第44話 三年生と二年生⑧ プレーと実力
代打、羽津流。
それはこの状況で聞きたいない言葉だった。
先ほどの打席、土屋護がバッターボックスに立っている際には、ネクストバッターズサークルにはそのまま八番打者の霧島夢乃が立っていたはずだ。
護が凡退に倒れたから代打を起用したのか、はたまた元より夢乃の打席になれば代打の起用のつもりだったのかは知る由もない。
そんな仮定の話はどうでもいいが、事実、この羽津流が打席に立っている。
ワンアウトで一点差。もしホームランがあれば途端に同点となる。ピッチャーの平河秀も簡単に打たれるピッチャーではないが、それでも球速がある分真芯に当たれば最悪のケースだってある。球威で押し切ればこちらの勝ち。ただ、強打者と対峙するということに一抹の不安を感じていた。
しかもネクストバッターズサークルには森本恭子だ。この打者も怖い。
次の打者を意識しすぎれば、今の打者にもやられてしまうだろう。まずは今の打者である流を抑えることに集中する。
「君と対戦するのを楽しみにしてたよ」
バッターボックスに入る前、流がそう言ってくる。
「どういうことですか?」
「一つ下とはいえ、中学時代最強の選手の君のリードで水色学園のエースと対戦できる。水色学園のエースとの勝負ではあるけど、君との勝負でもあるからね」
流の言うことはあながち間違えではない。実質のところはピッチャーとバッターの対戦だが、結果はキャッチャーのリードに左右される場合もある。
もちろんリードだけで結果が変わらない場合もあるが、ピッチャーとバッターの勝負であると同時に、これはバッターとキャッチャーの勝負でもあった。
「恭子も楽しみにしているみたいだよ」
流はそう言い、ネクストバッターズサークルで打席を今か今かと待ち構えている恭子に視線を向ける。
「お手柔らかにお願いしますね」
「こちらこそ」
流は打席が入る。気合や硬さを感じるわけでもない。ただ、飄々とした流の態度からも威圧感を感じていた。
まずは初球、どう攻めていくか。じっくりと考えた末にサインを出す。一発目で秀も納得がいき、首を縦に振った。
ボール球でもいい。まずはこのコースで牽制する。
秀の投球は内角低めを抉るストレートだ。際どいコースに流は反応したが、それを見逃してボールはミットに収まる。
「……ストライク!」
よし、上手くいった。
ボール球と判断されてもおかしくないその球に対し、巧はミットを流の真後ろから動かし、キャッチ直後にストライクゾーンに入れてミットを止めた。
拙いながらもフレーミングが上手くいった。ただ、ボールはミットの先、キャッチャー経験のない巧はボールを取りこぼしそうになっていた。
……多用しすぎるとミスが起こりそうだ。
「えー、先生。今のストライクですか?」
「私がストライクって言ったらストライクなんだよ。退場にしてやろうか?」
監督と選手。そんな冗談まじりの会話をしながら、流は「ちぇーっ」と残念そうにしていた。
しかし、直後に表情は切り替わる。
初球をまるで忘れたかのように次に来る二球目のことを考えている。前のことは引きずらない、それがこの流の凄さと言ったところだろうか。
二球目はどうするか。一度目は首を横に振られ、二度目で秀はうなずく。
投球体勢に入る秀。投球を今か今かと待ち構えている流。二人が対峙する。
二球目は弧を描くような軌道のカーブだ。ボールは真ん中から外角へと逃げていく。流のバットも反応する。しかし、それは途中で止まった。
大きな変化からワンバウンドしたボールは巧のミットに収まる。その瞬間、巧は一塁審判を指差した。主審の神代先生も巧に合わせて一塁審判を指差す。
判定は……セーフのコールだ。つまり、スイングしなかった、ボールということだ。
残念だが、納得はいく。スイングとしても途中で完全に止まっていたため、一抹の可能性にかけて判断を仰いだだけだった。
切り替えるしかない。三球目は力で押し切るか、躱していくか。どのようにリードしていくのか、巧は頭をフル回転させていた。
ワンボールワンストライクの場面。外す選択肢はなかった。局面的にはピッチャー有利と言われているが、巧はそう考えていない。
ボール先行からストライクを取ったならまだしも、今回はストライクを取ってからボールカウントが増えた。連続でボールは避けたいところ。カウントとしては有利と言えるだろうが、連続のボールを避けたい思考から、次はストライクを狙いに行きたい。
そうなると外す選択肢はなくなる。かと言って安易にカウントを取りに行けば間違いなくそこを叩かれるだろう。
躱していくボールは空振りを取るのに有効だが、見極められればボール球となる可能性もある。そうなればストレート一択だ。
そう考え、巧はサインを出す。そしてそのサインに秀もうなずいた。
三球目、秀が放ったボールは外角真ん中辺りへと向かっていく。待ってましたと言わんばかりに流はバットを振るった。
しかし、バットは空を切った。ボールは低め、巧のミットの中だ。
「ストライク!」
この三球目はストレート一択だ。だからこそ空振りを取れるスプリットを要求した。そう読んでくると読んだ上でだ。
カウントは取れるように、しっかりとストライクゾーンを捉える程度の甘めのコースだ。もしこのスプリットを狙い打たれていればひとたまりもなかっただろう。だが、強打者に対して甘めのボールを投げないだろうという予想の逆を突いた。
そして流は予想していたであろう外角のストレートという甘い誘惑に嵌った。それがスプリットとも知らずに食いついたのだ。
「……度胸あるねぇ」
「どーも」
カウントは取れるだろうと思って要求した球だったが、実際にボールがミットに収まるまではヒヤヒヤしていた。
ただそれでもしっかりと空振りを奪うことには成功しているため、ひとまず安心だ。
次の投球に意識を切り替えていく。
カウントはワンボールツーストライクと追い込んでいる。こうなれば選択肢も多い。
空振りを奪うボール。見逃し三振を狙いながら凡打を狙う際どいボール。あとは外して様子を見ても良し、場合によっては外したボールでも空振りや凡打も狙えるだろう。
そうなれば何を選択しようか。
サインを交わし、巧はミットを外角に構える。
秀が投球動作からボールを投げた。外角真ん中に向かってボールは一直線だ。
流はそれに合わせてバットを振るう。しかし、ボールはバッター手前で沈んだ。
外角低めへのスプリットだ。
よし、これで三振だ。巧はそう直感していた。
しかし、流のバットはボールを捉えた。
「ファースト!」
ファースト右横への鋭い打球。ファーストは追いつけずに外野へと抜ける。
「……ファウル!」
打球はギリギリ一塁線を割った。
危なかった。このままフェアとなっていれば長打コースになり得た打球だ。
「ふぅ……」
一度息を吐き冷静さを取り戻す。
二球続けてスプリットという裏をかこうと思ったが、不発に終わった。コースとしてはストライクかボールか判定に迷うような際どいコースだった。それをいとも簡単に弾き返された。
次はどうしようか。カウントは変わらずにワンボールツーストライクと有利なカウントだ。無理に勝負する必要もない。ただ、ずるずると引きずればフォアボールを選ばれる可能性もある。
ここは一旦仕切り直そう。いくつかサインを出したが、秀は全てに首を横に振った。
勝負させろ。
秀が放つ威圧感はまるでそう言っているかのようだ。
巧はもう一度違うサインを出すと秀は首を縦に振った。
好きなコースに最高の球を投げ込んでこい。巧はそう言うかのように、どのコースでも捕れるようにど真ん中に構える。
五球目。秀が投球動作に入る。ワインドアップから足を大きく上げ、静止。そこからダイナミックな動きで足を踏み込み、腕を振り抜いた。
今日一番の球だ。ボールが秀の指先から離れた瞬間にそう感じた。
流も当然このボールに応戦する。楽な姿勢から足を踏み込み、バットが動く。コンパクトなスイングから生み出される鋭いスイング。
ボールは内角を抉る高めのストレート。瞬時に反応してミットを動かした。そしてそのボールに釣られるように流のバットも内角高めを狙い打つ。
嫌な金属音。
ボールはバットの根本に辺り、後ろに飛球する。打球は上り、バックネットに迫ろうとしている。
まだ落ちていない。
打球が上がった瞬間、マスクを外し、真後ろにいた主審の神代先生を躱して走り出した。落下地点はわからない。ただ、巧はボールを追いかけていた。
届くか、届かないか。微妙な位置だ。
巧は打球に向かって精一杯ミットを出した。
目の前にはバックネットフェンス、そのままの勢いで激突する。そしてそのまま受け身は取れずに地面に激突した。
神代先生が駆け寄り、打球の行方を確認する。巧はボールの収まったミットを掲げた。
「アウト!」
捕れた。秀の投球にプレーで報いることができたことに安心する。
大したリードはできていない。それ以外のプレーで返せたことがなによりも嬉しかった。
「いてて」
怪我などはないものの、フェンスと地面に激突した体は痛む。
「大丈夫?」
そんな巧の様子を見に来た秀に手を差し伸べられ、その手を掴んで巧は立ち上がる。
「大丈夫ですよ」
このアウトは大きい。自分で掴んだアウトだが、ファウルになるかアウトになるかというところでアウトにしたというのは大きな違いだ。
「よく捕ったね」
キャッチャーフライは他の打球とは違う。投球に反発した打球とは違い、投球と同方向に進む打球だ。不規則な回転によって落下地点を見失う捕手は多い。
「たまたまですよ」
本当にたまたまだった。打球の方向へ本能のまま飛びついた結果、捕球に成功しただけだ。
「それでもすごいよ。ナイスプレー」
「ありがとうございます」
やっぱり野球は楽しい。一つ一つのプレーで自分の実力が発揮できるか、できないのか、むしろ実力以上のプレーができたりもする。そんな確実性はないが、一人のプレーだけで戦況がガラッと変わる野球が好きだ。
秀は軽く巧の背中を叩く。
「あとワンナウト。しっかり取っていこう」
秀の一声に巧は気を引き締め直す。
あとワンナウト。長かった学年別の練習試合がそれで終わりを告げる。
そして打席に向かってくるのは、前年度に光陵の四番に座っていた森本恭子だ。
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