🐶 オベズグラブリバニツァ・ナストローベ

 それは、北国の初夏――


 それまで、死んだようにじっと沈黙していた木々が、まるで号令をかけられたかのようにいっせいに芽吹き、と思う間もなく葉を広げ、

ざぁざぁと流れる雪解け水がいかにも冷たく白く、手をひたす気にもなれなかった沢に美しい陰翳いんえいを落とすようになる、そんな季節の頃でした。


 私は伯父と、伯父の自慢にしているイシュルという名の犬と一緒に、ようやく生命を取り戻した沢へ出かけたのです。

このイシュルという犬はとても賢く、そしてこれ以上ないと思われるほどあるじに忠実でした。

伯父はことあるごとに、この犬は特別な犬だ、最高の、完全な犬だ、と言っていました。

確かにイシュルは、彼のとおい祖先が狼の群を去って人の村を訪れた日に私たちと交わした契約を、自分の命よりも重んじていたのです。


 またこの犬は、川にはいって魚を捕らえるのが非常にうまく、滔々とうとうと流れる早瀬に飛び込んでは岩魚いわなますを捕まえ、結局いつも沢に行って得る獲物の大部分は私や伯父の釣竿よりもイシュルの働きという有様でした。


 その日も、私はいつものように急流に釣り糸をたれ、少し上流で魚を狙っているイシュルを眺めていました。

獲物を見つけたのか、イシュルが勢いよく沢に飛び込むのを見届けてから、

私は隣にいる伯父に何事か告げました。

伯父が私の方を見て、やはり二言三言しゃべったのを覚えています。


 次にイシュルのほうを見たとき、イシュルは流れに足を取られたのか、沢の中でもがいていました。

それだけならいつものことなのですが、そのときはちょっと気になりました。

まるで水の精にからめ取られた船人のように、異様に取り乱した様子で流れと争っているように見えたのです。

不意に、呻き声に似たものがイシュルの口から漏れたかと思うと――イシュルはぐにゃりとなって、私たちのほうへと流されてきました。


 怪訝に思って見守る私の前で、イシュルの頭がすっと体から離れ、別々になって流れていきました。


”おじさん!!”


 私はぎょっとなって叫びました。

伯父はスッと立ち上がり、大きな声で言いました。


”みていろ、イシュルはただの犬じゃない、完全な犬なんだ。

イシュル、拾ってこい!”


 すると、犬の胴体が川の中に立ち上がり、自分の頭めがけて駆け寄りました。

そして前足を使って押さえ込んだのですが、ご存知のように犬は口を使ってものを運びます。

でも、イシュルにはもう口がなかったものですから、どうすることもできず、困ったような様子で、頭を流されないように押さえているばかりでした。


     ◆◇◆◇◆◇◆


 それからどうしたか、そして何故イシュルの首が切れたのか、私は思い出せません。

伯父と会ったのもその夏が最後だったように思います。

というのも、あとで知ったことですが、あの沢があったのは実はある割と大きな島で、しかし完全な孤島ではなく、細い砂州で本土と結ばれてて行き来が出来たのですが、私が島を去り、本土にある学校へ通いはじめて間もなく、潮流の変化によって砂州が移動し、島はどこか別の大陸と繋がってしまったのだそうです。

いずれにせよ私には本土での生活があり、何しろ幼かったこともあってどうやって島に行ったのかも忘れてゆきました。


 私がある鮮烈で画期的な信念に取り憑かれたのは、何年もしてからでした。

高校に通うようになった私は、科学の授業で、無頭ガエルの話を聞きました。

カエルは脳を失っても、脊髄反射によって動くことが出来るのです。

私は不意に、島を離れてからはじめて、イシュルのことを思い出しました。

私は先生に尋ねました。人間はどうですか、犬は?首を切っても動けますか?


 先生は少し考えてから言いました。人間は、ほとんどの運動が随意的、つまり脳が支配している。だから、胴体だけでは、せいぜい熱いものを避けるとか、その程度だろう。犬も同じようなものだ、と。

私は更に尋ねました。どちらの方がよりよいのでしょう?完全に近いですか?

先生は苦笑いしてこたえました。それはどちらとも言えない。でも何しろ人間は万物の霊長だから、人間や犬のほうがより完成されているんじゃないか、と。


 でも、イシュルは、伯父が「完全な犬」と呼んだイシュルは動きました。

自分の頭を取り戻すために。

その時私はひらめきました。ふつうの人間が首を切られると死んでしまうのは、「不完全」だからで、本当に「完全」な人間は首を切られても動けるのではないかと。

イシュルがそうだったように。

しかも人間には手があるのですから、おっこちた首を拾い上げて、元通りくっつけられるではないか。だとしたら、まさしく「完全」です。


 それからというもの、私は「完全」な人間に出会ってみたくて、機会をみつけては人の首を切ってみましたが、一人として起き上がったり、自分の首を拾ったりできる人はいませんでした。

やがて私は捕まり、裁判にかけられました。

判決は死刑。はりつけ、車裂き、釜茹で、斬首の中から好きなものを選べという裁判長の指示に、私は小躍りして斬首を希望しました。


     ◆◇◆◇◆◇◆


 処刑の日、私はギロチンの刃が落下してくる瞬間を思い描きながらその下に己を横たえ、しばらく待ちました。

ふと、イシュルのことが思い出されました。


”イシュルの首が切れたのは、釣りびとが捨てたテグスか何かが首に絡まったからじゃないのか”


 不意に合図の空砲が鳴り、あっと思ったときには私の頭は胴を離れ、空中にはねとばされていました。


 大きくバウンドした私、私の頭は、更に真っ暗な空間をごろごろと転がってゆき、何かにぶつかってがくんと止まりました。

痛い、と思って後頭部に手をやろうとしました。

でも手はありません。胴体と一緒に処刑台に残ったままです。


 妙な気分でした。

もし私が完全な人間だったなら、今、処刑台の上の私の手は、遠いところでぶつけた私の頭をさするために動いたのでしょうか?

でもおそらく手の届く範囲に私の頭はないはずです。

痛い頭をさする手もなく、ありもしない頭を手がさするふりをする。

なんだか不完全である以上に滑稽な気がします。

それともじきに私の胴体が私の頭を探しに来るのでしょうか?

周りの人間はどうするでしょう? 処刑は終わったと判断して、したいようにさせてくれるでしょうか。

それも馬鹿げているように思います。


「つまりそれは夢なのですよ。

彼には伯父はいませんし、砂州でつながれた島も、もちろん自分の頭を拾いに行く犬も実在しません。

おそらく、以前に見た夢か何かを、現実と思い込んでいるのでしょう。」


 まわりの暗闇の、どこか遠いところから声がしました。


「でも彼にとってその夢は、現実以上にリアルなんです。

つまり彼にはこの現実は夢で、その夢こそが現実というわけです。

だから起こすのはおやめなさい。

我々にはここが紛うことなき現実であっても、彼にとって夢以上のリアリティを持たないなら、彼はこの夢に、現実から醒めてなどくれません。

うまくすれば、彼はそのうちあちらの現実を生き終えて、今度は新しく、この世界に『生まれて』来ますよ。

中有ちゅううのトンネルをくぐって、新しい別の人間としてね。」


それから長い長い時間を、私は暗闇の中で過ごしました。

次に生まれることになったのは、あなたの精神だったかもしれません。

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