🍑おじいさんと梅酒のはなし

 むかしむかし、山奥の小さな村の村はずれにおじいさんが一人で住んでいました。


 おじいさんの住む小さな小屋にはおせんべいみたいなふとんが一組と、すすけたかまどと、いくつかの家財道具があるばかりで、おじいさんは山でたきぎを取ってきては町に売りにゆき、小屋のまわりのわずかばかりの土地をひっかいてこしらえた畑で、どれもうらなりみたいな野菜ばかりつくって、その日その日を暮らしておりました。


 おじいさんは梅酒に目がありませんでした。でも町で売っている梅酒はとても高くて、おじいさんには買えません。それならばよし、自分で作ってやろうと、おじいさんは何度か梅の苗木をもらってきては小屋のまわりに植えてみたのですが、なにぶんやせた土地なので、梅の木はみな実を付けずに枯れてしまいました。


 ところでおじいさんの住む村には、一軒のお屋敷がありました。いえ、お屋敷というほど立派なものではなかったのですが、それでもおじいさんの小屋よりはずっとましな、小さな庭と池のあるお家でした。

ところが何年も前から、この家のご主人は旅に出たきりで、家はそこらじゅうにクモの巣がはり、屋根が破れ、池はどす黒くにごり庭は草ぼうぼうの荒れ放題という有様でした。その荒れた庭の隅の方に、大きく枝を広げた古い梅の木が立っておりました。


 おじいさんはこの梅が気になって仕方ありませんでした。梅の木は春毎にいい匂いのする美しい花を枝いっぱいに咲かせ、花が散ったあと、青草の茂る頃には、まるまるとした緑色の実をたわわに実らせました。けれど摘む人がいないのでは、実はやがて熟れ果てて地面に落ちるという有様で、それを見るたびにおじいさんは、ああもったいないと嘆くのでした。

誰も取らずに腐らせてしまうなんて。ご主人は一向に戻ってくる気配もないし、ほかの村人達もこの梅に関心はないようだし、自分がもらってもとがめる人はいないのではないか。よし今年こそは、あの立派な梅の実を少しばかり分けてもらって、大好物の梅酒を作らせてもらおう。


 ようやくそう決心したある年、おじいさんはまだつぼみも付けぬ頃から、梅の木が花を咲かせるのを今か今かと待っていました。やがて寒さがゆるみ、梅の木は花を咲かせました。枝も見えぬほどに咲き誇る花霞はながすみは、いつもの年にもまして見事なようにおじいさんには思われました。

花が散り、葉が青々と茂るようになると、こんどは小さなみどりのしずくが葉の間に見られるようになりました。実は日毎に重みとつやをましてゆき、おじいさんは昨日より今日、今日より明日とどんどん大きく立派になってゆく梅の実を、どきどきわくわくしながら見守っていました。やがて実の重みで枝がしなるほどになった頃、おじいさんは朝早く、鳥のまぶたも開かぬ頃にこっそりと小屋を抜け出して、梅の木の庭にやって来ました。


 思った以上に草深い庭をそろそろと忍び足で通って、梅の木の真下までやって来ました。見たこともないような立派な梅の実が、頭の上に広がった枝いっぱいについています。おじいさんはおっかなびっくり、実に手を伸ばしました。


 ふところにいっぱいの梅の実を集めると、おじいさんは来たときと同じようにこっそりと庭を後にしました。自分の小屋に近づくにつれ、わくわくする気持ちが胸の中でふくらんできて、いつの間にか笑い顔になっていました。何年かぶりに足が軽く思えます。おじいさんは小屋に戻ると早速、梅酒づくりに取りかかりました。梅の実についたごみやほこりを丁寧ていねいに取り除き、たきぎを少しづつ多めに売ってこつこつ貯めたお金で買った焼酎と、蜂蜜に漬けます。そしてぜんぶを納めたかめにしっかりと蓋をして、床下に納めました。


 それからは、一日が過ぎるのがとても長く感ぜられました。そのかわり、いつも見る空が前よりもずっと青く見え、毎日聞く小鳥のこえが前よりもずっと高く朗らかに聞こえるように思われました。そして日に一度床下に納めたかめの中をのぞくのがおじいさんの一番の楽しみになりました。

最初、冷たく澄んだ液体の底に緑の梅の実が死んだようにひっそりと横たわっているだけだったのが、日毎に酒は琥珀こはく色を増し、梅の実は色も形もまろみを帯びて、ふたを開ける毎に立ち上る香気はえにも言われぬかぐわしい香りでおじいさんの鼻腔びこうをくすぐりました。

おじいさんは今ではもう、何も食べられない日があってもひもじくは感じませんでした。山と町を行き来する毎日の道のりも何か楽しいもののように思われ、すすけた薄暗い小屋も床下に梅酒のかめがあるというだけで、前ほどみじめなものではなくなっていました。


 ところが、おじいさんは結局梅酒を飲むことが出来ませんでした。百何十回目かにおじいさんがかめの中を改め、今日はまだ早いか、明日にはもう飲めるだろうかと考えながら、やっぱり蓋をして床下に戻そうとしたとき、おじいさんは板の床に敷いたむしろで滑って前につんのめりました。梅酒のかめはおじいさんの手をはなれて床下の堅い地面に落ち、いとも簡単に割れました。


 それからというもの、夕暮れ時に村はずれのすすき野原の斜面に座って何時間もぼんやりと遠くを眺めているおじいさんの姿がよく見られるようになりました。けれどそれも、木枯らしが吹く頃にはいつの間にか見られなくなりました。


 次の年の春、くだんの梅の木の庭の主人が旅から帰ってきました。あばら屋のようだった家は修理されて見違えるようになり、草ぼうぼうの庭は整地されて白砂が敷かれました。そして梅の木は切り倒されて、かわりに枝振りの良い松が植えられたと言うことです。

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