(三)バセドー病
二学期が始まる前日、母は私と一緒に宇和島の下宿に来た。そして医師の「体育をさせないように」という診断書を持って学校へ行った。担任と体育の教師に会って、体育の実技は見学で単位が取れるようにお願いした。また、柔道部の顧問にも会って退部するようにもした。
母のシャキシャキした態度を見て私は不思議に思った。母は精神疾患を抱えており、日ごろは頼りなく、ひとりでは何もできない人だった。なんでも父に頼っていた。そのくせ、どういう訳か、父を口汚くののしることはよくあった。私は母がしっかりしている姿を見て、私に対する心配と思いやりで頭がいっぱいになって、私のためには何でもやり遂げるという気迫のようなものが、日ごろ見せない母の姿にしていると思った。私はそれが大変うれしかった。
この時以来、卒業するまで、私は体育実技の授業はすべて見学することになった。同時に日常生活の中でも極力、体を動かすことから遠ざかるようになった。
母はその日に帰った。私は下宿の部屋に一人になるとまた不安が頭の中に大きく広がった。この夜は、医師から、
「眠られない時だけ飲んで極力、量を減らすように」
と言われていた睡眠剤を多めに飲んで寝た。それでもやはり寝付かれなかった。気分の悪い、意識がもうろうとした状態の中で、次から次へと頭の中に悪夢のような妄想がわき上がっては消えていった。
翌朝、目が覚めたという意識はなかった。もうろうとした状態のまま体を起き上がらせただけだった。学校には行ったが、船酔いで雲の上を歩いているような感覚で時間を過ごした。
私は高校生になってからは活発に友達とも話しをし、親しく付き合っていたので、久しぶりの再会で多くの級友が話しかけてきた。ところが、それらの会話が、遠く離れた別の次元から届いてきているような感覚になった。私の頭の中にも心にも、全く入って来なかった。自分がしゃべっているにもかかわらず、まるでロボットが受け答えしているように感じた。だから、会話はちぐはぐになり全く盛り上がらず、すぐに途切れた。級友は困ったような顔をして離れていった。
こんな状態だったが、九月の一カ月間は一学期のように遅刻も欠席もなく通学した。ところが十月に入り秋の気配が感じられ始めた頃、自分の体の異変に気がついた。校舎は木造の二階建てであったが、友達の歩くスピードに合わして一緒に階段を上ると途中で動悸と息切れが激しくなり、ふらふらとして立っていられなくなった。階段の手すりにすがってしばらく休んでからまた、ゆっくりと上がらなければ二階に行けなくなった。
さらに、昼休みに売店でビンに入った牛乳を飲もうとすると手がワナワナと震えて、牛乳ビンの口が前歯にガチガチと当たり半分以上の牛乳がこぼれてしまった。口元からこぼれた牛乳でシャツがベトベトに汚れた。また、食事は人一倍の分量は食べるのだが、体はやせ細っていった。
この体の異常に気づいてくれたのは下宿の家主だった。実家に電話を入れて、
「息子さんの体調が悪そうだから来てみてください」
と言って親に状態を伝えた。すぐに父がやってきた。父は私を見るなり、
「このまま俺と一緒に城辺に帰って、しばらく療養をしよう」
と言って、すぐに帰る準備をした。
実家に帰ると母は悲しそうに眉間に皺を寄せて私をしばらく見ていた。そして、
「指は震えるし、目玉は出てきているし、首が少しはれている。間違いなく私と同じ病気だわ。こんな若い男の子が罹るなんて・・・」
と涙をこぼした。
母は十年以上も原因不明の体調不良で悩まされていた。それが一年ほど前にやっとバセドー氏病であるのが分かった。当時、甲状腺亢進症であるバセドー氏病は専門の病院がなくて、診断、治療もできずに風土病のように扱われていた。それが、ひょっとすると母の病気は甲状腺かもしれないと言ってくれた医者がいて、大分県の別府にある専門病院を紹介してくれた。父は宇和島から船に乗って母をその病院に連れて行った。結果はやはりバセドー氏病で、かなり悪くなっていた。それで、首の部分にある甲状腺の一部を切り取る手術を受けた。母は、
「長い間苦しんだのがウソのようだ。どうしてもっと早く病名がわからなかったのだろう」
と何度も言っていた。
父は店の仕事の段取りをつけて私を母と同じ病院に連れて行った。夜、宇和島港から船に乗った。いつも乗船客は満員で、毛布をかぶって雑魚寝をするのだが、窮屈な状態だった。不眠症である私を気遣って父は、船員にチップを渡して船首にある余裕のある部屋に変えてくれた。エンジンやスクリューの振動も少なく静かで快適な部屋であったが、私は全く眠ることはできなかった。
船は夜明け前に別府港に着いた。そこからタクシーで病院まで行くと、早朝にもかかわらず待合室は開いていて、多くの患者がまるで石のように黙ったまま動かずに診察が始まるのを待っていた。甲状腺の専門の病院として西日本で有名なところだった。
診察時間になるまでに三時間以上待った。さらに患者が多いので診察が始まっても二、三時間は待たなければならなかった。結局、検査の結果も出て、医師の診察を受けることができたのは昼前だった。結果は甲状腺亢進症だった。
甲状腺というのは喉の近くにあって新陳代謝を活発にするホルモンを出す器官だ。ホルモンが出過ぎることによって、風邪のような症状が続き、指の震え、眼球突出、動悸などの症状が出てくる。精神的に不安定になる患者も多い。原因はよく分かっていないが、精神的ストレスや体質的な遺伝も言われている。年代的には中年以降の女性に多い病気である。私のような若い男性が罹ることは珍しかった。
バセドー氏病と精神疾患の関係は明らかではないが、バセドー氏病がまだ知られていないころには、精神疾患として治療されたこともあったようだ。また、精神的な過敏性がバセドー氏病を発症させるともいわれている。
ただ、母の場合はバセドー氏病は甲状腺の摘出手術によって完治しているのに、精神疾患は依然として残っていた。
母はたいてい布団の中にいた。どこか遠くを見つめるような目でいつも何か考えているようだった。時々、ぶつぶつと小声でしゃべったり、急に激しく怒り出したりした。ある朝などは、食事の準備はすべて父がしていたが、母が寝床から急に起き出してきて大声でののしりながら、なべに作っていたみそ汁をひっくり返した。それからまた寝床にもぐり込んだりしたこともあった。
母の寝床のそばにはいつもブリキの缶が置いてあった。もちろん家にトイレはあったが、母の夜中の小用はいつもそのブリキ缶にしていた。朝になると母はブリキ缶の中の自分の小便を何かを探すように長い間眺めていた。それからおもむろに家の裏の畑に持って行き、野菜の根本にかけた。ブリキの内側は小便の腐食作用でボロボロに錆ていた。部屋にはいつも小便の臭いが漂っていた。こんな母だったが、私の健康のことになると人が変わったようにしっかりした。
私はバセドー氏病と診断されて以来、高校を卒業するまで毎月一回、別府の病院に行き、一月分の薬をもらった。その時にはいつも父が連れていってくれた。私があまりにもしょんぼりしている姿を見て父は、診察が昼ごろ終わってから帰りの船に乗るまでの空いた時間で、別府温泉の地獄めぐりや高崎山のサルを見物に連れていってくれた。
春夏秋冬、雨の日も雪の日も毎月、潮流の激しい豊後水道を渡って九州まで通院した。しかし、いっこうに症状が良くなる気配はなかった。時として私の頭は張り裂けそうな思いでいっぱいになることもあった。
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