棄てられた人生
古新野 ま~ち
棄てられた人生
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飯島和也は、自分の遺書のデータが文字化けしたことに気が付いたとき、駅のホームの点字ブロックの上にいた。表示が狂った理由など心当たりがない。そもそも見当をつける知識もない。
思い返せばこんな事ばかりであったと飯島は振り返る。うまくいかない。そんな凡庸な悩みが積もり、いつしか自分の人生を死なないから生きている程度のものだと見なし始めた。飲み干したペットボトルをゴミ箱まで持っておくようなものだ。それを延々と続けるのは、ゴールのないマラソンを走らされているような心労であり、既に5年は感じている。
飯島は頬をおさえた。親しらずの周囲が腐りだしたかのように、また、痛みだした。痛む間、彼は思考を強制的に中断させられる。時に、自ら痛め付けることもある。
痛みが止むと、またうっくつとした感情が半紙におとした墨汁が広がるようなので、痛んでいる方がいい。そのため、間隔が日をおうごとに狭くなることが彼にとって好都合ではあった。しかしこの瞬間においては屈辱の涙を流しそうになった。
昨晩、奇妙な胸騒ぎとともに書き上げた遺書の内容は、これもまた平凡な内容でしかなく、生きることが苦しくなった、と一言で纏められる内容ではあるが、1万字は書いたはずである。論理的な構成をせずにしたためたため、他者が読むに値しないものである。だが取るに足らぬとはいえ自分の人生に終止符をうつ内容を、自分の力量を越えて表現したつもりであった。
それが、消えてしまった。神的な采配かのごとく彼の万感の思いはあっさりと棄てられた。
タブレットを再起動しメモ帳を開くが、やはり文字化けは修正されていなかった。
故障かなと思ったら、という呑気な文章のQ&Aを一つ一つ調べる気にはならず、かといってせっかく書いた遺書の方が先にこの世から旅立つという事態を想定しておらず、出勤や通学の人並みのなかで茫然とした。
スーツ姿の老人が彼の背中を傘で叩いて行ったり、運動部のやたら大きなエナメルバッグが肘に当たり、キャリーバッグや手押し車の人からは邪魔だと言わん視線を浴びた。
耐えきれず、ホームから立ち去ろうとするも流入する人々に阻まれた。どうやら振替輸送の乗客らしい。自殺、だろうかと飯島は考えた。そして習慣のように、空気を読めと死者を罵った。自分がほんの数秒前に飛び込もうとしている電車がやってきた。
――
洗面台で吐いた。
吐いていると、心臓が病的なまでに鼓動する。濡れた顔面を見つめると、鴉のように眼の周囲が黒ずんでいる。不眠が続いていたためであった。
また遺書を書き直すか、もはや遺書などをしたためず速やかに死ぬべきか。治療しないまま放置している奥歯の鈍い痛みと熱を感じた。
人間一人が死ぬことがいかに難しいか、ここ数ヵ月は思い知らされていた。高所から飛び降りる、泥酔して河や海に飛び込む、首を吊る。どれも試せず、まだ死ぬべきときではないときだと言い訳してきた。おめおめ今日まで生きた。
昨晩の妖しい胸騒ぎは、実をいえば心地よかった。遺書を記す時間がずっと続けばよいとすら思えた。
生きる努力や死ぬ覚悟、それらでは感覚できない精神状態だった。強いて言えば、飯島和也とは別のものが自分を満たしていた。憑依、といえるだろう。だが、自分が何に憑依されていたか検討はつかない。あるいは、あれが自分の本性、魂だったのかもしれない。
――
ホームには赤ん坊を連れた夫婦や売店の店員や老人たちと、すっかり朝と様変わりして疎らであった。
飯島は線路を見下ろす。敷石やコンクリートの枕木の数字をぼんやりと見つめ、家に帰る前にもう一度飛び込めるかを思案した。今日は無理だった。
赤ん坊の泣き声が耳をつく。歯車が軋むのに似た声だ。
昔、母が言った。自分はあまり泣かない子供だったと。周囲の子達と比べても異様なほど静かで手のかからない子だったと。逆に感情が読めず困ったと。今となっては嘘だと思える。生きていたくない、一言で説明できる感情しか抱えていない。そんな自分に対して、あの赤ん坊は、感情が……。また歯が痛み始める。思考が消える。
夫婦は困ったように顔を見合わせている。飯島は早く泣き止ましてほしいと願う。顎が砕けるように痛む。駅員がアナウンスをする。その声に驚いたらしく、赤ん坊がさらに泣き声をあらげる。
電車がホームにやってきた。そこに、男は抱えていた赤ん坊を放り投げた。赤ん坊は砕け散った。
夫婦は清清したようにホームを立ち去る。飯島は彼らを咎めることすらできず、ただ呆然と、赤ん坊の魂が消えてしまうことへの悲哀が胸を締め付けた。
棄てられた人生 古新野 ま~ち @obakabanashi
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