第27話 吸血鬼と人間の運命
征治朗の声明と砲撃の余韻が止み、伏せていたシュウは即座に跳ね起きた。抱きしめ、覆い被さっていた日傘の顔を見つめる。
「――無事か!? おいッ!」
まばたきして、彼女は目蓋を開く。焦点の合わない瞳。
瞳の色が紅と青で明滅している。
シュウの脳裏を過ぎるのは彼女の言葉。【深紅の瞳のときには人間が獲物に見えてしまう】
(飢餓の進行ッ!? クソッ、ウイルスってのはハッタリじゃねぇかッ!)
思考を巡らしていると、雫が問うてくる。
「シュウ、説明してっ! 今のウイルスって、なに!?」
雫と琴音、楓の顔を見渡す。目に見えての異変はないが、それでも問う。
「……お前らこそ無事か!?」
「え――ええ、あたしは特に……ちょっと、そうね、身体が重く感じるくらいよ」
雫に追従するように、琴音も楓もうなずいた。
「それよりもっ! 日傘はっ!」
雫がこちらへと歩いてくるのを、シュウは手で制する。次いで彼女を抱きしめる。隠すように、守るように。こんなにも身を案じてくれる雫たちに、彼女はきっと吸血鬼の本性を、紅く染まった瞳を見られたくないはずだ。否、それだけじゃなく、もしも彼女が正気を失って雫たちに襲いかかったなら、彼女は即座に『抗体』に殺される。
「俺とこいつは、ここを離れるッ! 雫たちは待機しててくれ!」
日傘を自らの肩に預けるように抱きながら、シュウはスライド式のハシゴに手をかける。片手では難儀するも、片足を高く上げることで無理矢理に登っていく。
「シュウっ! 自分の命も危ないってこと、忘れないで!」
「…………誰に言ってンだ、雫。自分のコトを忘れてるわけねぇだろ」
言いながら、シュウは自身の体を確認。魂の損耗は確かに感じられる。感覚的に鬼道術を使い続けているようだ。ただ焦りはしない。征治朗の言った通り、二、三日は保つのだろう。
「雫たちこそ、なんかあったら報告しろよっ!」
言い置いて、シュウは生徒会室を出る。梯子を伝って、秘密出口の一つの一階の階段脇。階段を駆け上がって、目立たない踊り場へと移動。
即座に、シュウは日傘を横たえさせる。彼女の両眼は閉じられていた。呼吸も荒い。脈をはかろうとして、手が止まる。バイタルの確認に意味があるのか分からない。
彼女と出会うまで吸血鬼を敵としていたから、吸血鬼を生かす術など知らないのだ。
「くそっ、本当に助けたいってのによ……」
奥歯を噛みしめると、視界が滲んだ。涙がたまっている。だが無意味な涙だ。泣くことでは彼女は救えない。けれど、涙が頬を伝う。止めることはできない。
「――俺はどうして……お前を助けられねぇ……」
彼女の頬に、自らの涙滴が落ちて。
「…………シュウよ、それは間違いだ」
彼女の口元が少し、ほころんだ。
「わたしは今までシュウに助けられていたよ。うん、このような場所に連れてこられたのは、雫たちとわたしを救うため、だろう?」
声音はかすれていたが、彼女はそれでも微笑む。
「都合よく勘違いすんな。現実と願望は混ぜると危険だぜ?」
彼女に答えるように、シュウは笑ってみせる。
「今ひとつ冴えない軽口だな、シュウのくせに」
彼女は閉じていた目蓋を上げた。片方の瞳の色はさきほどと同じく、紅と蒼で明滅している。だがもう片方の瞳は深紅に染まっていた。
「――む? シュウよ、どこに居る?」
虚空をさまよう、彼女の紅く染まった瞳。血の涙が伝っている。甲一号ウイルスはやはり、もとより壊れかけていた彼女の魂を蝕んでいるのだ。
「……お前、目が、もう……」
「傍に居てくれているのでは、ないのか?」
今にも消えてしまいそうな彼女に、手を伸ばす。自分を探してさまよっていた彼女の手を掴む。絶対に放さないように、強く握りしめる。
「お前を|野放≪のばな≫しにしたりしねぇーよ」
口元がほころばせ、彼女は幾度かまばたきをする。紅と蒼で明滅していた片方の瞳に変化。蒼色へと戻った瞳が、こちらに向いた。
「うん……もう片眼でしか、シュウの顔を見られないわけか」
「まァ、なるだけお前の右側に居てやるよ」
哀しみと安堵が奇妙に混じり合ったため息をつき、シュウは口を開く。
「……どのぐらい保つか、自分で分かるか?」
問うと、彼女は身を起こして胸元に手を当てた。鼓動を確かめるように、魂のありようを探っているのだろう。自らがまだ生きていることを尊ぶように、彼女は言った。
「夜明けまで、というところだろうな」
今までのように、彼女はやはり微笑んだ。
「なに、落ち着いてンだよ? なに、笑ってンだ?」
口から出た声は震えている。無性に苛つく。彼女のその笑顔が整いすぎていて。
自分の死を当然と思っているようで、どうしてもそれが許せなかった。
「お前な……お前、死ぬンだぞ? 分かってンのか、本当にッ!?」
「似合わないよ、シュウ。わたしに優しいだなんて」
困ったように息をつき、彼女は続けた。
「わたしの命はもとより数日であったのだ。死は常に傍らにあった、今更焦りはしないよ」
「ざっけンな、だから貴重な時間だったンだろーがよっ! それを奪われたンだぞッ!」
彼女が強く手を握ってくる。
「……わたしだけを案じている場合でもなかろう、シュウ。|征治朗≪ヤツ≫によればワクチンとやらを奪取せねばシュウや雫たちの命も危ういのだろう?」
「……|退魔士≪おれ≫と|常人≪しずく≫たちは|吸血鬼≪おまえ≫よりも二日以上の時間が残ってる。もちろん余裕はねぇけど、お前ほどじゃねぇよ」
「ふふっ、そうだな。しかし弱気だな、シュウよ。人化血清『人魚姫』と甲一号ワクチンの両方を勝ち得ればいいだけではないか? 一つ増えたにすぎないよ」
「お前が強気すぎンだよ」
「それはシュウが傍に居てくれるからだよ」
だからね、と彼女は微笑んだ。
「うん、わたしは改めて人間になりたいと願っている。キミの隣で同じ時を過ごしていきたのだ、これからもずっと」
――俺だって、そうだ。
そう答えかけて、しかし、シュウには言えなかった。思い浮かぶは人化血清『人魚姫』の真実。まだ伝えていない、残酷な真実。それを知らない彼女は夢を語る。
「ふふっ、盃を貰ったからな、わたしは悪徳生徒会の一人として|人間≪キミ≫たちと共に日々を――陽だまりのなかを歩んでいくのだな」
それが今夜生まれた夢なのだと、彼女の声音のみずみずしさが告げる。新生した命のように輝いて華やいでいる、その彼女の夢を――
「――人化血清は|吸血鬼≪おまえ≫を救わない」
どうしようもなく、シュウは否定しなければならなかった。父親の遺言によって知った真実。それを伝えるために、声を絞り出す。
「今のは、親父の遺言だ。それは正しい。『人魚姫』は吸血鬼を人間にするだけの都合のいい奇跡、俺もお前もそう思ってた。けど、違うんだ。親父の血清は奇跡を起こさない。『人魚姫』は確かに、吸血鬼を人間にする。だがな、」
自分の手を包む、彼女の手が震え始めた。
「代償として、吸血鬼であったときの能力と記憶、感情が消え失せる……」
自分の手を包んでいる彼女の手を、もう一方の手で今度はこちらが包み込む。
「血清は吸血鬼を人間にするんじゃなく、転生させるんだ。必然、吸血鬼として一度死ぬ」
またも、自分の瞳からは無力な涙が流れる。
「だからさ、お前の夢ってのは叶わない」
涙を拭わず、目蓋を閉じる。きつく目蓋を閉じたから、頬を伝う涙が幾筋にもなる。構わず、言い続ける。続けるしかなかった。
「お前はどうあっても、俺たちと共に生きていけない。お前が願ったように、俺も願うようになったように、俺たちは共に陽だまりのなかを歩めない」
自らの目蓋の形作る暗闇のなかで、彼女の声音が響く。
「そう、か。だから、シュウはウイルスに奪われた、わたしの時間を嘆いたのか」
「……ああ、そうだ。俺の敗北だ。|征治朗≪ヤツ≫の悪知恵を読んでりゃ」
その続きを、シュウはかみ殺した。無意味な後悔だった。征治朗との読み合いでの敗北と、血清の性能限界。現実は思うよりも、ずっと残酷だったのだ。
「わたしはシュウたちと別れなければ、ならぬのか」
聞こえてくるのは、助けられなかった彼女の声。
せめて嘘をつかずに答えるしか、できなかった。
「ああ、そうだ。俺はお前と一緒にいられない」
「せっかく出会えた、のに?」
「ああ……そうだ」
「せっかく、かけがえのない友となれたのに……か?」
「ああ、奇跡みたいにそうなったのに、だ」
「奇跡は続かない?」
「俺たちが居る現実はやっぱり、おとぎ話を許してくれねぇ」
「わ、わたしは――それでも、」
言いかけた言葉を押し流すように、彼女は泣いた。泣き続けた。今までの、微笑混じりの静かな涙とは違った。幼子のように、彼女は告げる。
「……わ、わたしは皆と……シュウと共に居たい、ずっとだ」
「ああ、俺もそうだ」
「ずっと……ずっと共に居られると、思っていたのだ。願っていたのだ! 叶わぬと知った今でも変わらず願うのにッ!」
「ああ、俺もだ」
初めて、彼女の名を呼ぶことにした。
「なぁ、|日傘≪ひがさ≫」
彼女の名を呼ばなかったのは、避け得ない別離があると分かっていたからだ。吸血鬼はやはり肩を並べられるような存在ではないと知っていたのだ。
「俺の血中にはさ、実は『抗体』がねぇんだ。だからさ、構うことはねぇぞ」
懺悔のように告白して、目蓋を開く。目の前にあるはずの、彼女の顔は自分の涙でよく見えない。都合が良かった。彼女の泣き顔なんて、見たくない。
「俺の血をくれてやるよ」
「……なにを言うのだ?」
「俺の血で、お前の時間が少しは増えるかもしれねぇ」
「それは、わたしの信念を――いや、わたし自身を……」
「……分かってる。日傘のこれまで生き方を壊すってのも」
「ならば、なぜッ?」
「独りで死ぬのは嫌だろ? んでさ、俺も日傘を独りで死なせたくねぇンだわ」
強襲部隊から奪っていたナイフを、シュウは懐から取り出す。自らの首筋に傷をつける。
「やめてくれ、シュウ」
彼女の視線が自らの首筋、流れ落ちる鮮血に据えられる。見とれるような瞳。縦に割れる瞳孔、吸血鬼の瞳孔だ。
「に、似合わないぞ、シュウ。自己犠牲など」
彼女の片眼が蒼から深紅へと染まった。彼女の飢餓が血を求め始めている。彼女の蒼色の片眼は吸血鬼の本性を恥じるような色だ。それを許すように、言ってやる。
「これからずっとってのは無理かもしれねぇけどさ、せめて――」
「……それ以上、言うな。わたしが喜ぶとでも、」
「せめて、最後を共にするコトはできる」
「――やめてくれッ!」
「悪いな、こんなコトしか思いつけなくて」
ナイフを放って、彼女を抱きしめる。
「悪いな、お前を助けてやれなくてさ」
彼女はなにも言わない。ただ息遣いを首筋に感じた。次いで、唇のやわらかさも。
このまま吸血鬼になっても、良かった。否、彼女になら魂を奪われて、運命を共にするなら、それはひとつの幸福だとさえ思った。彼女の壊れかけた魂を少しでも救えるのだから。
けれど、いつまでも彼女の牙が突き立てられることはなく。
「……ねぇ、シュウ。わたしはやはり、吸血鬼なのだな」
悲しそうな声音が、シュウの耳と心臓を震わせる。
「わたしはね、キミの血が――魂が欲しいのだ」
それは、吸血鬼の告白だった。だから、彼女はすぐにそれを否定した。
「でもね、この熱情はわたしの意志ではない。吸血鬼たちは望んで人間の生き血を求めているのではない。そのような衝動を生まれたときから、背負わされただけ」
何度となくそうして慣れきったような、静かな嘆きだった。
「やはり、わたしは吸血鬼になど生まれたくなかったな」
そう静かに泣いて、彼女の声音は再び微笑んだ。
「わたしはだから、キミを吸血鬼にしたくない」
彼女の手が、肩を押してくる。
離れていく彼女の身体、見えてくる彼女の顔。
彼女の顔にあったのは幾筋もの涙が飾る、けれど気高い微笑だった。
「わたしはやはり人間となるよ、わたし自身を失おうとも」
この願望に、どれほどの決意が込められているのだろう。
「うん、シュウたちは必ず生き抜いて――どうか、わたしを忘れないでくれ」
この決意に、どれのほどの悲哀があるのだろう。
「なぁ、日傘」
気がつけば、彼女に問うていた。
「どうして、そこまで血を……いや、吸血鬼であるコトを拒むンだ?」
「聞いてどうするのだ?」
「……忘れないだけさ」
「ふふっ……ねぇ、シュウ」
楽しそうに細められた、彼女の瞳。片方の瞳はもう深紅に染まったまま。もう元には戻らないのだろう。ただ片方の瞳の色は青のまま。彼女が憧れ、見上げることの叶わない空の色彩。
「キミはどうしようもなく性悪なのに――どうしようもなく優しいな」
その声音はたおやかで、どこか儚げで、やはり月明かりのよう。けれどそれを言ったら、彼女はきっと哀しむのだろう。たとえられるなら、陽の光が良かったと少し笑って。
いろいろな表情の、彼女の声を聞きたいと強く思った。たとえ吸血鬼の見知らぬ哀しみにひび割れていようとも、彼女の声ならば悲鳴でさえも聞き届けたかった。
「とても吸血鬼らしい話をしよう……わたしの姉が人間の血を啜ったときの話だ」
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