(六)海

 父は子供の将来を考える時に、何が最も人生の支えになるかについては学歴がいちばん大切であると確信していた。家や財産を残すことは、一時的に子供の役には立つかもしれないが、一生涯という長い目で見た時に、学歴の方がはるかに役立つと考えていた。父は子供たちが生きる時代の様相を自分なりに予測して、そこで必要なものは何かを考え、結論を出したのだった。父はよく、

 「大学の薬学部を出ておれば、『薬局』と名前をつけられるが、学歴がないから、お父さんがどんなに勉強しても『薬店』としか店の名前につけられない」

と言っていた。城辺町には三軒の薬屋があったが、『大和田薬店』以外は二店とも『○○薬局』と看板が出ていた。ただ、売り上げは父の店が一番であった。

 私が高校二年生になった時、兄は前年に大阪の大学に進学していたが、今度は姉が京都の短期大学に進学した。当時の城辺町で、娘を大学に行かせるというのはほんのわずかしかいなかった。親戚縁者からも

 「女の子はどうせ結婚して家庭にこもるのだから、無駄金になる」

と陰口をたたかれた。しかも、兄も姉も学費のかかる私学だった。

 父は薬の販売拡大などには大胆に行動する反面、堅実に家計の見通しを立てていた。いくら商売が順調だといっても、三人の子供を同時に下宿させて大学に行かせるのは無理であった。だから、私が大学に進学する時には、姉が短大を卒業する予定であった。そうすれば、商売が特に不調にならない限り三人とも大学を卒業させることができるはずだった。

 ところが私の病気は予想外の出費だった。毎月、商売を休み、二人分の運賃と快適な部屋のためにチップも出して病院に通わなければならなかった。城辺町から宇和島市までのバス運賃でさえ、かなり高額だったらから、月々の交通費の負担は大きかった。それにもちろん、毎日、朝晩に飲む大量の薬代と診療費も重なった。

 二年生の秋になった時、父は経営していた薬店を廃業した。三人の子供の学費が払えなくなったからだ。父は最終的に店舗兼住宅の自宅を売り払って私が大学を卒業するまでの経費を捻出した。そして長年住み慣れた城辺町を引き払って宇和島市に出てきた。そこで私が卒業するまで一緒に住むことになった。家賃が少しでも安い所ということで、宇和島市内から五キロ程南に海岸線を行った所にあった石応(コクボ)という村に間借りをすることになった。私は下宿の家主にあいさつをすることもなく、逃げるように石応に移った。そこで私と両親の三人の生活が始まった。

 私は石応の生活の中で、自分にとって帰るべき場所が無くなったことをしみじみと感じた。それは具体的な場所にとどまらず、心の支えともなるところであった。私の気持ちとしては、故郷を出て心が縮まるような苦しい思いをしているが、どうしてもだめな場合は、実家に帰ればまた生きていけると思っていた。それが無くなり、心に占めていた最後の安心の部分がポッカリと抜け落ちてしまったように感じた。屋根に登って降りるべき梯子を外されたような気持ちだった。

 その感覚は父に対する見方にも共通するものを感じ始めていた。父は仕事として宇和島市内の薬屋にむりやり頼み込んで、安い給料で雇ってもらうことになった。ボロボロの調子の悪いスクーターを一台与えられて、一日中走り回って商品を運んでいた。不衛生な品物を担がされたといって、首筋の広い範囲にひどい皮膚病ができて、いつまで経っても治らなかった。疲れ果てて家に帰ってからは、ものもあまり言わなくなり、ただゴロリと横になっているだけだった。

 この父の姿から、私の最大のよりどころであり、全知全能に思えた父の存在が心の中から消え去っていくのを感じた。それは私自身の存在の最大の基盤が失われたことを意味した。私は、帰るべき所も帰るべき人も無くなったということを、耐えられない程の不安と寂しさを伴って身にしみて感じていた。私は心の中で、

「もう学歴はいらないから、帰るべき故郷の家と父を取り戻してほしい。そうしないと生きていけない」

と叫んでいた。

 石応の借間は倉庫の片隅の物置だった。そこを片付けて住めるようにした。倉庫の前は、道路を隔ててすぐに海岸になっていた。そして長い防波堤が沖へと伸びていた。五百メートルほど先には宇和島湾に浮かぶ最も大きな九島(くしま)という島がよく見えた。

 石応の生活で最初に困ったのは、便所だった。倉庫の奥の方にあったが、どういう訳かドアが胸のあたりまでしかなく、立ち上がると外から顔がよく見えた。それに下も床から十センチほど空いていた。カギもついていなかった。ある時など私が大便をしていると知らない婦人がドアを開けて入ろうとした。それ以来、私は、誰か見てはいないか、入っては来ないかと不安で用が足せなくなった。それでいつも大便をする時は明るいうちは我慢して夜遅くなってからにした。

 また、風呂でも嫌な思いをした。村には一カ所だけ狭い銭湯があった。私が一人で行くと先に来ていた客が皆、おかしな目をして私の裸を見た。なかには、「お前、どこの子や」と話しかける漁師もいて、私が受け答えができないと怒ったような顔をしてにらんだ。そして漁師連中がヒソヒソ話をして私を見下しているように感じた。

 これ以降、私はひとりでは風呂に行けなくなり、必ず父と一緒に、できるだけ客が少ないと思える時間帯を選んで風呂に行った。

 学校へは自転車でも通える距離だったが、体調の不良は続いていたので、バスを利用した。バス通学は女子生徒が多かった。男子はほとんどが自転車通学をしていた。ある時、帰りのバスが混んで私の手が女子生徒のお尻に触った。その女子生徒は私の方を振り向いて意味ありげに笑った。私の頭に衝撃が走った。女子生徒が今にも、「この男の子は痴漢だーッ」と叫びはしないかと身をこわばらせた。さらに、バス停に着いて降りる時には、運転手に言い付けはしないかとビクビクした。しかしどちらもなかった。

 バスを降りると私は逃げるように家に帰った。それからは頭の中で、「大和田は痴漢だ」と村中に広まってしまうだろうという心配でいっぱいになった。私は父に、

「バスに乗ると気分が悪くなって倒れそうになる」

と言って、中古の自転車を買ってもらい、それで通学することにした。バセドー氏病は普通でも心拍数が多くなり動悸がするものだった。それなのに朝夕自転車に乗るので、何度か途中で気分が悪くなることもあった。しかしバスの中での神経を削られるような苦痛を思うと、よほど楽であった。

 私は学校でも家でも、自分から誰かに話しかけることはほとんどなくなった。一年生の発病前の、柔道をやって活発に友達をつくっていた頃のことを知っている級友は、私の変わりように驚いて、よほど病気が悪いに違いないと心配してくれた。私は口数は減ったが、頭の中では様々な想念と次々と自己の中で創り出される不安と心配で渦巻いていた。頭の休まる暇は瞬時もなかった。楽しいことなど全くなかった。ただ苦しいだけの日々になった。

 その中で唯一、心が慰められたのは、家の前の防波堤の突端に座って海を眺めている時だった。私は学校が休みの時には少々寒くても、また雨が降っていてもいつも海を眺めていた。

 正面には九島が見えたが、左手の島影が切れたかなたには、無辺際の海原が広がっていた。限りのない海を見ると心が休まった。また、時々防波堤に大きな貨物船が停泊していることがあった。それを見ると私は船に乗り、国内や世界中に出かけて行くことを夢見た。想像は限りなく広がり、頭の中で長編の物語りを何編も創っては消した。

 防波堤に三、四時間、動かずに座っているので、母が心配して連れに来ることが何度もあった。

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