(五)自我意識
私は三人兄弟姉妹の末っ子だ。兄と姉は年子で、姉から二歳離れて私が生まれた。父母が最後の子供にしようと思って生まれた私は、かわいらしい顔とよく頭の働く子供だったので、両親の愛情を多く受けて育った。兄姉はいつも、
「どうしてコーちゃんばかりをかわいがるのか」
と不満を言っていた。コーちゃんというのは私の名前の光也の愛称だった。兄姉と共に、母は死ぬまで私のことをこのように呼んでいた。
小学校四年までは勉強もよくできたが、運動も得意だった。運動会の個人競技では、必ず一位か二位に入った。友達もたくさん出来て、一緒に遊ぶのが何より楽しく、いつも夕食を忘れて遊んでは怒られていた。成長するにつれて学校の先生からよくほめられるようになった私を、両親はますます大切にし、自慢するようになっていた。
父は城辺町の商店街の中ほどで薬店を開いていた。学歴は戦争のため小学校もロクに行けなかったが、終戦後、旧満州から内地に引き揚げてから、故郷の城辺町で薬屋の丁稚奉公をした。それから資格試験に合格し、独立して薬店を開いたのだった。当時は、大学の薬学部を出なくても実務経験と資格試験に合格すれば、薬屋開業の認可を受けることができた。
まだ国民皆保険制度ができる以前のことで、売薬がよく売れた。父は売り上げをどんどん伸ばし商店街の中でも羽振りのよい商売人になっていった。いわゆる町の有力者になった。町会議員になるようにと何度か勧められていたが、時期を待っているようだった。
経済的に余裕があったので、私の欲しいものはたいてい買ってもらうことができた。それは幼いころからの習慣になっていた。私の記憶の中では、欲しいと思ったおもちゃはすべて買ってもらったような気がする。まれに、あまりにも高額なおもちゃを欲しがった時には、母は拒否をしたが、私が大声をあげておもちゃ屋の店先に座り込んで泣き出すと、機嫌をとるように買ってくれた。だから私の意識の中では欲しいものは必ず手に入れることができる、と全く疑うことなく信じていた。
さらに、買ってもらったおもちゃは、普通の家庭の子供では手に入れられないような高額なものが多かったので、他の子供たちからうらやましがられ、それが私を得意にさせた。
町で一目置かれるような父だったので、田舎のこととて学校においても有力者の子供ということで担任が気を使っていた。父は教員に軍隊の後輩がいることもあってか、よく学校に来ては校長室で話をしていた。また、担任が家庭訪問の時には、わが家でビールなどのもてなしをしていた。盆、年末などにも担任に贈り物をしていたようだった。
三年生の時の担任は《ひねりビンタ》をやる先生だということで、子供たちには最も怖がられていた。《ひねりビンタ》というのは、片手で頬をつねり、一方の手で反対側の頬を叩くというものだった。ほぼ皆、一度は《ひねりビンタ》をやられたが、私には全くなかった。
「うちの子は叩くな、と校長に言っているが、もし叩かれたらすぐに父さんに言え。学校に行って叩いた奴を怒り飛ばしてやるから」
と父は面白そうに言っていた。
私と他の子に対する担任の対応の違いは、子供ながら私にもはっきりと感じられた。私には特に優しく丁寧に接してくるのだった。そして毎年、必ず私は担任から学級委員長の指名を受けた。私はいつの間にか学校でも他の者と違う特別な存在なんだということが無意識のうちに身に付いてしまっていた。そして、父に頼めば何でも思う通りにできると考えるようになった。私は自分中心に、自分の自由に世界が動かせるように錯覚をしてきていた。
五年生になった時だった。父が急に、
「これからは、遊ぶのをやめて、お父さんと一緒に勉強しよう。そうしたら欲しいものは何でも買ってやるから。四年生まで好き放題に遊べたのだからもう十分だろう」
と私の頭をなでながら言った。私は父の言っている意味がよく分からなかったが、「何でも買ってやる」という言葉が気になって、
「うん、いいよ」
と答えた。今までも何でも買ってもらっているのに、わざわざ念を押すのは、父の言うことを聞かなければ、買ってもらえなくなるのかもしれない、と私なりに解釈をして返事をしたのだった。
軽く返事をしたが、このことは私の少年時代を大きく変えた。
翌日から私は学校の授業が終わると友達と遊ばずに、すぐに家に帰った。すると父が机に座って待っていた。そして私に勉強を夕食まで教えた。夕食を終えるとまた勉強会をやった。終わるのはいつも寝る時間の一時間ほど前だった。
父はその間、お客が来て薬を売る時以外は、付きっ切りで勉強を教えた。さらに、休みの日には商売を控えてまで勉強を教えた。結局、この生活パターンが親元を離れて高校に入学するまで続いた。
学校の生活はすこぶる快適だったが、父との勉強会のために友達と遊ぶことが全くできなくなった。これは私の心の中に大きな穴を開けた。友達と楽しく自然の中で遊ぶ、その充実感、幸福感みたいなものが完全にポッカリと抜けてしまったのだ。それは他のことでは埋め合わせのできない大変、寂しい穴だった。
時々、あの、友達と遊んだ幸福感はもう二度と来ないのかと思うと、むなしくて仕方のない思いに駆られることもあった。友達と遊んでいるとケンカもする代わりに自分を客観的に見ることが無意識のうちにできるようになっている。ところが、勉強会が始まってからの私の生活の大半は、父と家族と私のみの関係であった。こういう人間関係の中で私は無意識のうちに自我意識の強い子供になっていった。四年生まででもよほど自我意識が強くなっていたのに、さらに、自分は他の子供よりも優秀なのだ、何でもできるんだ、特別なんだ、という意識が非常に強まっていった。
友達と遊べない寂しさみたいなものが、私の心の中にあることを父は感じていた。それで、時々、夏の雨の少ない日が続くと、私を夜川へ連れて行ってくれた。
夜川というのは、カーバイドを入れたアセチレンガスのランプを持って、暗くなってから川に行って魚などを取ることだった。ランプで川面を照らし出すと、さまざまな魚が浅瀬に来てゆらゆらと眠っているのが見えた。それらは明るく照らされてもすぐには目を覚まさなかった。ハヤやフナは網で簡単にすくえた。エビやカニなどはヤスで突いて取った。さらにウナギもよく眠っていて、ウナギバサミで取った。昼間はなかなか取れない魚などが簡単に取れるので面白かった。また、家に持って帰って焼いて食べるのもおいしかった。
夜川は確かに時間を忘れるほど楽しかった。しかし、その楽しさは友達と遊ぶ楽しさと置き換わるものではなかった。あくまでも、勉強の延長線上の父との人間関係の中でのものだった。
中学になると、隣町の御荘町で薬局をしていた父の友人に頼んで週に二回、英語を教えてもらうようにした。父は小学校もまともに行けなかったが、勉強が非常に好きで、自分でさまざまな書物を買ってきて全般にわたってよく勉強していた。ただ、英語だけはできなかったので、大学の薬学部を出ていた同業者に頼んだのだった。
もともと頭の回転の早かった私は、学力は急速に上がっていった。学校での試験は、満点を取るのが当たり前になった。九十九点を取るとずいぶんがっかりした。中学では学年全体の順位が出たが、毎回の試験で一番か二番であった。ただ、体を動かさなくなったので体育だけは低い点数になった。
狭い町のことなので、学校で一番成績の良い子供は誰かということはすぐにうわさになった。父はそのうわさが耳に入るたびにこの上ない喜びを感じているようだった。
宇和島市の高校に入学した時、私は非常な不安を感じていた。それは、自分の学力が城辺町という辺鄙な町ではトップであったが、果たして有数の進学校で通用するかどうかということだった。それでとにかく必死で勉強した結果が一学期の成績だった。私はこの成績を取って、自分の実力は日本中どこに行っても通じるんだ、という絶大な自信と誇りを持つことができた。同時に自我意識と自尊心をはなはだしく強めてしまった。
病気のため、二学期になってから全く勉強は手につかなかったが、この自尊心と自我意識だけは私の心の中でしぼむことはなかった。
私は自分で自分の心が分からなくなっていた。人格がズタズタに傷つき自己を全否定し、自分で作り出した恐怖心におびえているのに、自尊心と自我意識は依然として強く、それが傷つくことを恐れていた。私は自分の心の中で背反する極端な二つのものがしのぎを削っているような気がした。
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