第Ⅰ章『少年時代』  (一)発端

 精神の状態が少しずつ異常な方向へ進み始めたのは、愛媛県宇和島市にある高校の一年生の夏休みに入って直ぐのことだった。

 もちろん自分ではその異常に気付くことはなく、何となく自分で自分の心の状態が腑に落ちない気持ちがしていた。この時までは、当然ながら自分の心の特徴についてはこれまでの経験から十分に分かっていて、どのような場面に接するとどのような心の状態になるかというのは無意識のうちに理解していた。そして、自分が理解している通りの心の動きをしていたので違和感なく自分の心を受け入れていた。

 ところが、症状が出てくるにつれて、自分自身の心の動きが自分で理解ができなくなってきた。これまでの自分であれば当然、今まで通りに感じ、把握し、行動するだろうと思えたことが、全く今までの自分とは違った方向に動いてしまった。

 その最初の症状が不眠だった。この時まで私は眠られないというようなことは一度たりともなかった。むしろ、実家にいる時には親から、寝過ぎて無理やり起こされるほどよく眠る子供だった。私に限らず高校生くらいといえば誰でもよく眠るものだ。

 眠られないというのを最初に自覚したのは、高一の夏休みに入って直ぐのことだった。翌日から友達同士で篠山登山へ行く予定になっていた。篠山というのは、愛媛県の南端に近い高知県との県境にある標高千六十五メートルの山だ。男同士四人で行く予定だったが、そのうちの一人が自宅で寝ると朝、寝過ごしてしまうといけないということで、私の下宿している部屋に泊まることになった。

 この夜だった。どういう訳か私はいっこうに寝付かれなかった。これまでに寝付きが悪いという経験は全くなかったので、寝付かれない自分が不思議であり、信じられなかった。それで、今にも眠ってしまうだろうと思っていたのだが、いつまでも目が覚めていた。隣の友人を見ると気持ち良さそうにスースーと眠っていた。

 しばらく、うらやましくその友人の寝顔を見ていた。心地よく眠っている者に対して、うらやましいという感情が出てきたのも初めてだった。この時、私は急に友人の寝床に移って上から抱き締めたいという衝動が唐突に起こってきた。こんな感情もまた初めてであった。どうしてそんな気持ちになるのか自分でも分からず、戸惑うしかなかった。

 今度は、自分の心の中からわき上がる訳の分からない感情に頭が掻き乱されて結局、一睡もすることができなかった。

 翌朝早く、宇和島市駅前のバスターミナルに私たち四人は集まった。そこから朝一番のバスに乗って篠山の麓まで行った。それから登山道を登った。天気はよく晴れて暑かった。私は一睡もできなかったため体がだるく、途中で倒れはしないかと心配になり、登山が楽しいよりも苦痛になっていた。

 軽い上りの見晴らしの良い登山道を歩いている時だった。まだ頂上にはずいぶん距離があり、所々に村々が点在していた。右手下方には清流が流れているのが見下ろせた。その川が一カ所で幅が広くなりよどんでいるところがあった。私は何気なくそこに目がいった。子供たちが三、四人、浅瀬で裸になって水浴びをしていた。その中に一人の女性が子供たちを見守るように一緒になって水の中に入っていた。

 上半身裸で大きな乳房が丸出しになっていた。他の三人もそれに気がついて、私たちは歩くのをやめて注視した。女性は私たちに見られているのに気がついて、大急ぎで背中を向けて大きな岩の影に隠れた。強い夏日が水面にキラキラと反射して、年齢の程は分からなかったが、白く妙に丸みを帯びた体形が目の奥にいつまでも残った。

 夕暮れ前に、どうにか倒れずに山頂の少し手前の宿泊所にたどり着いた。篠山は本来は修験者の修行の山で、宿泊所も修験者のための施設であったが、空いている時は一般の人も利用できた。この日の利用者は私たち四人と若いOL風の女性三人のグループだけであった。宿泊所は平屋ではあったが、大きくて丈夫な木材で作られた、寺院を思わせるような建物だった。広さは四、五十人が寝泊まりできるのではないかと思える程広かった。管理は元気そうな老人が一人でやっていた。もちろん宿泊客の食事は自炊であり、その他のさまざまなことも全部、自分でやるのがしきたりであった。

 夜、就寝時間になった。電線は宿泊所まで通っていなかった。薄暗い石油ランプをさらに暗くして、常夜灯にしていた。

 私は、前夜は全く眠っていないし、倒れることを心配するくらい疲れ果てていたので、眠ることに対して何の疑いもなく床に横になった。ところが信じられないことが起こった。全く眠れないのだ。目が冴えたまま時間だけが過ぎ去っていった。午前一時を過ぎても眠られる気配はしなかった。私は少し首を持ち上げて他の三人を見た。薄暗い中、皆、火事になっても起きないのではないかと思うほど熟睡していた。

 この時は私の心に誰かに抱き付きたいという衝動は出てこなかったが、代わりに、昼間見た丸い女性の体が頭の中、いっぱいに広がった。そうすると一緒に宿泊している女性のグループのことが急に気になり始めた。そして今度は、奥の部屋の女性の寝ている所に行きたくて仕方がなくなった。

 今までの私であれば当然ながらそんな行動を起こす訳がなかった。ところがどうしたのか、私は理性を比較的簡単に乗り越えて起き上がった。そして音をさせないように女性の部屋の方へ歩いて行った。女性の部屋の入り口に近づいた時、その前で寝ていた人がムックと起き上がった。驚いて見ると管理者であった。私は間違ったふりをしてトイレの方へ行き、用を足してまた寝床に横になった。

 ますます眠られなくなった。こんな行動をとった自分が自分で分からなくなっていた。私は天井にぶら下がっているすすけてきた石油ランプの炎をじっと見つめていた。すると今度はそのランプを床に投げつけて火をつければ、立派な木材でできた宿泊所は巨大な炎を上げて燃えるだろうと思えた。そして私以外の者が皆焼け死ねば・・・と想像すると心が慰められた。やがて、ひょっとすると本当にそれを自分はするかもしれないと恐怖心を伴って感じるようになってきた。

 自分はいったい火をつけるためにいつ起き上がるのだろうか、と今度は少し他人事のように思い続けていると、夏の日の高山の朝は早く、窓からほのかな明るさが差し込んできた。すぐに家の中は明るくなってきて、ランプの炎が白けた雰囲気になった。

 やがて皆、目を覚まして洗面を始めた。もちろん水道設備などはなかったので、庭先に竹を割って樋にしたものから流れ出る山水で顔を洗った。その水は非常に冷たかった。他の三人は、

 「冷たくて気持ちがいい」

と言って口に含んだり、頭からかぶったりした。ところが私は、冷たいのは同じだったが、十分に顔を洗うこともできなかった。口をすすぐために口に含んでもすぐに吐き出した。冷たいのを通り越して痛かったのだ。ちょうど寒い冬の朝に冷え切った水で洗面するのと同じ感覚だった。他の友達はなぜ、こんなに痛いほど冷たい水を頭からかぶったりすることができるのか、と不思議に思った。彼らは私とは別の人類ではないのかとさえ思えた。

 私はほとんど夢遊病者のような状態で、それでも何とか無事に下山することができた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る