第7話 意地と意地悪


 監督をした練習試合が終わり、練習試合から一週間近く経ち、巧は平穏に学校生活を送っていた。……というわけもなく、陽依や伊澄がたびたび教室に押しかけてきたため大変疲れている。


 キャッチャーの司とはよく話すようにはなった。同じクラスということや、元々落ち着いた性格の司とは話も合う上に勧誘はしてこない。邪険にする必要はない。


「最近部活はどうなんだ?」


 移動教室の途中、巧は司に問いかけた。


 司と巧は野球談義はするが、部活のことは話さない。勧誘でうんざりしていることを知ってか、あえて司は部活のことを話してこない。しかし、気になるのも事実なため、巧の方から話を切り出した。


「うーん、特にこれと言って何があるわけじゃないかな。普通に練習はしてるし、変わったことも起こってないよ」


 要は今まで通りでいつも通りということだ。


「夜空さんは練習試合以降ほとんど話してないし、姉崎と瀬川は未だに勧誘してくるけど、他のみんなから勧誘されるわけじゃない。正直俺は女子野球部に俺が必要だと思ってないんだよ。神崎はどうなんだ?」


 少々思い切った質問だ。勧誘されるのはうんざりしているとはいえ、必要ないとはっきり言われるとそれはそれで傷つく。複雑な気持ちだ。


「よそよそしいなぁ。司でいいよ。……そうだなぁ」


 司は少し考えると、口を開いた。


「前の伊澄との対決以降、巧くんがすごいのは部内のみんなわかってるから強くなるためにはいて欲しいって感じかな? たまに話題にもなるし。私ももちろん巧くんが監督してくれれば嬉しいけど、それは巧くんの問題だし、私が無理を言えることじゃないと思ってる」


 司の話に巧は少し照れてしまいそっぽを向く。


 自分が拒んでいるとはいえ、必要とされるのは嬉しい。面と向かって言われると尚のことだ。


「もしかして、ちょっとはやる気になってくれてる?」


「いや、全く」


 巧の即答に司は肩をガックリ落とす。


「なんか、姉崎と瀬川が暴走しているだけのように見えてな。ちょっとした疑問」


 陽依と伊澄、あとはたまに黒絵が勧誘してくるくらいだ。逆に言えば他の部員は巧のいない現状で満足している。そう思っての質問だ。


 依然巧の答えは変わらない。


「ふーん。じゃあ、私も巧くんの気が変わるように勧誘しようかな」


「や、やめてくれ……」


 余計なことを聞いてしまった。そう思ったがすでに司はやる気満々だ。


「私はキャッチャーだからね。作戦を考えるのは得意だよ」


 ニッコリと笑う司に、巧は苦笑いをする。


 悪い言い方だが、考えなしに声をかけてくるだけの陽依や伊澄よりも何倍も厄介そうだ、と巧は冷や汗をかく。


「そろそろ授業始まるし、急ごっか」


 教室は目と鼻の先だが、あと一、二分で授業が始まる。


 二人は席に着き、授業開始のチャイムを待った。




 翌日。放課後になり、帰路につこうと巧は下駄箱に向かっていた。


 今日のところは陽依や伊澄の勧誘はなく、平和だった。そろそろ諦めてくれたのかと思いながら、巧は自分の靴が入っている下駄箱の扉を開けた。


 すると、その中には一枚の封筒。疑問に思ってそれを手に取ってみると、ご丁寧にハートのシールで留められていた。反対側には『神崎司』の文字がある。


 まさか……。


 冷静になって考えてみれば司も女子高生だ。思春期だ。他の女子と同じく色恋沙汰にも興味があってもおかしくない。


「はあ!?」


 困惑で変な声が出てしまう。周りの生徒に訝しげな目で見られ、巧は咳払いをすると慌てて靴を履き替えて外に出た。


 手紙の内容を確認するため、昇降口から少し離れたところに移動する。


 司を見る限り、男友達と話している様子はない。もちろん巧を除いてだが。それにしても自分がその対象になっているとは思っていなかった。


 司の容姿は悪くない。他人と比べるつもりはないが、華やかさがある夜空やクールな雰囲気の伊澄とはまた違い、大人しくあまり目立たないがよく見れば顔は整っている。


 ドキドキしながら巧は封筒を開封する。中学までは一切なかった恋愛という青春の一大イベントに少し震えた手でハートのシールを剥がす。すると、中には一枚の手紙が入っていた。


 内容はこうだ。


『果たし状

放課後、グラウンドにて待つ

神崎司』


 あっさりとした文章だが、達筆な字でそれだけ書かれていた。


 興奮していた巧はその文字の意味を理解した瞬間、一気に血の気が引くのを感じた。


 この手紙は俗に言うラブレターというわけではない。内容も自分の恋心を伝えるものではない。


 変わった性格の人であれば斬新なラブレターと納得できなくもないが、普段真面目な司に限ったこんなラブレターを書くはずもないだろう。指定場所もグラウンド。本当に告白されるのであれば、人気のない場所を指定するだろう。


「あいつ……」


 悲しいのか安心なのかよくわからないが、ひとまず愛の告白ではない。ただ思春期の男心を弄んだ罪は重い。沸沸と怒りが湧いてくる。


「……はぁ。とりあえずグラウンドに行くか」


 イライラを抑え一息つくと、巧はもう一度手紙、もとい果たし状に目を落とした。


 指定されたのはグラウンド。女子野球部が練習しているところだ。


 無視して帰ってもいいが、一言文句を言ってやろう。そう思い、巧はグラウンドに向かった。




「あ、来てくれたんだ」


 こちらが声をかける前に司はこちらに気付く。練習の準備をしていたが、その手を止め、こちらに駆け寄ってきた。


「あれはなんだ」


 巧はムスッとしながら不満な表情を隠さない。


「どう? ドキッてした?」


 司はニヤニヤしながらそう言う。


「わざとか? わざとだろ?」


 たまたま、ああいった封筒とシールしか持っていなかったと言われればそれまでだったが、表情を見る限りやはり確信犯だったようだ。少し意識をしてしまった手前、意地悪そうにニヤける司の表情が少し可愛く見えてしまい、目を逸らした。


「それで、何の用だ?」


 心を弄ばれた怒りを抑え、話題を本題に戻す。実際、何か用事があって呼ばれたはずだ。


「勧誘よ」


 ……やはりか。『果たし状』という文字を見て予想はしていたが、直接的な勧誘というわけではないため何かあるのだろうと思っていると、聞く前に司が説明を続けた。


「うちの投手陣と勝負して欲しい。抑えられたら巧くんは監督をする。抑えられなかったらもう勧誘はしない。それでどう?」


 ……そういうことか。単純でわかりやすい。


「でもそれは不公平じゃないか? 俺だって全打席でヒットを打てるわけじゃない」


 怪我で満足にボールが投げられないとはいえ、今でもバッティングには自信がある。それでも十割打てる打者なんてプロにもいない。男女の違いがあるとはいえ、何打席か入れば一度は凡退するのは目に見えている。


「自信ない?」


 あからさまな煽りだ。しかし、その手には乗らない。


「本当にいい性格しているなお前……」


「ありがとう」


 皮肉を素直に受け取られ、巧は表情を歪める。


 司のことだ、意味を理解した上でそう言っているのだろう。短い付き合いだが、お互い接する時は素に近いためなんとなく性格は理解していた。


「まあ、言ってみたけど流石にそんな条件で受けろなんて言わないよ」


 そうなれば儲けもの、くらいのつもりで言ったのだろう。あらかじめ考えてあったのか、司は続いて言った。


「三振。巧くんから三振を取れば文句はないでしょ?」


 最悪追い込まれたら適当に当てて凡退してしまえばいい。バントでもいい。もちろんそんなことはしないが、それはそれで逆に司たちにとって不利な条件だ。


「それで良いならいいけど……」


 こちらとしてはむしろ有難い条件だ。これでスッパリと勧誘されなくなると思えば悪くない。


「じゃあ、決まりね。準備があるからちょっとだけ待っててね」


 そう言うと、司はさっさとこの場を離れ、夜空の元に向かう。すると、すぐに話が伝わったのか、野手陣はキャッチボールを開始し、投手陣も肩を作り始めた。




 しばらくすると夜空がやってきて、「もう良いよ」と言われると、ヘルメットを被り、バットを手に持ち、左打席に入る。


 女子用の物なのでヘルメットは少しキツイが、問題はない。バットは数ある中から自分好みの一番長いバットを選ぶ。


 一番手は夜空。夜空の真髄はピッチャーではないとはいえ、それでもかなりのレベルだ。中高生ではよくある話だが、チームの主力は結構ピッチャーが出来る人が多かったりする。


 初球、緩い打ちごろの球だ。それがど真ん中。しかし、そんな気の抜けた球を投げるわけがない。


 巧はそれをわかった上でバットを振り抜いた。


 内角低めいっぱいのカーブ。もしかしたらボール球だったかもしれない。


 その球を弾き返し、三遊間を破る。


「初球から変化球、しかもストライクを取りにくるわけじゃなくてコーナーギリギリ。流石ですね」


 巧は夜空の球に賛辞を送る。嫌味ではない。


 初球はストライクを取るため、ストレートを選ぶ傾向が強いが、ボール球になることを覚悟で変化球とは珍しい。


「バレちゃってたかー」


 夜空は「あちゃー」と言いながらマウンドから降りる。


 元々変化球を狙っていたわけではない。伊澄の投球スタイルがカーブを主に組み立てているということと黒絵がストレートしか投げれない投手だということを除けば他の投手のことは詳しくない。


 そのため、来た球を打つという選択をしており、本来ならそんな難しい球に手を出す必要はなかったが、司たちを早々に諦めさせるために打ち返した。


「これ、司の作戦?」


「わかる?」


 今回マスクを被っているのは司。元々挑んで来たのは司なので不思議ではない。陽依や二年生でサードを守る藤峰七海もキャッチャーを出来るが、陽依はピッチャーとして今回投げることと、七海は守備を固めるためにサードに就いているため、自ずと司がキャッチャーとなる。


「普段はそうでもないけど、勝負事になると司はいやらしいからな」


「うーん、とりあえず褒め言葉として受け取っておくよ」


 相手の嫌がる作戦を考えられるという意味ではキャッチャーとしての立派な才能だと思っている。微妙な反応だったが、巧としては褒めたつもりだ。


 今回、女子野球部の目的は巧から三振を取ることなため、巧は一塁まで走らない。巧が打てば、次の投手に変わっていくフリーバッティング……いや、フリーピッチングと言った方が正しいか、そんな方式だ。


 続いて夜空から次のピッチャーへと変わる。次のピッチャーは梨々香だ。


 以前の試合で代打起用した二年生の佐々木梨々香の主な守備位置は外野だが、頭数が足りないということもあってピッチャーもたまにしていたとは試合時に聞いている。しかし、一年生の入部でピッチャー陣は豊富となったため、その後はほぼ登板していないはずだ。


「少しでもピッチャーを増やして三振を取れる可能性を高めたいからね」


 巧の疑問に気付いたようで、口に出す前に司が答えてくれた。


 しかし、梨々香との対戦は、ボール球が続いて甘く入った三球目を弾き返し、あっさりと右中間を破った。


 次のピッチャーは陽依。球種はわからないが、変化球が多彩だ。しかし、変化量は大きくない。


 一球目は見逃してストライク。二球目は恐らくシュートだろうが、外側に逸れてボール球となる。三球目の低めに来たカーブも見逃してボールだ。


 四球目、内角高めに来た鋭いカットボールを当てに行き、ファールにする。


「ストレートも変化球のキレも悪くないし、コントロールもいい。三振を取れる変化量さえあればエース筆頭だな」


「確かに」


 なんでも器用にこなせる陽依だが、欠点を言えば突出したところがないことだ。


 五球目、またもや内角高めに来たボールはストレート。これもカットし、ファールにする。


 六球目、外角低めに来た鋭いボール。


 嫌な金属音とともに打球はレフト前に弾き返す。バットの先っぽに当てただけのバッティング。しかし、ヒットはヒットだ。


「カットボールか」


 四球目にも見せたカットボール。鋭く手元で動くため、巧でも少々苦戦する。それでもしっかりとヒットにする。


「結構散らしているつもりなんだけどね。わかりやすい?」


「まさか。打ちにくいよ。素直に来てくれない分、全く読めない」


 この辺りは司によるものが大きいだろう。


 打ち取ればいいだけであれば、低めを徹底的に攻めていけばそのうち内野ゴロでも打つだろうが、三振を取るとなれば簡単にはいかない。


 巧としても、打ち取られても三振さえ取られなければいいという条件だが、どうせならヒットを打ちたい。条件を達成するために突き詰めたリードをする司と、条件以上の結果を求める巧との意地の戦いでもあった。


 四人目は二年生の結城棗。前の試合でもそうだが、スタミナはなかなかのものだが安定感に欠ける。安定感が身につけば先発やロングリリーフで重宝できる人材だ。


 初球、置きにきたストレート。しかし、これはボール球となり、巧は見送る。コントロールが悪いというわけではないが、ドンピシャで狙ったところに投げるというのは難しい。コーナーを狙ったつもりがボールいくつ分か外れたのだろう。


 二球目はカーブ。内角低めに来たボールだが、これは見送りストライク。三球目は外角へのカーブだが、これは外れてボールとなり、カウントはツーボールワンストライクだ。


 四球目、外角に来たボールに巧はバットを動かす。真ん中低め辺りにスイングしたバットに吸い込まれるように、ボールが変化する。真ん中低めのカーブ。打球はライトの頭上を越え、あまり深くないライト側のネットに直撃した。


 浅目のライト側であるが、学校のローカルルールとして、張られているネットまで到達すればホームランとなる。そうでなくても今の打球は、地方球場などでは深めに守らない限り、ライトの頭は越えていただろう。


「ホームランかぁ……」


 棗はガックリと肩を落とし、マウンドから降りる。


 セコセコとヒットを打つのもいいが、大きい当たりが出たことに巧は一安心していた。


 怪我をして以来バッティングセンターや日々のトレーニングはしていたが、実戦からはかなり離れている。そのため、自分の実力がかなり落ちていることも懸念していたが、極端に下手になったということもなさそうだ。


「巧くん、なんだかんだで結構楽しんでるよね」


 そんな巧の心情を読んだかのように、司はそう言った。


「野球は好きだからな」


 少し気恥ずかしくなり、巧はそっぽを向きながらそう言う。


 五人目のピッチャーは黒絵。ストレートはなかなかのものだが、それしか投げれない。一応変化球は練習中とのことだが、練習試合でも使えるレベルでもなかったため巧は一球も見ていない。


 あと一点、変わったところがあるのだが、左投右打という特殊なところがある。


 一球目は案の定ストレート。それもど真ん中のストレートだ。こんな失投を打ったところで何も喜べない。そう思って打ちごろの球だったが見逃し、ストライク。


 二球目、これもまたど真ん中のストレートだ。先ほどと同じ理由でこの球も見逃し、ツーストライクとなった。


 三球目、これも今までと同じくど真ん中のストレートだ。流石にこれはカットし、ファールにする。


「おい、もしかしてわざとだろ」


 失投で甘く入ることはままあることだ。しかし、三球連続とか余程調子が悪いのか、むしろ狙ってしたのかのどちらかだろう。


「バレたか」


 案の定、後者だった。失投に見せかけたど真ん中のストレート。巧が見逃すことを見越して、わざと投げさせていた。


「あわよくば見逃し三振して欲しかったんだけどね」


「流石にそれはしないな」


 四球目、今度は散らしてきた内角低めのストレートを簡単にライト前に弾き返した。


 最後のピッチャーは伊澄。カーブが多彩で変化量の他に、落ちるカーブや滑りながら曲がるカーブなど、種類は豊富だ。中学時代も対戦しているし、以前も対戦した。成長している部分もあるが、どんなピッチャーかということは野球部内の中では一番わかっている。


 初球、外角に外れた緩いボール。それはゆっくりと曲がりながら外角低めのコーナーいっぱいに決まるが、巧はそれを見送りストライク。


 今回のカーブは普通よりも遅いカーブ、いわゆるスローカーブだ。


「瀬川のカーブ、流石だな」


 コントロールも良く、変化球も一級品だ。前回の試合を見る限り、現状でチームのエースと呼べるのは伊澄だけだろう。


 二球目、真ん中辺りに来るボール。しかし、明らかにストレートの軌道ではないボールのため、巧はそれを見逃す。案の定、そのボールは縦に大きく落ち、ベース上でワンバウンドした。司はそれを取りきれず、前に落とした。


「ボール?」


「うん、ボールだね」


 ワンバウンドしたとはいえ、ベースを通過する時点では低めギリギリのコースだ。自信を持って見逃したが、低めに甘い審判であればストライクを取られてもおかしくはない。


 三球目、内角高めに来たボール。このボールに巧はバットを振り切った。打球はサードの横を抜けるゴロ、しかし、ショートに配置されていた白雪は打球に追いつき、そのままの流れでファーストに送球する。


 今度の球はストレートだった。あくまでも体感だが、ストレートの球速はおおよそ90キロ弱から100キロ弱ほど。カーブは球種次第だが、60キロから70キロ少しくらいだ。その球速で空振りを取るのが伊澄のスタイルだ。


 今回はショートの深いところ。それなりの足があれば内野安打だ。そう思っていたのだが。


「よし、ショートゴロ」


 伊澄がそう呟いた。小さくガッツポーズもしている。


「いやいや、あれはヒットだろ」


 打ち取られたというのが気にくわない巧は伊澄に対して反論した。


「走らなかったからわからない。巧はそう思ってるかもしれないけど、私からすればショートゴロ」


「ヒットだって。なあ、司もそう思うだろ?」


「いやぁ、どうかなぁ……」


 司は苦笑いをしながら曖昧な反応して誤魔化している。


「ヒットだとは思うけど、ショートゴロだよ」


 司は半笑いのままそう答えた。ヒットだと思っているんじゃないか。


 三振を取らなければ結果としては意味はないが、打ち取ったということにしたいのだろう。


「審議だ審議!」


「リプレイ検証はないよ」


 ただの練習だから当たり前だ。いや、公式戦であってもプロでなければリプレイはない。しかし、巧としては打ち取られたということにはしたくない。


「しょうがないからヒットってことでいいよ」


 押し問答の末、最終的には伊澄の方が折れたが、無表情の中で心なしか「やれやれしょうがない」とでも言いたげにも見える。なんとなく負けな気がした。


「……巧くん大人気なーい」


 司にそんなことを言われ、巧は少し恥ずかしくなった。


 勝負事となれば熱くなってしまう。結果としては変わらなくても、負けたということは認めたくなかった。


 やれやれというようなポーズをとりながら伊澄はマウンドから降りる。少しイラッとした。


「じゃあ次のピッチャー」


 司がそう言ったが、伊澄が最後のピッチャーだったはずだ。そう思ったが、再び夜空がマウンドに上がって来た。


「小星夜空です」


 偽名を使い別人のように振る舞う夜空。何かのコントのようにも思える。


「おい、司……」


「誰も一周で終わるとは言ってないよ?」


「まあ、確かに……」


 投手が一巡すれば終わりと思っていたが、そんな約束は確かにしていない。司にしてやられたと思ったが、三振を奪われる気はしないため、巧は反論することなく続けて打席に立った。


 それから、前と同じ順番でピッチャーは回っていく。二周目では、全員わざわざ名前を変えて名乗っていた。梨々香は宮本梨々香、陽依は妹崎陽依、棗は苗字と名前を変えただけで夏目優希、黒絵は豊川白絵、伊澄は瀬山伊澄、陽依に至ってはご丁寧に投げ手も変え、先ほどは右投だったのが二周目は左投。しかし、ストレートも変化球も右投の時とさほど変わらないというオールマイティさだ。


 なんとなく次はどう名乗るのが楽しみになっていたが、三周目に突入するとすでにネタは尽きたのか、名乗らずに自然と対決は始まる。


 時間的にも六周くらいが限度だろう。五周目の棗の番でも巧は鮮やかに左中間を破るヒットを放つ。


 この間までに時折守備も交代しているため、ピッチング練習や守備練習に使われている気もしなくもない。


 次のピッチャーは黒絵。チャンスもあと少しということもあって、みんなの集中力も高まっている。それとは正反対に巧の集中力は切れかかっている。


 守備陣は交代しているため適度に休憩を入れれているが、巧は打席に立ちっぱなしなのでそれも当たり前だろう。


 初球は高めのストレート。これは見逃してストライク。順番で投げていってはいるがほぼ全力投球で約三十球ほど投げており、休憩を取っているとはいえ疲れが見えているのか少し球速が落ちている。


 二球目はボール球。外角に逸れたボールだ。


 三球目。視界から消えるような山なりのボール。今までのストレートとは違い、打ってくださいと言わんばかりの緩いボールだ。しかし、それに完全にタイミングを外され、空振りしてしまう。


「今回はちょっと趣向を変えて来たのか?」


「さあ? どうだろうね?」


 流石に作戦を話すことはない。しかし、今まではストレートで押せ押せだったところが、ただのスローボールとはいえ、配球を変えてきた。まともの変化球を投げられないことを考えれば、これが唯一緩急をつける方法でもある。


 四球目、これもまたスローボールだ。この球は高く外れ、ボール球となる。


 五球目もスローボール。この球に完全にタイミングを合わせ、ライト線への鋭い打球。しかし、ラインを割り、ファールゾーンへ落ちる。


 六球目、七球目とこれもまたスローボールで、六球目はファール、七球目がボール球となる。これでカウントはフルカウント、スリーボールツーストライクだ。


 球数が増え、黒絵も集中力が増し、巧も切れかかっていた集中力を取り戻し、両者共に無言になる。このままスローボールを続けるわけではないだろう。どのタイミングでストレートが来るのか、タイミングを待っている。


 八球目もスローボール。これにもタイミングは合わず、打ち上げてしまう。真上への大飛球。キャッチャーへのフライだ。しかし、司はこれを捕球せず、わざとファールにする。


「取れただろ?」


「せっかく追い込んでいるし、普段の試合ならまだしも、三振を奪うのが目的なんだから取らないよ」


 確かにそうだ。しかし、完全に打ち取られてしまった打球。明確に打ち取られたのはこれが今日初めてだ。


 九球目。黒絵が振りかぶって指から放たれたボールはストレート。緩いボールとは違い、明らかに投球フォームが違うため、投げる前からわかってしまう。


 ついにきた。


 黒絵の放ったボールは、一直線に司のミットに向かう高めの球。これにはもちろん巧もバットを動かす。


 高めのストレートの絶好球。スイングと同時に巧はホームランを確信した。


 しかし、バットはボールに当たることなく空を切った。


 空振りの三振。ついに巧は三振を奪われた。


「え……?」


 巧は思わず声を漏らし、後ろを振り返る。ボールはしっかりと司のミットに収まっていた。


 それもよく見れば高めのボール球。普段なら見逃しているような明らかなボール球だが、今まで打てそうで打てなかったのが、打ち気に早っていた巧のバットを動かしていた。


「ナイスボール!」


 司がそう叫ぶ。明らかなボール球とはいえ、それが巧から三振を奪ったボールには変わりない。


「よかったよぉー」


 黒絵はマウンド上で泣きながら崩れ落ちる。そんな黒絵にベンチで見守っていた夜空が駆け寄る。


 巧はその場でバットを持ったまましゃがみこんだ。


 悔しい。


 涙は見せないが、今にも泣きそうなほど、打てなかったことを悔やむ。反省点しかない。


「大丈夫?」


 その場から動こうとしない巧を心配して、司から声をかけられるが巧は動かない。


「悪い、ちょっとこのままにさせてくれ」


 自分を過信しすぎていた。相手を過小評価しすぎていた。自分が甘かったことを突きつけられたような気持ちに陥り、思考がぐるぐると回る。


 司はそんな巧の背中をたださすってくれていた。




「俺の負けだ」


 一通り悔しがると巧は落ち着き、素直に負けを認める。


 負けたものは負けだ。言い訳をしても見苦しいだけ。三振はヒットに覆らない。


「じゃあ、約束通り監督になってくれる?」


 今回の一件の首謀者とも言える司が代表して確認を取る。


「……約束したしな」


 約束は約束。三振を奪われるつもりはなかったが、もちろんそうなった場合は筋を通すつもりで受けた勝負だ。


「ありがとね」


 今まで少し浮かない表情をしていた夜空がホッと息を吐き、安心した表情を浮かべる。夜空たち側からすれば、やりたくないと言っている相手に引き受けさせた勝負だ。それに部活は強制ではない。反故にされても止められないものではあった。


「嬉しい」


 伊澄へ無表情のままそう言った。無表情のままなため、喜びは一切感じられないが、わざわざ言葉に出すということは本当にそう思っているのだろう。


「でも、私が打ち取りたかった」


 伊澄の言葉に巧は苦笑いする。最初の際どい当たり以外はしっかりと打たれたこともあって伊澄も悔しいのだろう。


「はあ……。夜空さん、この後の練習何しますか?」


「えっと、時間ギリギリまで使うつもりだったから考えてないけど……」


 夜空の言葉から察するに、そもそも今回の対戦は部内全体で行うことがあらかじめ考えられていたのだろう。まんまと嵌められた気分になる。


「このまま瀬川と続けてもいいですか?」


「もちろん大丈夫だよ」


 練習メニューの決定権がある夜空からは了承が取れた。


「いいの?」


 伊澄ほ無表情だが、心なしか嬉しそうな表情に変わり、投球の準備をする。


 その後、時間ギリギリまで勝負は続いたが、巧が打ち取られることはなかった。




「ごめんね」


 帰り道、司が話をしたいというので、一緒に下校している途中。突然司が謝ってきた。


「何がだ?」


 巧は素直に疑問に思い、司に聞き返す。謝られるようなことなんてされていないはずだが。


「結構無理に勝負仕掛けちゃったかなって思ったから。嫌なら嫌で引き受けなくてもよかったし、巧くんが負けても監督やらないって言えばこの話は終わりだったし」


 司は苦笑いしながらそんなことを言う。


「別にいいよ。勝負を引き受けたのは俺だし、司が謝ることじゃない。それに……」


「ん?」


「多分、勝負を引き受けたのはどこかで監督をやってもいいって気持ちもあったんだと思う。キッカケが欲しかったのかもしれない」


 半分は本当で半分は嘘。野球は好きだし全く興味ない訳ではなかったが、やりたいとは思っていなかった。少しでも司の気が楽になるようにと出た言葉だ。「だから気に病むな」と巧は続けた。


「それならよかった」


 司はホッとしたように息を吐く。


「もうそろそろ家だから、この辺で」


「あ、そうだね。じゃあ、また明日」


 巧は学校から家が近く徒歩通学だが、司は少し離れており自転車通学だ。今まで司はホッと自転車を押しながら歩いていたが、自転車にまたがると走り去って行った。


 巧は一人になり、少し考える。


 監督をやるからにはしっかりとチームを勝たせたい。監督をしてもらってよかったと思われるようになりたい。そう思いながら家に向かってまた一歩を踏み出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る