第Ⅱ章『大学時代』  (一)孤独

 子供が三人とも関西の大学に進学したので、両親共に大阪に出てきた。両親は家賃がいらないということで、アパートの管理人となって狭い管理室で生活することになった。管理室には夫婦のどちらか一人が居ればよいということで、父は大きな遊園地の夜警の仕事をすることになった。

 私の進学した大学は大阪府の郊外にあった。私は大学の紹介で学校から二駅離れた所にあった下宿屋に入ることになった。駅からは田圃や畑の中を通っている道を十分ほど歩かなければならなかった。六十部屋もある下宿専門の木造の二階建てで、一見、田舎の小学校を思わせるような建物だった。部屋の広さはすべて三畳だった。朝晩は食堂で食事をし、昼食には弁当が作られた。入居しているのは大学生と一般人が半々程度だった。

 バセドー氏病の治療は、別府の病院の医師が関西の大学の出身だったので、その大学病院への紹介状を書いてくれた。父と一緒に病院へ行くと今まで見たこともないほど大きな建物だった。担当医は私のように小柄で痩せた神経質そうな医者で、対応は冷たかった。精神科にも回わされて、飲む薬はさらに増えた。私などは、この巨大な病院からすれば、どうでもいいような一患者で、ちっぽけな私の病気を治してくれそうには思えなかった。

 大学へは挫折感に沈みながらも、無線通信士という唯一の希望を抱いて登校した。電波通信専攻ということでモールス信号の練習機も購入して、わずかな夢に希望をつないだ。一週間ほど通学して、緊張の連続で疲れがたまったのか、翌日、寝過ごしてしまった。私は心身ともに気怠さを感じながら昼前に電車に乗った。するとどういう訳か、少し余裕を持ちながら乗客を観察することができた。

 どの顔にも喜怒哀楽の表情がまったくなかった。皆、能面のような顔をして、それぞれが好き勝手な方向に焦点の定まらない視線も向けていた。田舎の人々の、心の中の感情がそのまま顔の表情に出ているような、偽りのない素朴な表情はまったくなかった。都会で生きてゆくためには、正直な感情を表に出してはいけなくて、作られた無表情な顔にしなければならないのかと思った。それに、これだけ多くの人と一つの客車の中に居るにもかかわらず、それぞれ皆、他人との関係を拒絶して一人だけの世界で生きているように思えた。私はまるで、ろう人形館に入っている錯覚にとらわれた。私は、苦悩の原因である他人との関係を断ち切って生きることを夢見ていたが、電車の中の荒涼とした風景は私の住める所ではないと思った。

 大幅に遅刻をして大学の門をくぐった。だれも遅刻を注意してくれる者はいなかった。講義に出席しても、出欠を取るわけでもないし、教授などが声をかけてくれるわけでもなかった。大学としては私が講義に出席しようがしなかろうがどうでもいいことなのだった。担当教官は学生が聴いて言いようがいまいが、勝手に講義を続けた。それは学生のためではなくて、自分の自慢のため、自分の自己満足のためにやっているに過ぎなかった。

 大学ではもちろん友人は誰ひとりいなかった。私から誰かに話しかけることは、こちらの言葉が相手には通じないのではないかという恐怖心に襲われてとてもできなかった。たまに、私と同じように地方から入学してきたような雰囲気の学生が私に話しかけてきそうになることがあった。私はその気配だけで恥ずかしくて顔が真っ赤になった。それで声をかけられる前に逃げた。

 大阪在住らしい学生同士は、愛媛県では聞いたことはないような言葉遣いで早口にペラペラとしゃべった。それがいかにも物事を深く考えない、調子乗りの、軽薄な人間のようなイメージを抱かせるものだった。それを聞いているとますます私は言葉を発することができなくなった。

 都会人の無味乾燥な能面の人生、若者の小動物のような浮薄な生き方、私はこれらに接して、人間の人生そのものが所詮はつまらないものなのではないのかと思え始めた。私自身もそのなかの一人にちがいないとも考えた。そう思うと私はわずか大学生活一週間で、期待も夢も希望もしぼんでしまった。

 これ以降は気まぐれでしか学校に行かなくなった。このことは両親には隠していた。高い私学の工学部の学費を、苦労して出してくれている親には申し訳なくて言える訳がなかった。

 下宿ではまったく声を出さなくても、朝昼晩の食事はできるし不便はなかった。また、買い物に行ってもレジで黙ってお金を払えばよく、話す必要はなかった。風呂は石応と違って、不特定多数の人が利用するので、どうにか一人で行くことができた。番台で金さえ払えば黙って入ることができた。

 父は夜警で昼間に眠らなければならなかったし、母はアパートの清掃や電話の取り次ぎで忙しくて私の下宿にはほとんど来れなくなっていた。通院以外のことは一人でやらなければならなかった。

 入学して一月ほどが過ぎた時、私はふと、最後に言葉を発したのは何時だったのだろうと考えてみた。そうするとそれが思い出せなかった。少なくとも一人で大学に通いだしてからは、私は一言もものを言っていなかった。人間はあまりにも長期間しゃべらないと、次に言葉を発する時には非常な緊張感と覚悟が必要なのを感じた。だからますます声を出す気にはなれなかった。

 その代わり、頭の中は、ほぼ錯乱状態になっていた。時には、自分はいったい誰なのだろうとさえ思えた。まとまったことや継続したことを考えることができなくなっていた。その中で心を慰めたのは、やはりナツメロと故郷のことを想像することだった。大阪のラジオ局は宇和島よりはるかに多くて、ナツメロの番組も定期的にたくさん流されていた。私はその時間になると小さなトランジスターラジオのスイッチを入れた。流れる歌を聴きながら、さまざまに自分の気に行った場面を空想したり、自分がステージに立って歌っていることを想像した。そして、聴衆全員から感動の拍手をもらうことを思い描くと、涙が出ると共にずいぶん心が静まった。

 目まぐるしく次から次へと浮かんでは消えてゆく想念の中で、それは常に私の頭を疲労させたが、故郷城辺についての思いや映像だけは、いつも私の心を平安にしてくれた。だから私の頭の中では徐々に城辺のことでいっぱいになっていった。そうすることによって自分で心のバランスを取った。

 頭に広がる城辺の姿はほとんど小学校四年生までの無邪気に遊んだ自然であり、楽しかった友達との思い出だった。それは外の外敵からは両親によって完全に守られた何の心配もない世界だった。父との勉強会が始まるまでに私の幼い命に染み付いた城辺の山、川、海は私の生の基盤なっていた。

 現実には大阪の狭苦しい三畳の下宿の生活だったが、私の観念の世界では幼少期の城辺の自然の中で生活をしていた。いや、三畳の下宿は仮の世界であって、現実の私の生活感覚はこれまでの人生で最も楽しかった時のものにしようとしていた。

 思えば、夏の暑い最中、すべてが焼き尽くされるように感じられる日の午後、わが家の店の前を、静まり返った町に、

 「キンギョー、キンギョッ!」

と金魚売りの声が響いて通り過ぎた。私は庭に近い部屋で、裸になってまどろみながら童話の世界のように心地よくその声を聞いていたものだった。

 ある時、三畳の下宿間に突然、その金魚売りの声が響いた。私はうれしさに飛び上がり、窓から顔を出した。当然ながらてんびん棒を担いだ金魚売りはいなかった。声も聞こえなかった。ただ、幅の狭いイヤなにおいのするドブ川が見えるだけだった。この金魚売の声はその後もしばしば私の耳には聞こえてきた。

 月に一回の診察日には、夜警で一睡もしていない父が下宿に来て病院に連れていってくれた。この時だけは父とポツリポツリと会話を交わした。医師には、恥ずかしくて自分から話をすることができなかったので、精神的に苦しいことを父から伝えてもらった。そうして処方して貰った薬を飲むと、ただひたすら眠った。よく、これだけ眠れるものだと感心するくらい眠り続けた。

 しかしその薬も飲み続けていると効果が薄くなり、眠れる時間が徐々に短くなっていった。そして、起きている間も、眠っているのか起きているのか分からないような頭の状態になった。生活感覚のすべてが、何か訳の分からないぼんやりとした霧に包まれているような気持ちになり、喜怒哀楽が心から消えていくような毎日になった。

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