一章 さくらんぼがなる頃
1-1
「幸せ」という語は「仕合せ」とも書くのだと聞いたのは、何限の話だっただろう。今日は金曜で、現代文の時の話だったから、おそらく三限か四限だ。
まあ、それはさておき。そういうわけで「仕合せ」もとい「幸せ」には、「巡り合わせ」とか「なりゆき」なんて意味もあるそうな。「果報は寝て待て」とは言うけれど、あれはただの言い訳ではないらしい。
それにしても、随分と夢のない話ではないか。どれだけ足掻こうが、結局のところ巡り合わせがなければ、幸せには出逢えないということだ。だったらさっさと諦めて、布団なりベッドなりで「寝て待」つ方が得策ではないだろうか。
そんな、それこそ夢のない話を考えながら歩くのは、三棟一階へと向かう渡り廊下だ。さっきまで歩いていた二年生の階に溢れる喧騒とは対照的に、ここは酷く静かだ。
何の気なしに窓の外に目をやる。そこに見える五月の緑は目が覚めるほど色濃く、日差しも梅雨をまたぐとは言え、初夏のそれと随分似てきたように思う。そろそろ肩ほどの長さの髪が鬱陶しくなる時期かもしれない。前髪もかなり伸びてきた。ただでさえ同学年の女子より長いのだから、切った方がいいだろう。
極めて平々凡々、普通の一言に尽きる高校二年生だ。特筆すべき過去は特にない。
しかし、だ。
そんな私にも一つ、秘密がある。
放課後、部活にも委員会にも属していない私がこんな学校のはずれとも言える三棟に向かっているのは、その秘密故である。
リノリウムの廊下の先、クリーム色のドアが見えてきた。上に見える黄ばんだプレートには『図書室』の文字。
そっと足を踏み入れると、床の木が軋む音がした。図書室の中には誰もいない。まあ、いつもことだ。
ブラインド越しに形作られる縞模様の陽光に細かい埃が揺られる様は異界のように感じられる。ここだけ切り離されたかのようにも。そこをゆっくりと歩く。全ての時が止まったかのように静かだった。
そして、貸し出しカウンターの横にひっそりと佇む扉の前に立った。ドアノブを握り、ゆっくりと回し——
と、ドアがすごい勢いで急に開いた。
「うわっ」
そこには一人の少年がいた。さらさらの焦茶の髪、意志の強そうな太めの眉、少し幼く見える瞳。紛うことなき美少年だ。しかし随分慌てた様子で、息は荒い。
状況を理解する前に肩を掴まれた。
そして、
「依頼だ!」
「は?」
出し抜けのその言葉の意味を測り損ねて、間抜けに口を開ける。すると目の前の少年は焦ったように肩を掴む手に力を入れると、さらにまくし立てた。
「依頼が来たんだ!」
「あー……」
「しかも古谷、お前にだ‼︎」
「えっ」
私に? しかもご指名? 何で?
私の呆然とした顔が目に入らないのか、少年は興奮した面持ちで続ける。
「続きは地下書庫でするから、ほら、早く行った行った!」
少年は私の後ろに回り込むと、背中を押し始める。しょうがないので、私は背を押されるまま地下書庫に向かう階段を下った。
もったいぶった言い方をしたけれど、私の秘密とはこれのことだ。もっと詳しく言うと、ここ、県立
その名も秘密結社《マグノリア》。
まあ、秘密結社と言っても、実態は、高校生がお遊びがてらやっている、文学を広めるためのボランティアのようなものだろう。一応進学校という位置付けの御原高はアルバイト禁止なので、金銭的対価はもらっていないはず。四月に加入してから一度も活動しているところを見たことがないので、私の推測でしかないが。
名前の由来は知らない。何かの造語だろうか。
そして、長を務めるのは、今私の背を押しているこの少年——
メンバーは私を含め四人。しかし全員が集まっているのはあまり見ない。というか、見たことがない。基本的には私と真宮しかいない。
別に私だって、溢れ出る意欲によって来ているわけではない。私は真宮に「来い」と言われたから顔を出しているだけだ。それなのに依頼がないのだから、最近は来てすぐ帰るか、週末課題に明け暮れる毎日だ。
しかし、今日はどうやら違うようだ。
背を押されるまま階段を降りきると、いつもの光景が広がっていた。昼間でも薄暗い不気味な空間の奥を埋め尽くす本棚。その手前の狭いスペースには黒っぽい粗末な長机と四脚のパイプ椅子。ちなみに四脚全部がたがただ。
私が奥の席に腰を落ち着けると、真宮も待ちきれない様子で向かいの席に座った。
「ちょうど探しに行こうと思ってたんだ。古谷、依頼が来たぞ!」
「いや、それはもう分かった」
何回同じことを言うんだ、こいつは。
「じゃあ、今から概要説明するから、ちゃんと聞けよ」
「……はあ」
真宮はリュックから黒い革の手帳を出すと、さっきまでとは打って変わって淡々と喋り始めた。
「依頼主は駅ビル二階の大型書店・
「友達」
社会人の友達。どういうことだ。
「で、依頼内容は文学コーナーに立って本を見るだけ。それで『ああ、自分もあの子のように文学に没頭したい』と思わせるのが今回の任務だ」
「思うかなあ」
絶対思わない。
「期間は来週の日曜から土曜」
「え」
結構長いな。
「注意点は、店を挙げての依頼じゃないから、あまり目立つ行動は避けることと、依頼主の店員の時間をあまりとらせないこと。あと、これはあくまで秘密結社の任務だから、絶対他言無用で」
そして嬉しそうに叫んだ。
「よっしゃ、初任務だぞ!」
対照的にため息しか出ない。加入したての頃は、学年で有名な美少年とあって、毎日緊張しっぱなしだったというのに、いまやこの有様だ。
それにしても、一ヶ月経ってやっと初任務とは、どうやらこの結社の閑古鳥はよほど声高に鳴いているらしい。
とか何とか考えていたら、真宮は不意にパイプ椅子に座ったままこちらを直視すると、
「ところで、古谷。文学少女と言われるとどんな恰好を想像する?」
「え? ……えーと、三つ編みに眼鏡……とか?」
「と言うわけで、古谷には文学少女の恰好をして欲しい」
一秒、二秒、三秒……
「はあっ⁉︎」
あまりの衝撃に返事に時間がかかってしまった。文学少女の恰好? 要は仮装をしろと? 私は猛然と言い返す。
「いや、何で何で何で? 真宮が文学少年の恰好すればいいじゃん! 何で私なの。そうだよ、私じゃなくてもいいじゃん」
「先方が文学少女がいいって言うんだから、しょうがないだろ。《マグノリア》に女子が入りましたって言ったら、大喜びで頼んで来たんだから。それに俺じゃ、本読みそうに見えないだろ」
そんな得意気に言うことか。まあ、確かに真宮はどちらかと言えば、体育会系の容姿だ。そして実際、運動神経はいいらしい。
「伊達眼鏡はこっちで用意するから。な、頼む」
「えー……」
と、その時。ぎしっと階段が軋む音がした。二人して顔を上げる。
「おー、
「ああ、
「どうも」
そこには《マグノリア》のメンバーの一人である上村君が立っていた。短い黒髪と涼しげな目つきの美少年で、高一らしくない落ち着きとメタルフレームの眼鏡が多少のとっつきにくさを覚えるけれど、悪い子ではない……多分。なんせ集合率が低すぎてまだ三回ぐらいしか喋ったことがないのだ。
因みに私は自分を除くメンバー三人のうち、あと一人とはまだ会っていない。通称『図書室の疫病神』らしいから、会いたくもないが。
上村君は背中に黒のリュックを背負い、片手に緑茶のペットボトル、もう片手に藤色の扇子を持って近づいて来る。
「何かあったんですか」
「聡太、依頼だぞ」
「そうですか。良かったですね」
どう見ても一年生の方が精神年齢が高いように見える。哀しい二年生だ。
「まあ、とりあえず。今から顔合わせに行くぞ、古谷」
「今から⁉︎」
そのまま腕を掴まれ、引っ張り上げられる。
「ほら、早くしろ。あっ、聡太。まだここにいるなら、椅子の片付けよろしく」
「はい」
「ちょっと、ちょっと待って!」
「古谷、早く!」
私は引きずられるようにして、地下書庫を後にした。
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