第2話

誰かの鳴き声が聞こえた。

真っ暗な氷の洞窟の中、私はその泣き声に目を覚まし、気が付けば走り出していた。

「かあさま?」

口を動かして出た声は私の声ではなく、口にした言葉も私が発しようとした言葉ではなかった。

聞いたことも無い、幼い子供の声でたどたどしくかろうじて発した四文字を、自分の耳で聞いた瞬間、これは夢だと自覚する。

走ってたどり着いた場所は空間が大きく開けていて真っ暗な中に唐突に温かく輝きながら咲き誇る大きな桜の木があった。

そしてその凍りついた根本には黄金の髪の美しい女性がしくしくと嗚咽しながら跪いていた。

「かあさま、またないているの?」

真っ暗な氷の洞窟の中、ただ目の前の桜の木とその女性だけが輝いている以外、他になにも見えないのだが、私の体は勝手にペタペタと裸足で氷の上を歩き出す。

私の声に気が付いたのか、美しい女性はハッと顔を上げると、真っ暗な闇の中を歩いているはずの私を正確に視界に捉え、「心配して来てくれたの?」と困ったように眉を下げて微笑んだ。

「どうしてないているの?」

「なんでもないのよ。」

美しい女性の前に辿り着いた私は女性の顔を覗き込むと、女性は誤魔化すように笑い、そっと私の頬を撫でた。


冷たい。


女性の優しい手はとても冷たく、まるで氷のようだった。

しかしその冷たさは不思議と心地よく、私は頬を撫でる女性の手を抱きしめた。

「かあさま…。」

「どうしたの?」

「かあさまは…ぼくのことがすき?」

「当たり前じゃない、我が子を嫌う母親なんていないわ。」

淡紅色の着物を引きずり、女性は膝立ちになって私を優しく抱きしめる。

「でも…かあさまはずっとないてる…。それはぼくのことがきらいだからでしょ?」

私のたどたどしく震える声に女性は輝く赤い瞳を大きく見開いた。

「違う…それは違うわ。母さんが泣いてるのは母さんが弱いせいなの、白百合のせいじゃないわ。」

「でも……。」



【僕はこんなにも醜いのに。】



そう自分の声が聞こえた瞬間、急に視点が変わり、突然目の前には光を全て吸収してしまうようなベッタリとした黒髪に青白い顔が現れた。

そしてその両目はまるで大きな目をくり抜かれた後の様な、真っ黒な空洞が二つ並んでいて、たどたどしくも幼く愛らしい声を発する口は唇も歯も無く、‟口があるべき位置”に‟口の様な形”に皮膚を切り抜いたような、あまりにも恐ろしいものだった。





「うわぁっ!」

ガバッと勢いよく起き上がった私はドクドクと激しく脈打つ心臓を押さえ、無意識に周囲の安全を確認する。

どんな夢を見ていたのかは思い出せないが、夢のせいで自分が動揺していることは自覚していた。

(かなりホラーな夢だった気がする…。)

『どうした?』

「あ。いやなんで…も…。えっ……?」

上半身だけを起こしてベットの上で胸を押さえて俯く私の頭上から聞き覚えのある声が聞こえ、ふと顔を上げるとそこにはいつもとは‟色違い”の男が立っていた。

昨日まで長い月白色だった髪はほんのりと色づいた淡紅色に、そして涼し気なアクアブルーの瞳は優し気で柔らかな浅緑色へと変わっていた。

『なんだ?』

「…………えっと…イメチェンですか?」

私の言葉に男はフッと小さく息をつくと、『まぁ、そんなようなものだ。』と浅緑色の瞳を細めた。

(まぁ、幼児にもなれるくらいだしな…色変えるくらいなんでもないか。それになんかの本で神様は飽き性だって書いてあったし、そんなもんなんかな。)

「ねぇ神様、色は変えるのに、髪型は変えないのぉ?」

私は興味本位で長い男の髪をくるくると自分の指に巻き付けて遊んでいると、男はベットから私を抱き上げ、寝室を出ようとする。

「あ、ちょっと待って!」

『なんだ?』

「あれ!なんとかして!」

そう言って私が指を差したのは昨日、男がヒステリーを起こした際に部屋ごと氷漬けにしてしまった水色の豚猫のぬいぐるみだった。

『……部屋はもとに戻っている。』

「だからなに⁉部屋は戻すのに、なんでアレは戻してくれてないの⁉」

『お前にアレは必要ない。』

「いや、必要か必要じゃないかは私が判断することだから。良いからはやく戻してください。」

『なぜだ…。』

男はそう言いながら呆れた様に溜息をつく。

(なんでアンタに溜息つかれなきゃいけないのよ?)

「私にはアレが必要なんです!どうしても!」

ジタバタと暴れる私に男は『お前には私が居るだろう。』と顔をしかめ、歩き出した。

「なに⁉だからなに⁉俺がいるから十分だって⁉おいおい、また神様論ですか?ちーがーうの!やわらかいものを抱っこしてたいの!寒いから!」

『私を抱きしめればいいだろう。』

(……はぁ?)

「え、それ本気で言ってんですか?」

『うん。』

「‟うん”‼うんじゃないんだよ、うんじゃ!この際だからハッキリ言います、アナタ冷たいんですよ!すんごい冷たいの!だから季節的にはもう寒くないけど、アナタがずっとくっついてくるから私の体温は奪われていく一方なんですわ!普通だったら?片方が冷たくても徐々にあったかくなるもんだけど、アナタ、全然じゃない!ずーーーーっと冷たいじゃん!こっちは寒いんじゃ!寝る時に布団かけるのは何故か?体を冷やさない為でしょう!それと同じなんです!」

『であれば布団で良いな。』

男は片腕で私を抱え、一旦ベットに戻ると軽めの毛布を引っ張りだして、氷漬けのぬいぐるみには目もくれずリビングへと歩き出す。

「あー!バカバカ!もるぅ~‼」

私はぬいぐるみの名前を叫びながら遠ざかるぬいぐるみに手を伸ばすが無念にもバタンと寝室のドアを閉められてしまう。




リビングに着くなり、私をソファーに下ろすと男は薄いカーテンを開け、月の光を部屋に取り込む。

『…………なぜ分かった?』

「何がですか?」

(この人いっつも主語ないんだよなぁ。)

『……私の体を癒す方法だ。』

この男は私がただの下心であんな行動をとったことに気が付いていないようだ。

(……よし、黙っていよう。)

「ああ、それはなんとなくです。そういえば体はどうですか?」

『もう癒えた。』

そう言うと男はズイッと私に近付き、私の手を取って自分の胸に当てさせた。

触れた男の胸には昨日空いていた穴はなく、すっかり塞がっている。

「よかった、治って。」

『本当に良かっと思うか?』

(え、なになに…やめてよまたメンヘラは…。)

私が男の言葉に心の中で身構えると、男は切なげに眉を寄せ、一瞬その温かに揺れる瞳を伏せる。

『お前は私に血を分けてしまった、そしてお前は私の心臓を持っている。これがどういうことか分かるか?』

「えー…と?」

(ん~、分かる訳ないよねっ☆)

『お前と私の繋がりが一層強くなってしまった、以前まではお前が私の物を持っていただけだが、今は違う。お前の物を私も持っている。今のお前はなにも思わないかもしれないが、きっとこのことを後悔する日が必ず来る…。私はそんなお前を見たくはない…だが…。』

(あ~、なるほどね。だから昨日あんな感じだったのね、この人は…。つかそれならそうとすぐ言ってくれれば良かったのに。まぁ、聞いたとしても同じことしたけどさ。)

男は長い睫毛を月明かりで白く輝かせながら閉じた瞼をゆっくりと開き、その浅緑色の瞳を激しく揺らしながら私の手を自らの頬に抱く様に当て、その美しい唇を動かした。


『思へども験もなしとしるものを、なにかここだく吾が恋ひ渡る。』


その男の甘い声と美しい笑顔が、瞬時に私の脳裏に焼き付いて行くのを感じた。

『私にとってこんなに嬉しいことはない、お前自らが私になにかを与えようとしたことなど今までなかった…だから私はその喜びに抗えず受け取ってしまった。この体に流れるお前の血が、今後きっとお前を苦しめるというのに、私の心は浅ましくもこの喜びを抑えられない。』

熱の籠った瞳で私を見つめる男を私も見つめる。

(……なんかそれって私がすげーケチみたいに聞こえるんだが…。)

「そうですか、まさかそんなに喜んでもらえるとは思ってませんでした。まぁ、今回のことは私が要求したようなもんですし、後悔しても自業自得でしょう。というか、なんで昨日はあんな怪我してたんですか?」

私の問いに男の顔は一瞬にして陰り、浅緑色の瞳を左右に動かしながら口を微かに

開いたり閉じたりを繰り返した。

「まぁ、言いたくないならいいですけど。」

『いや、聞け。』

「ああ、はい。」

(喋ってくれんのね。まぁ、今聞いてもどーせ来世には覚えてないんだろうけどなぁ。)

『私はお前をずっと探していたと言ったな?』

「はい、そんでGPS付けたんですよね?」

男は私の茶化す言葉を無視して話を続けた。

『私がお前にソレを与えたのは、私がお前を見つけた時、お前の中に既にソレが無かったからだ。とはいえ、お前も元々自身のソレを持っていたはずだ、誰に奪われた?』

「えっ、知りませんよ。そもそも私は神様に会うまでこの心臓が他人のだったなんて考えたことも無かったですもん。」

私の答えに男は顎に手を当てながら目を細める。

『おかしい…。』

「ええ、おかしな話です。」

『いや、違う。』

「なにが?」

『私はてっきり今の今まで、ヤツがお前の物を持っていると思っていたが…。そうだとするとヤツは昨日の時点で私から確実にお前を奪えたはず。私はてっきりお前の中にあるソレのおかげでヤツがお前を正確に感知出来なかったのかと思ったが、ヤツがお前の物を持っているなら‟正確に感知出来ない訳がない”んだ。ということはヤツはお前に繋がる物はなにも持っていない…のか?』

(ん~、何を言ってるのか全く分からないよ☆)

一人でブツブツと呟く男を眺めながら私はあることを思い立ち、何冊かのアニメの画集を部屋から引っ張り出してきてはペラペラとページをめくり始める。

『おい、子豚聞いているのか。』

「えー、聞いてますけど神様なんにも説明してくれないから分かんないんですもん。まずヤツって誰ですか。」

適当に質問しながら私は目当てのページを見つけ、男にソファーに座るように手招きをする。男は招かれるままに私の隣に腰を下ろすと『お前を探しているのは私だけではない、もう一人いる。』と神妙な面持ちで私の手を強引に掴みながら言った。

「ああ、そうなんすねぇ~なるほどぉ。で、なんで怪我したの?」

私のあっけらかんとした態度に男は一気に肩の力が抜けた様に深いため息をつき、ガックリと私の肩に頭を乗せてきた。

「ちょっと、重いですよ。」

(つか私は最初から‟なんで怪我したのか”聞いてるのに全然そこまで話がいかないんだもんなぁ、案外神様って頭悪いのかもなぁ、毎回主語ないし。)

『子豚。』

「すいません。」

私の心を読んだのか、男の鋭い声が耳に突き刺さる。

『お前は、本当になぜそんなにも無頓着なんだ?』

ガックリと項垂れる男の長い髪を手櫛で梳かす私に男が呆れたような声を出す。

「無頓着?だって神様が分かんないことを私が考えたって分かるはずないじゃないですか。誰が私を探しているのか知りませんが、私はともかくこの終わりかけた命を生きるのに精一杯なんです。まぁ、とりあえず体が平気なら良いんです、もう聞きません。だから神様、髪、切りましょう?」

もういい加減めんどくさくなった私は、男の長い髪を鷲掴み、右手に握った裁ちばさみをシャキシャキと動かす。

『はぁ……。』

そんな私に男は呆れた様に溜息をつくが、私のいたずらな笑みを浮かべる顔を見ると『お前がいいならいい…。』と呟いて眉を下げて笑った。

「へへへ、やったぁ~。一回他人の髪の毛切ってみたかったんですよぉ。」

私に背を向けて座り直した男の長い髪を手に取り、私は容赦なくザクザクとハサミを入れ始めた。
















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