(七)挫折

 三年生になると、コース別、学力別のクラス編成になった。当然、二年の成績でクラスを分けたのだが、私は国立コースどころか進学コースにさえ入れなかった。私の入ったクラスは授業のレベルを落とし、とにかく留年せずに卒業させるのを第一義に考えたところだった。カリキュラムも大学入試には対応していない容易な教科書ばかりになっていた。

 そのクラスは独特な雰囲気がした。全く元気もなければ、やる気もなく、よどんで沈んだ空気だった。皆の心の中にはお互いに、自分たちはダメな人間だ、負けた人間だ、頭が悪く将来もつまらない人生しか歩めない人間だ、という口には出さないが共通の認識があった。担任も魅力のない教師で、初めからこのクラスに期待することは諦めているような言動だった。実に惨めな、将来のある生徒の人格を潰してしまうような雰囲気だった。

 私は後年、高校の教師を定年まで長年勤めることになったが、その間に何度も学力別クラス編成をやろうという意見が職員会議に出てきた。そのたびに私は、大きな可能性のある生徒の心に将来に残るような傷をつけるクラス編成は絶対にやめるようにと反対をして、実施させなかった。私自身の体験に基づいた判断だった。

 三年生は出発から暗くうっとうしいものだった。クラスの中には、活発でにぎやかな生徒も居なくて、休み時間でも話し声があまりしなかった。私はますますものを言わなくなった。というよりも、頭の中が様々な想念で嵐のように吹き荒れていて、外の世界が自分と遠く離れた手の届かないようなものに感じられた。誰かと話をしても実感が全く伴わなかった。同じように授業も私の頭の中に入ってくる余地はなかった。

 時に頭が破裂しそうになることがあった。そんな時、家に迷い込んできたオスのカブトムシの角を持って、コンパスの針の部分でつつき、苦しめながら殺していくと気分がおさまるのを感じた。私は両親に隠れて、ローソクに火をつけ、さまざまな昆虫を取ってきては焼き殺すようになった。ある夜それが母に見つかった。母は今まで見せたこともないように顔をゆがめて私を怒った。

 家には一匹の野良犬が住み着くようになっていた。野良犬にしては人懐っこい犬で、食事の残りを少しでもやると、いつまでも玄関の前で寝そべりながら次のえさを待っていた。私にもよく慣れていて為すがままになっていた。

 昆虫を殺せなくなった私は、今度はこの犬を防波堤の突端まで連れていって、海面まで五メートル程の高さがあったが、そこから突き落とした。犬は慌てて足を空中で必死にもがきながら海中へ深く落ちた。大き音と波が海面に広がった。しばらくして浮き上がると鼻から海水を吹き出しながら必死になって陸の方へ泳いでいった。防波堤はコンクリートの壁で、陸地までどこにも犬が上がれるような所はなかった。私は防波堤の上を犬の泳ぐ速度に合わせて歩いた。犬の必死の形相を見ると気分が少し晴れるような気がした。

 犬が陸地まで泳ぎつくと捕まえて、また防波堤の突端まで連れて行き突き落とした。これを何度か繰り返しているうちに、犬は少しずつ弱っていった。海中に落ちてから浮かんでくるまでにも時間がかかるようになり、陸地まで泳ぐのも波に負けて進めない状態がでてきていた。この様子を村の人が見ていた。その人は私の家の方へ注意をしに行ったようだった。仕事が休みだった父が、今まで見せたこともないような辛そうな顔をしてやって来て、

「やめとけ」

と私に言った。私はただ、防波堤に座っていつまでも海を見ているしかなかった。

 永遠に晴れる時は来ないように思える私の心に、すんなりと入ってきて共感の心を少しなりとも呼び起こしてくれたのは、戦前、戦中、戦後まもなくの流行歌だった。私は戦後生まれだったので知らない歌がほとんどだったが、これらのナツメロを聞くと心が慰められた。一時的にでも、錯乱しそうになる精神を止め置くことができるような気がした。

 家では新聞を取っていなかったので、学校の図書館の新聞のラジオ番組表でナツメロのある放送局と時間帯を調べた。そして家に帰ると必ずそれを聞いた。

『国境の町』を聞くと、中国大陸の雪原の中を走る馬そりが、ありありと浮かんできた。そしてその鈴の音が心の中に広がっていった。ふと、今の苦しい状況から逃げ出せるような気持ちにもなった。また、『旅の夜風』で、

「花も嵐も踏み越えて」

と歌われると、薄い希望が出てくるような気がした。そして『誰か故郷を想わざる』の、

 「ひとりの姉が嫁ぐ夜に、小川の岸でさみしさに、泣いた涙のなつかしさ」

の部分からは温かい人間関係に思いが至り、涙が流れた。

 私は本来、ナツメロの世界に生きるべき人間だと思った。その世界こそ私の安住の地ではないかと思われた。

 三年生は進路の決定など、生徒自身が決めなければならないことがあり、日が過ぎ去っていくのが早く感じられた。私は三年になっても相変わらず夜眠られずに、授業中にウトウトするというパターンを繰り返していたので、全く勉強が頭に入っていなかった。頭の中は油で満たされていて、外の世界、授業などは水のようで、私の頭の中には全く混ざりも溶け込みもしてこなかった。

 家に帰ってからはいつも防波堤に座っていた。学校の休みの日には一日中、船を見て空想にふけった。そうしている内に空想の内容が少しずつ具体化してきた。どの内容にも共通していることは、人間の多い陸地から遠く離れることだった。

 私の悩みは、極論すれば周囲に人間が居るから出てくるものだと思えた。無人島に一人で住んだり、山奥で誰とも接せずに暮らせれば、悩みも起こりようがないと思えた。それであれば、外国航路など長距離運航の船の無線通信士になれば、狭い通信室で無線機を相手に交信していればよいのだから、悩みはずいぶん減るだろうと想像した。船内では人間関係といっても決まった小人数の者との接触だから、それほど苦にはならないだろうとも思えた。それにいつも海が眺められるのがよかった。

 私は実際の目の前の船を見ながら、空想でさまざまな船を作り上げ、その無線通信士として乗船し、楽しい日々を送ることを夢見た。この空想は私の心を慰めると同時に、現実に実現できるものだと思えた。

 いよいよ進路を決めなければならない時期がきた。三年生の私のクラスでは進学を希望する者はほとんどいなかったが、私にとっても父母にとっても進路は大学進学以外に考えられなかった。私は高校に入学した始めの頃は、化学に百点がついたように文系の科目より理系の科目の方が好きだった。そして、将来、希望の無線通信士になって船に乗ること考えれば、工学部電子工学科に進むのがよいと思えた。

 国立一期校はさすがに無理だとは私も分かっていたが、中堅どころの私学であれば間違いなく合格するだろうと思った。それで関西の六校の私立大学の受験申し込みをした。その中には父の希望で一校だけ薬学部も入れていた。

 六校のうち四校までは地方試験があり、高松市で受験することができた。残りの二校は本学のみだったので大阪と京都に受験に行った。もちろん全部父が付き添ってくれた。往復の列車は私の体調のことを考えて一等車(現グリーン車)の切符を買ってくれた。私は家が経済的に厳しいことは分かっていただけに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 試験結果が次々と家に送られてきた。封筒を開けるたびに私の心も体も切り裂かれていった。結果的に全受験校が不合格だった。私はこの結果がどうしても信じられなかった。小中では学校でトップであり、高一の一学期には父が大泣きするほどの優等生であった。

 その後いくら病気で勉強できなかったとはいえ、私の意識の中にはまだ、自分は他の者よりも勉強ができる、という自負心が残っていた。それがことごとくうち砕かれた。何日間も私は不合格の結果は何か手続きの間違いだろうと思えた。大学の方から、

「合否を間違えていました。合格です」

と連絡があることを真剣に待っていた。ところがもちろん何もなかった。

 父母は、

 「病気なのだから仕方がない。家でゆっくりと養生しながら、一年間、勉強して、来年また受験すればいいじゃないか」

と慰めてくれた。しかし私はもし、これから一年間、実家で過ごしたとするならば、自分は間違いなく風船が割れるように破裂してしまうだろうと思えた。これは私に非常な恐怖心を呼び起こし震え上がらせた。

 ほとんどの大学入試も終わり、年度末さえ近づいた頃、私は電子工学科の二次募集をしている大学を必死で探した。そうすると大阪の工学部の単科大学が一校だけ二次募集をしている情報を見つけた。私は藁にもすがる思いでその大学を受験した。結果は合格だった。

 しかし、私は生まれて初めて、現実的な挫折感を味わった。それも、自分自身と全人生を否定されるような決定的な挫折感だった。両親の愛情によって、幼いころから培われていた強い自尊心と自我意識は、入試失敗という現実の自分の姿を突きつけられることによって、粉々に崩れてしまった。私の心の中から、この時まで病気の苦しみや精神の不安定はあったにしても、無意識のうちに持ち続けていた優越感が消えてしまい、ポッカリと空洞が開いてしまった。他の者より郡を抜いて優れている、この意識が私の幸福感の根本であった。生きがいであった。それを喪失した時、生きる楽しみも意義もなくなってしまったように感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る