死んだ世界

 ──その世界は死んでいた。


 

 時は遡ること五百年前。

 世界がまだ生きていた頃だ。

 当時、地球は人類が支配していた。陸棲動物から大地を、海棲生物から大海を、飛行生物から大空を、爪や牙等よりも強大な知恵を用いて、他の生物を見下ろしていた。そう、『ソレ』が現れるまでは。


 これは世界を救った一人の英雄の物語。『ソレ』に汚染された襲い来る魔獣の爪を、牙をかわし、宿命という名の呪いに抗おうとした一人の人間の物語⋅⋅⋅⋅⋅⋅──。















 そこは荒廃した土地だった。


 崩壊し、所々ひび割れ、乾ききった大地には一つの緑も存在しない。高濃度の『瘴気』にまみれた世界に降り注ぐのは本来の輝きを失い、赤く不気味に光る太陽光だけだ。

 そんな生気を失い、機能を失った大地を睥睨へいげいする者が一人。


「────」


 目には黄色の縁取りのゴーグル、口元には黒いマフラーで覆っているためか、その全貌は見えない。分かるのは異様なまでに白い髪だけだ。

 覆面は無言のまま、命の消えた大地を無数の岩が積み重なって出来た高台から見据える。⋅⋅⋅⋅⋅⋅否、覆面が今見ているのは荒廃した大地ではない。正確にはもっとその先、死んだ世界で唯一、生き残っていた森林だ。


「────」


 いやに小さく見える森林だが、それは現在地と距離が離れていることによるもの。その全貌は直径二十キロメートルは優に越える樹海だ。

 ゴーグル越しに視線を樹海へと反らすことなく向け続ける。そして──。


「────」


 隣で静かに佇んでいた爬虫類のような美しい銀の鱗に覆われた巨大な生物──竜にまたがり、無言の指示を飛ばす覆面。

 しかし、無言のまま出された指示を竜は間違えることは無かった。己が主の命に忠実に従い、疾走する銀竜。目指すのは先程も、そして今も覆面が見つめている樹海だ。

 強靭な脚力により出される速度は30キロ。40キロ。50キロ。60キロ。⋅⋅⋅⋅⋅⋅70キロを突破して尚、速度を上昇させる。

 そして風のように疾走する竜は目的の場所までの距離を順当に縮めていきやがて──。


「────」


 地に降りた覆面は目的地まで自分を運んでくれた愛竜を労うように首筋を優しく撫でた。

 その心遣いに気づいたのか、銀竜は主の掌の感触を堪能しつつ、ざらついた鱗に覆われた顔を主の頬へと擦り寄せる。

 それを受け止めつつ、覆面は到着した目的地をへと目を向ける。

 そこに広がっているのは巨大な樹木群だ。それも一本一本が50メートル以上の巨木。

 先程まで自分よりも小さく見えた巨大な樹木群に見下ろされながら、覆面は見つけた獣道から樹海に侵入していく。

 渦巻くように周囲で様子をうかがう『奴ら』に注意を向けながら⋅⋅⋅⋅⋅⋅──。



 樹海へ侵入して既に二時間弱。

 獣道から侵入した覆面は既に最深部付近まで到達していた。

 人の手に侵されていない森には人が簡単に通れるような易しい道は存在しない。が、覆面はそんな険しい道を慣れた足取りで速度を落とすことなく進んで行く。

 木々の僅かな隙間を身を捻ることで通り抜け、岩に阻まれた道を周囲にも転がる岩を踏み台にしながら容易に乗り越えていく。

 結果、常人ではおおよそ無理な速度で森の中を疾走していき、やがて──。


「────」


 足を止めた男を歓待したのは森の中でも一際強く輝きを持つ一帯だった。群生する光苔ひかりごけが妖しく光り、周囲を美しく照らし出している。その光に釣られてくるのは『瘴気』に侵され、本来あるべき形を失ってしまった虫達だ。

 それを尻目に周囲をさらりと見回し、安全を確認する覆面。十秒ほどそんなことを繰り返してようやく満足したのか、止めていた足に力をいれ移動を開始する覆面。

 既に目的地の為に走る必要はないためか、落ち着いた足取りで一本の樹木へと近づいていく。そして頑丈と言っても差し支えない程の強度を誇る幹の表皮を何かを確認するような手つきで優しく撫でる。

 

「──これだ」


 ここまで一言もしゃべることなく無言を貫いていた覆面は確信めいた声を出した。

 表皮に右手を触れさせながら、余った左手で肩に掛けていた小型のバッグから一本のナイフを取り出した。

 宝石で作られたと言っても疑われないような美しい漆黒の刃だ。

 周囲からの光を独特の光沢のある刃で反射させるナイフの刃を覆面は硬い樹木の表皮に差し込み、薄く切り取る。切り取った表皮をバッグから取り出した透明な試験管に入れ、バッグの中へと押し込む。

 目的は果たしたと言いたげに振り向こうとした覆面だったが、足元にあるそれに目を留め、動きを止めた。


 ──それは一輪の赤い花だ。


 何の変哲もない、見紛うことない、極普通の花。今では全く見ることの出来なくなった一つの命。

 それを目にした途端、生気を失っていた覆面の瞳に確かな光が現れた。

 

 ──咲くのか。ここで。こんな所で。


 衝動的にそれを摘もうと手を伸ばした覆面だったが、花に触れる寸前でその手を止めた。

 美しい赤の瞳を過ぎるのは迷い、愁い、諦め。心中で揺れ動く感情を何とか押し殺し、手を伸ばしたくなる衝動を抑え、立ち上がる。


 後ろ髪を引っ張られるような心を隅に置き、そのまま立ち去ろうと腰を上げ、足を踏み出そうとしたその時⋅⋅⋅⋅⋅⋅。


「────ッ!?」


 瞬間、働いた生存本能に従い、木陰に隠れ込む。悪寒の正体を覗くため、あちらから見えないようにちらとだけ視線を動かした。


 ──そこにいたのは一匹の獅子だ。


 いや、単なる獅子ではない。獅子とはいっても図鑑で見るような雄々しい獣ではなく、もっと禍々しいものだ。

 臀部から生えるのは細い尻尾ではなく、二メートルは超えるだろう、蛇だ。胴体を覆うのは毛ではなく、淡い光沢を持つ魚類のような鱗。そして、ギラリと赤く光る六つの目。形こそ獅子のような姿をしているが、体構造ではそれに該当するような物は何一つとしてない異形の魔獣だ。

 『悪獅子キマイラ』と、そう呼ばれるその獣は先程までいた獲物の残り香を探そうと、地面へと鼻先を向ける。

 五秒ほどその場で鼻先を地面に触れさせていた悪獅子だったが、不意に耳をピクリと動かし、顔を上げた。どうやら、覆面の匂いに勘づいたようだ。二、三歩間隔で止まり、確認とばかりに鼻先を地面へと寄せる悪獅子。そのままゆっくり、ゆっくりと。悪獅子は確実にこちらへと歩を進めてくる。

 その様子に既に生じていた危機感を更に押し上げられた覆面はバックから小さな細く丸い筒のようなものを取り出そうとし──、


 ドオォンッッッ!!!


 突如、発生した鼓膜を破壊しかねないほどの地響きさえ伴う巨大な轟音。

 それはあっという間に森全体に伝播でんぱし、それだけで巨大な木々を揺らした。

 当然、覆面のいる場所にも轟音や地響きは届き、山びこのように何度も大気を震えさせ、大地を激しく揺らした。

 

「うおっ!」


 激しい大地の揺れにより半ば強制的に木陰から弾き出される覆面。その前には直近まで迫ってきていた悪獅子の姿が。

 ようやく姿を表した獲物を品定めするかのように禍々しい六つの目で凝視する悪獅子。そしてそのまま無防備にも転がった状態の覆面へと恐ろしいまでに鋭い凶爪を振り下ろそうと──、


「⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅ガ、ゥ」


 することはなかった。

 そしてどうしたことか、悪獅子は速やかにその場から去っていった。それはあたかも何かに怯えるような、被食者が捕食者に見せるような姿勢にさえ思えて。


 倒れた衝撃により口元まであげて巻いていたマフラーとゴーグルがずれ落ち、その容姿が明らかになる。十代後半の少年のように見えるが同時に少女のようにも見えなくもない。中性的で整った容姿だ。

 幸い、悪獅子が去った直後に謎の揺れは止まっていた。が、


「──ヤバい」


 自らの命を脅かしていた獣をいなくなったことで喜びはしなかった。

 寧ろ、その赤い瞳には悪獅子に襲われそうになった時よりも焦燥の色が濃くなっていた。

 覆面は急いで落ちていたマフラーを拾い上げると跳び跳ねるように地面を蹴り、ここまでやって来る時よりも速度をあげ、疾走する。


「もう、起きたのか。厄介な⋅⋅⋅⋅⋅⋅!!」


 体力の消耗と共に吹き上がる汗を拭うこともせず、覆面は森の中を愛竜を置いてきた場所まで全速力で駆けていく。


 悪獅子を凌駕する脅威から逃れるために⋅⋅⋅⋅⋅⋅──。

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