第56話 小さなことと大きなこと
「頼んだぞ……」
ワンアウトランナー一塁三塁。この場面で打席に入るのは、『元最強打者』で『現最弱打者』の本田珠姫だ。珠姫は三年間で百打席以上は立っているが、両手で数えられる、下手すると片手で数えられる程のヒットしか放っていない。
打てるのに打てない。練習ではホームランや長打を量産する。しかし、試合になると打てなくなるイップス、『打撃恐怖症』に陥っている。
放ったヒットも打ち損じた当たりで、運良く内野安打やヒットになったものがほとんどだ。夜空や二年生に聞いたところによると、ジャストミートしたヒットを放ったのが合宿での練習試合が最初で最後だと言う。
この局面、巧は珠姫に声をかけない。無駄にプレッシャーを与えればさらに打てなくなるだろうと思ってのことだ。
初球、内角低めのストレートに珠姫は避けるような仕草を見せる。
「ストライク!」
危険球という程でもない普通のストライクゾーンへのボールだった。しかし、デッドボールが原因のイップスのため、内角が怖いのだろう。
二球目、外角低めへのカーブだ。
「ストライク!」
珠姫は豪快なフルスイングを見せるものの、バットがボールに当たる様子はない。理想的なフォームから、スイング直前にバットがとひょうもないところに向かっている。フォームが完全に崩れている。
三球目、外角高めへのカーブだが、これは見送りボールだ。選球眼は良い。ただ問題はスイングだった。
四球目、外角低め、やや甘く入ったストレートだ。それを無理に打ちにいった珠姫は、ただ当てただけのバッティングとなる。
「ショート!」
本塁封殺とゲッツーを共に狙っている中間守備の陣形、前進していたサードの横を抜ける。しかしそこにショートが回り込む。
サードランナーの由真のスタートは早い、ゴロとなった瞬間に迷わずホームに突っ込んだ。
「ボールセカンド!」
本塁は無理、と判断した相手キャッチャーはゲッツーの指示をする。回り込んだショートが難しい体勢から二塁に送球する。
「アウト!」
ファーストランナーの夜空もただではアウトにならない。二塁に滑り込み、ゲッツーを崩しにかかる。
「ボールファースト!」
キャッチャーの指示と同時に、二塁に入りボールを保持する相手セカンドはファーストへの送球をする。
バッターランナーの珠姫も必死に一塁を駆け抜ける。ほぼ同時に送球は一塁に到達した。際どい。
判定は……。
「セーフ! セーフ!」
間一髪セーフ、ゲッツーを阻止した。夜空のスライディングを避けながら送球をするという難しい体勢だったこと、そして珠姫もそこそこの走力を持っていることから何とかセーフとなった。
「ナイスラン!」
際どいところだったが、よく走った。巧は大声で珠姫に声をかける。
珠姫がセーフになったことには大きな意味がある。ランナーが先にホームを踏んだとしても、詰まっている走者が次の塁に進塁せずにスリーアウトとなれば得点には至らない。今回の場合は夜空が二塁、珠姫が一塁に到達する前にだ。
夜空はアウトとなったが、珠姫はセーフとなった。そのため、アウトカウントはワンアウトからツーアウトとなっただけで、まだ攻撃は終わっていない。そして、明鈴高校は一点を返した形となった。もし、珠姫がアウトとなっていれば、得点も認められなかったところだ。
「ねえねえ巧くん」
「なんでしょう?」
隣でスコアを取る美雪先生が声をかけてくる。質問の予想はだいたいついていた。
「今のプレーで一点っていうのはわかるし、珠姫ちゃんがアウトになってたら得点なしっていうのもわかるんだけど、どういうルールなの?」
これはよく野球初心者がつまるところだ。フォースアウト(フォースプレー)というところは説明が難しい。
「ゴロに限った話ですけど、走者が後ろにいた場合、基本的には次の塁を狙わないといけないんですよ」
フライとなったらまた別の話のため、今回は割愛しておく。
「例えばランナー一塁だったとしますね。ゴロが打たれたら一塁のランナー……ファーストランナーの後ろにバッターランナーが発生します」
「バッターランナーって、打った人だよね?」
「はい。そのバッターランナーは一塁を目指しているわけなので、ファーストランナーは一塁を空けないといけないんです。なので、ファーストランナーは二塁を目指さないといけません」
「普通のゴロを一塁に送球するしただけでアウトになるっていうことが二塁でも起こってるってこと?」
「そうですね」
打てば一塁を踏まなければならないため、バッターランナーにタッチせずともファーストにボールを送れば自動的にアウトになる。ファーストランナーも二塁に踏まなければならないため、二塁にボールを送れば自動的にアウトとなるのだ。もちろんボールを持ったままタッチしてもアウトとなる。
「進まなければならないランナーが進んでいないまま、スリーアウトになったら得点が認められないんです。だから今回の場合、もし珠姫がアウトになってれば、一塁に進まなければいけない珠姫がアウトになってスリーアウトとなるので、得点が認められないってことになります」
「なるほど……」
これが質問の回答だ。得点よりも進むべきランナーが進むべき塁に到達しているかというのが優先される。
この際だ、と思い、巧は補足説明をする。
「ちなみに、ランナー二塁のみとか、ランナー三塁のみとかだと後ろにランナーが詰まっていないので、次の塁に進まないといけないっていう義務が発生しないんですけどね」
「ランナー二塁三塁だったら?」
「サードランナーから見たら後ろにセカンドランナーがいますけど、セカンドランナーは二塁に留まるのと三塁に進むっていう選択の余地があるので、サードランナーも進まなくても大丈夫ですね」
この場合、ランナーが塁を離れた状態でボールを持った人がタッチすればアウトになるが、次の塁に送球してもアウトとはならない。
「まあ、まとめると、ランナーが詰まっている一塁のみ、一塁二塁、満塁の場合は送球するだけで自動アウトです。今回みたいに一塁三塁の場合はサードランナーは進んでも留まってもいいですけど、ファーストランナーは二塁に進まないといけないってことですね」
やや説明が長くなってしまった上にややこしい話だが、美雪先生は納得がいった様子だ。元々ルールはある程度把握している人だ、どういう理由でそうなっているのかがわからないためこの機会に聞いてきたというところだろう。
「とりあえず、今はこちらが一点を返してツーアウトランナー一塁ですね」
たかが一点、されど一点だ。それに初回に先制されてからその裏で点を返し同点にする。攻撃をする立場としても一点を追いかけるプレッシャーも、守備をする立場としてもこれ以上点をあげたくないというプレッシャーも軽くなった。
続くバッターは五番の亜澄だ。
「亜澄! 思いっきり自分のスイングをしてこい!」
巧の声かけに亜澄は頷き打席に入った。
単打で繋ぐことも大事だ。しかし、ここは亜澄のバッティングが、エース柳生の投球にどこまで対応できるのかをこの目で確認したかった。
一点を失った柳生は一段とギアを上げる。
初球から外角低めにストレートを決める。
二球目には緩急差をつけたカーブを内角高めに亜澄は空振りだ。
そして三球目。内角低めへの鋭い投球。
『簡単には終わらせない』
亜澄も黙って終わる選手ではない。難しくも際どいボールにスイングを合わせていく。
鈍い金属音。その音ともに打球は高々と上がる。
レフトが下がる。レフトが下がる。まだレフトが下がる。フェンス直前で相手レフトの足が止まる。フェンスギリギリ、落下してきた打球はレフトのグローブに収まった。
「アウトー!」
審判の判定に、一塁を回ったところで亜澄は落胆する。
今の打球は打球音からして完全に芯を外していただろう。芯であれば心地よい金属音が響くはずだ。
そんな芯を外した打球をフェンス際まで持っていった。諏訪亜澄、味方ながら恐ろしいパワーだ。
「切り替え切り替え、同点になったんだ、しっかり守っていくぞ」
作ったチャンスを広げられなかったが、しっかりと一点はもぎ取った。ワンアウトランナー一塁三塁で点が入らないことなんてザラにある。なんならノーアウト満塁でもだ。
この一点はしっかりと繋いだ、紛れもない実力でもぎ取った一点だ。
ただ、試合はこれから。不安定な立ち上がりでお互い一点ずつ取ったのみだ。どんな試合展開になるのか、全く予想がつかない。
「頼んだよ、みんな」
巧はただサインを出し、そして応援するだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます