るには優しすぎるッ! 姉上とて知っているはずッ!」
イクリプスは霧花の髪を整える。厳粛に行われている彼女の所作は、葬儀のようだった。
「……そ、そうか。霧花は自らの意志で、吸血鬼になることを選んだのか?」
イクリプスは霧花の頬をいとおしそうに手で触れている。
「そ、そうなのだな? 『抗体』に耐えきれぬほどに、病に蝕まれた身体を捨ようと願って、霧花は姉上に血を啜るように頼んだのだな?」
手を止めて、イクリプスが静かに首を横に振った。
「霧花の意志ではないというならば、答えよ。返答によっては、私は姉上とて――」
まるで静かな悲鳴のように、イクリプスが告げた。
「許さないで。霧花のように、飢えに狂った私を許さないで」
……それ以上、日傘は姉を問いつめられなかった。思い出したのだ。霧花は血を啜るイクリプスを抱きしめていたことを。自分たちの友は、きっと|吸血鬼≪イクリプス≫を許していたのだ。
どうするべきか分からないまま、姉と霧花を見つめていた。
永遠にも似た、ひとときが流れて、霧花の瞳が開いた。
「――霧花っ! 大事ないかっ!?」
跪いて、日傘は霧花の顔をのぞき込む。
「聞いてくれ。これよりキミは吸血鬼としての日々を生き延びねばならぬ。人間のそれに比べれば過酷だが、問題なかろう。霧花の闘病の日々に比べればな」
思い出のうちにある彼女の密やかな強さに、日傘は微笑む。
「わたしと姉上がキミを守ろう。今までキミが姉上とわたしを守ってくれたように」
友情を確かめるように、笑いかける――けれど。
「――貴女は誰ですか?」
見知らぬ他人に向けるような瞳で、霧花が問うてくる。
「な、なにを言っておる? わたしは日傘で……キミがくれた日傘という名が――」
「了承しました。貴女は、日傘というのですね」
「……霧花? どうしたというのだ? そのような喋り方、らしくないぞ? キミはもっとこう、わたしまで微笑んでしまいそうな笑顔で、声で……」
そのまま続けそうになるのを、霧花の言葉が遮った。
「霧花とはいったい、誰なのですか?」
霧花の瞳は縦長に切れて、赤く染まっていた。指先には鋭い爪、唇からは鋭い牙がのぞいている。日傘は思い知った。彼女はもう自分の友人ではなく、吸血鬼でしかないのだと。
「……貴女は知らなかったわね」
今まで目を伏せていたイクリプスがつぶやいた。
「私たち吸血鬼が血を啜った人間はね……それまでの自分を亡くすのよ」
懺悔するように、イクリプスが続けた。
「私たち吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼に変化するのではないの……転生するの。人間として一度死ぬしかないのよ。それまでの思い出も、生き方も全て失われるのよ」
うなだれるイクリプスに、日傘は掴みかかった。
「それと知ってなぜッ! 姉上はわれらの友人の血を……霧花の全てを奪ったのだ――ッ!」
返り血に染まった顔で、鮮血のような両眼を細めて、イクリプスは哀しそうに微笑んだ。
「耐えられなかったから、でしょうね」
「――――ッ、それでも……われらは今まで耐えていたではないかッ!」
「ええ、その通り。だから飢えだけじゃないわ……私は霧花に焦がれていたの。自分ではどうしようもないほどに、私は彼女に惹かれていた」
イクリプスが日傘に優しく語りかけてくる。
「吸血鬼が人間に惹かれるということは、飢えていくということなの。その人間に惹かれてしまうがゆえにその血を、魂を欲してしまう。その狂想が相手を壊すと知っていてもね」
全てを失ったように、イクリプスは微笑む。
「貴女も自身の吸血鬼の本性に、いずれ気づくわ」
その声音になぜだか胸を震わされて、日傘は姉から手を離した。力なく落ちた手は、霧花だった吸血鬼の少女の胸元に落ちた。
「これから、どうするのです?」
霧花、と答えようとした日傘の唇は震えて、止まった。
「キミの身体も丈夫になった。キミが語り聞かせてくれた学校とやらに行かないか?」
「なぜ?」
「……わたしはキミと学校に行くように約束をしたことがあるのだ。日の当たる場所を歩くことをわたしは願って、キミはそれを叶えてくれると言ってくれた」
「――知りません」
それ以上、日傘はなにも言えなかった。うまく声が出せなかった。どうしようもなく、唇と胸の底が震えていた。もう友人との約束は、自分のものでしかなかった。約束の破片はガラスのように、胸の底を貫く。流れ出す血のように、涙があふれてくる。
目に写る霧花が、自分の涙にゆがんでいく。どこかに洗い流されていくようだった。
それはひどく、正しい。自分の友人は、確かに命を長らえた。
けれど彼女はもう、どこにも居ない。もう、二度と会えないのだ。
「どうして私たち吸血鬼は誰かの生き血を奪うようにできているのでしょうね」
独り言のように、イクリプスが続けた。
「私たちがせめて人間とかけ離れた姿と心であったなら、どれほど……」
吸血鬼が人間の血を啜るということは、殺人に似ていた。
けれど、それは人が人を殺すよりも残酷だった。
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