(二)勉学

 私が通っていた高校は宇和島市内にあった。当時、愛媛県の南部の高校の中では国立一期校(旧称)に合格する者が出てくる有名な進学校だった。私が小学校中学校と通ったのは愛媛県南宇和郡城辺町だった。近くには地元の生徒が進学する県立高校があった。しかし、私の勉強がよくできたので、父が将来、国立一期校に行かせることを目標に、下宿させて宇和島の高校に進学させたのだった。城辺町から宇和島市までバスで三時間以上かかった。

 私は生まれて初めて親元を離れて下宿生活をしながら通学を始めた。自分は頭が良いという異常なほどの自負心を持っていた私は、毎日の授業の復習と予習を徹底してやった。そして高校でも必ずトップの成績を取ってやると決意していた。

 やがて夏休み前の一学期の期末試験が終わり、成績が出た。美術と体育以外は小中と同じようにクラスで一から三位の間に入った。また、学年全体でも十位以内に入った。終業式の前に保護者懇談会が予定されていたが、その前に担任が私を呼んで成績のことをほめてくれた。その時、担任は出来上がった真新しい通知表を開いて化学のところを指さした。100点と書かれていた。本来二ケタの数字を書くスペースのところに窮屈に三ケタを書き入れたというような感じだった。担任は、

 「化学の担当者からは、試験を難しく作り過ぎて平均点が四十点くらいしかなかった。それなのに大和田君は九十点以上を取った。全員にゲタをはかして平均点を上げたが、そうすると大和田君は百点をはるかに超えることになった。だから通知表の百点は百点以上の値打ちがある、とわざわざコメントをしに来てくれたよ」

とほめてくれた。さらに、

 「この調子でいけば希望している国立一期校にも十分に手が届くだろう。保護者懇談の時には親御さんにも十分にほめて置いてあげるよ」

と機嫌よく言ってくれた。

 保護者懇談には、父がわざわざ仕事を放って城辺町から出てきた。懇談会の場で担任がどのようにほめたかは知らないが、後日、母から聞いたところによると、父は涙を浮かべて家に帰ってきたそうである。そして、

 「俺は、どうしてこんないい子を自分の子供に持つことができたのだろう。今まで生きてきて、こんな幸せなことはない」

と言って涙をボロボロと流して大声で泣いたということだった。父は涙など見せる人ではなかった。母は、

 「お父さんが、あれほど涙を流して大声で泣く姿は今までに一度もなかった」

と驚いていた。

 学校は、終業式の後は四日間ほど何もない完全な休みだった。私と友人はこの間に篠山登山に行ったのだった。

 その後は月末まで補習授業やクラブ活動が行われる予定だった。私は入学と同時に柔道部に入部し、まじめに練習に参加していた。そろそろ白帯から茶色の一級検定試験を申し込む準備をしよう、というところまで来ていた。

 登山から帰ってきて今まで通りの生活に戻った。ところが夜、布団に入ってもいっこうに寝付かれない状態が続いた。毎日、空が白みかけるようになって少しの時間だけ眠れるという状態だった。

 補習授業には毎日、出席はしたが、不思議なことにあれほど夜には寝付かれないのに、授業が始まるウトウトとしてしまうのだった。授業中に眠るということはこれまで考えられないことだった。当然、授業の内容は全く頭に残らなかった。授業の後の柔道練習では、体はだるく熱っぽくなってすぐに息切れを起こした。今までたやすく勝っていた相手にも投げられるようになってしまった。それでも練習は続けた。

 毎晩、夜になり寝る時間が来ると私は不安感が増すようになった。眠られないのではないかという不安にさらにもう一つ、不安が重なった。それは逆に、眠りそうになると頭の中に大きく広がる不安だった。眠るということは、外の世界に対して私からの主体的な働きかけがなくなることであり、関係性が断たたれることだ。それは外の世界に対して無防備になることでもあった。眠ってしまうと外の世界から、やりたい放題のことをされてしまうと思えた。眠っているうちに何をされるか分からないという不安と同時に、目を覚ました時、何をされたのか分からないということには恐怖が感じられた。その点、授業中に眠ることについてはずいぶん安堵感があった。

 七月の末まで、補習授業とクラブ練習をやり抜くと身も心もボロボロになったような気がした。

 八月に入ると、生徒に主体的に学習させる期間ということで、補習もクラブ活動もなくなった。私は学習教材など荷物をまとめて城辺町の実家へ帰った。下宿してから初めての帰省だった。長期間ゆっくりできることを思うとうれしくなった。小学校低学年のころの夏休みの何とも言えない、心がワクワクするような気持になった。

 元気よく家の中に入ると、父母が冷たい飲み物などを用意して待っていてくれた。父母のうれしそうな顔は瞬間であった。私の姿を見るなり二人とも非常に驚いた表情になった。すぐに顔を心配のあまりこわばらせた。母は、

 「一体どうしたの、どこが悪いの?」

と今にも泣きそうになった。父とは半月前に保護者懇談会で学校に来た時に会っていたが、その父も頬をピクピクさせながら、

 「どこか痛いところがあるか?」

と顔色を変えていた。

私は自分では気がつかなかったが、この半月ほどの間に他人から見れは驚くほど体が衰弱していた。顔は土気色になり、目は焦点が定まらないようにボンヤリとして、体は痩せこけていた。ただ食欲だけはあった。

 翌日から病院通いが始まった。それと、父は薬店を自営していたので、商品の薬をいろいろと私に飲ませた。さらに父は、母に店番をさせて、私を城辺町から南宇和郡、さらに高知県の宿毛(すくも)市にある病院にまで連れて行った。どうして多くの病院に行ったのかというと、原因が分からなかったからだ。いくら調べても、微熱があるくらいで、特に体に異常が見つからなかった。それで結局、寝不足から体調を崩しているのではないかということで、睡眠薬と精神安定剤を出してもらった。

 睡眠薬を服用すると、気分の悪い長い眠りになった。時には一日中眠っていたりした。また目が覚めている時でも、半分眠っているような、もうろうとした感覚になった。しかし、服用しなければいつまでも眠ることができなくなった。ひょっとしたら眠らなくても生きていけるのではないかというような錯覚を起こさせるほどであった。

 また、夜の決まった時間に眠るようにしようとすると、少しずつ分量を増やさなければならなかった。それは体に良くないだろうということで分量を抑えると、睡眠の時間帯は二十四時間の中でバラバラになっていった。いつ寝て、いつ起きるのかが全く定まらなかった。だから、一日の睡眠時間はどのくらいかと調べてみても、日付を超えて不規則になってきていたので計算のしようがなくなっていた。

 夏休みの間中、こんな生活だったので、勉強は全くできなかった。教科書を開けようという精神状態とはかけ離れたものだった。ほとんど家から出ない、暗いうっとうしい毎日だった。これまでの夏休みの中で最もつまらない日々を過ごした。それでも、幼いころから育った実家ということで精神的な不安はずいぶん抑えられて、一カ月ほど経って二学期が始まる頃には、かなり落ち着いてきていた。体重も少し増えていた。

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