4月10日(水):『夢』
【京一】
『僕と付き合ってください!』
吐き出した思いの丈は、校舎裏の静かな空間にこだました。
声は震えていた。足も震えていたかもしれない。
言ってから、勢いよく頭を下げた。
心臓が脈々とのたうっていたが、反して頭は冷静になっているようでもあった。単に必死過ぎて思考が働いていないだけかもしれないが。
僕の視線は、地面を見つめた状態。
そのまま、しばしの沈黙……。
『小智くん、顔を上げて?』
頭上から柔らかな声が降り注ぐ。僕は、ハッとして顔を上げる。
『ありがとう。実は私も……小智くんのこと、好きだったの』
恥じらいのある控えめな笑顔で、宮本有紗がそう言った。
たとえ控えめでも、それは直視しがたいほどに眩しい笑顔であった。
宮本が、僕のことを?
それを期待はしていたはずなのに、いざそう言われると、まさかそんなことはあり得ない、と思って困惑してしまう。
『な、なんか照れちゃうね。……えっと、これからよろしくね?』
彼女はそう言いながら、一層恥ずかしそうにして顔を伏せた。かわいい。
照れて顔を伏せた宮本だったが、すぐにまた顔を上げる。
なんだか少しだけ緊張したような顔で、上目遣いでこちらを見ている。……何かを期待するような潤んだ瞳が僕を刺す。僕に何かを促しているのだ。
僕はそれを察し、ごくり、と喉を鳴らす。
僕はゆっくりと、彼女に歩み寄っていく。間近まで来ると、手の震えを押さえながら、彼女の肩をそっと掴んだ。
宮本が、静かに瞼を伏せる。
これはもう間違いない。アレをやる流れだ。
僕は思い切って、彼女の肩を抱き寄せるようにしながら自らも顔を重ねに行った。
柔らかく、暖かな感触が――あると思った。
虚を突かれた。――いや、というよりも僕が虚を突いたと言うべきか。
彼女に口づけしようと僕は唇を寄せに行ったわけだが、その先にあったはずの彼女の存在がなぜか刹那に消え、僕は空虚に向けて唇を突き出して行ってしまったのだ。
彼女の肩を掴んでいたはずの手も、その感触が消える。
なぜか宮本がいなくなった。
それどころか、周囲の景色さえも虚無になった。
体育館裏にいたはずなのに、すべてが消えてしまった。暗闇ではない。薄紅色のもやのようなものが僕を囲っている。
校舎の壁やフェンスや土さえも消え、どこを見回しても薄いもやだけがゆったりと漂っている空間。
一体、何が起こったのか。
ここはどこなのか。
混乱して頭が働かないうえ、さらにけたたましい音が脳内で鳴り響く。
味気のない電子音が、頭の中をぐわんぐわんと反響する。
これは一体何の音だ?
……ああ、思い出した。ケータイのアラーム音じゃないか。
僕はケータイの目覚まし音を、初期設定のまま使っているのだが、今、頭の中で鳴り響いているのはその音だ。
…………。ん? ということは、つまり……。
ハッとして、目を開けた。
朝だ。
枕元に置いていたケータイが、ぶるぶると震えながら、暴力的な音量でアラームを鳴らしている。
こうして設定した時刻に起こしてくれるのは当然便利なのだが、どうにもうるさすぎる。ケータイのアラーム音の音量調節の方法がよく分からない。
僕は寝たまま手を伸ばして、耳を聾する元凶をつかみ取ると、すぐにアラーム音を停止させた。
ふう、と、横になったまま息をつく。
要するに、さっきのは夢だったってことだ。
宮本に告白をして、OKされて、あまつさえキスまで迫る――あれがすべて夢。
いや、まあ、宮本と両想いになれるなんてそんなのはまさに現実であり得ないことで、夢だというのは納得なのだが。……しかし、ずいぶんと欲にまみれた夢を見るものだと我ながら呆れる。
はあ、と、ため息を吐きながら重い体を上げる。
カーテンのすき間から鋭い朝日が差し込み、僕の目を直撃した。寝起きの目には堪える。
なにを
全くその通り。
なにを、不埒な夢を見ているのだ、僕は。
終盤の、あの薄紅色のもやの空間は何だったのだろう。もしかしてあれが夢の世界と自意識との境界なのだろうか。それとも、僕の頭の中はピンク一色だということの暗示だろうか。
……正直なことを言えば、あそこで夢が終了してしまったのは非常に惜しい。
あのままいけば、宮本と口づけを交わせたはずだ。夢なればこそ、その感触を味わってみたかった。現実では絶対に味わえないから。
などと、そんなことを考えてしまうからあんな夢を見るのだろうが。
何とも言えない浮ついた心のまま、僕は支度を急いだ。
/
「やべえよ。俺、ほとんど寝てねえんだ。今日提出の数学の課題に朝までかかっちまって」
うなだれるような声で
「あれ、一週間前から出されてたろ。溜め込んでたお前の自業自得じゃないか」
僕は少々呆れながら、晃に言う。
とはいえ晃がちゃんと自分で解いて提出日に間に合わせたのはよくやったと思った。いつも家でゲーム漬けの彼にしては非常に珍しいことだ。
もう今日は雨雪どころか槍とか豚とか飛行石を持った女の子とか降ってくるかもしれない。
僕らは駅から学校までの道中を歩いていた。
晃とはほぼ毎日、登下校を共にしている。僕にとって凛はおさななじみであるが、――彼もまた、幼馴染と言えば幼馴染なのだ。
僕と凛は物心つく頃からの縁だが、晃とは小学校の頃から一緒である。さほど変わらない。
ただし、こいつの場合は幼馴染というより腐れ縁って感じだ。腐った縁なのだ。
「それより京一、どうだったんだよ昨日!」
「昨日?」
「とぼけんじゃねえよ、宮本のことだよ。一緒に図書委員の仕事したんだろ、それでお前、連絡先ぐらい聞けたんか?」
「そんなわけないだろ。なんにもないよ」
「は? お前、マジで言ってんのか。あの学年人気ナンバーワンの宮本と狭いカウンターの中で二人きりでいたのに、なんにもなかったって、お前本当に男かよ」
飛行する円盤でも見たかのような大袈裟な顔をして言う晃。
「……ほほう、なるほどなるほど、わかったぜ」
晃がにんまりと笑った。
「お前、実は狙ってんのは宮本じゃなくて凛なんだろ。言われてみりゃそっちの方がよっぽどフラグだしな」
「はっ? いや、なんでそうなるんだよ」
「だってお前、家が隣同士の幼馴染で、しかも高校までずっと一緒なんだぜ? これはもうむしろ使い古された黄金パターンだぜ」
僕と凛はそれ以前の物心つく頃から遊んでいたとはいえ、そんな僕らを小学校の時点から見ている彼にとって、僕と凛が特別な関係になんてなり得ないことはよくわかっている筈であるが。
「それにな、凛も意外と男子から人気あるんだぜ。ほら、クールビューティーみたいな」
「だからなんだよ」
「いやだからお前、それを踏まえてあいつと幼馴染っていうのはかなりいい立場なんだぞって話だよ」
「…………」
まったく余計なお世話である、このゲーム脳め。
教室に到着したのは授業開始前ギリギリだった。
教室内はまだ騒がしくはあれど大方の生徒が自席に座って授業に備えている。
その中で堂々と入室するのは本来であれば気まずいだろうが、僕らにとっては毎朝のことなので特に気にしない。
「小智くん、遠野くんも。おはよ」
「あ、うん。おはよう」
教室に入った僕らを見て、宮本が声をかけてくる。
「もうすぐ一時限目始まるよ、ギリギリだね。……もしかして寝坊?」
意地悪っぽい笑みでわざと咎めるように言う宮本。
朝からかわいい。
彼女の笑顔はなんというか、天然のそれだけで男の弱点にうまいことぶっ刺さるのだ。
彼女の笑顔を見て、すぐ、昨夜の夢を思い出してしまった。
僕があんな不埒な夢を見たなど、他人が知り得ようもないのだが、本人を前にすると非常に気恥ずかしくなる。同時に申し訳なくもなり、僕は彼女と目を合わせられなかった。
自分の席へ向かい、ふう、と一息ついて座る。
じとり、と横から視線を感じた。
「ギリギリじゃん」
刺さるような言葉。
「……お、おはよう」
「おそよう」
ぴしゃっ、と言い切る凛。
隣の家に住まう者同士、何の因果か、座席まで隣合わせの僕らなのである。
クールビューティー……。
確かに、凛が美人であると言われて否定はしない。
且つ、他人に向ける態度が多くの場合に冷たいものなので、したがって二つを合わせると、クールビューティー。確かに、彼女を示すのにそれが最も的確な表現だとは思う。
「ちょっと、なに? 人の顔そんなにじろじろと見て」
「えっ。いや、別に……」
「朝から気分が悪くなるからやめて欲しいんだけど」
「…………」
「ああ、ごめんごめん。冗談」
謝るも、その表情は冷たいままである。そして正面へと向き直る。本当に冗談なのか。
やはり。仮に彼女が外見的に魅力的だとしても、そういう問題じゃない。
僕が凛に想いを寄せに行くことなんてあり得ないし、さらに言えばその逆なども、天地がくるりと逆転したところで絶対にあり得ない。この朝のやり取りだけで、およそそれが確信できる。
すぐ、一限目の担当教師が教室へ入って来た。委員長である凛の号令により、礼をし、授業が開始される。
気が付けば、眠っていた。
授業開始すぐにもう意識が遮断され、気がつけば授業が終わっている。
断じて、自ら学習を放棄しようと意図しているわけではない。不可抗力なのだ。まったく、自分の睡眠欲求には脱帽である。
午前中の授業はずっとその調子が続く。
業間のたび、隣の席の学級委員長が僕に咎めるような鋭い視線を向けてきていたが、気付いていないフリをしてやり過ごした。
でもきっと、僕が気付いていないフリをしていること自体は彼女には悟られていただろう、だがさらに言えば僕は悟られていることを承知であえて気付かないフリをしている。……まあ、それさえ凜は悟っているかもしれないが。
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