第12話 国鉄を描いた漫画のレビューより 昭和の世相

 以下ご紹介するのは、以前私が本人名義で執筆していた、漫画

 「カレチ(国鉄の乗客専務車掌の意味)5」 池田邦彦作

 のレビューの原稿です(現在は非公開)。

 プロ野球とは一見関係なさそうですが、私がプロ野球関連本を読み始めた頃の世相を、別の形で知っていただくために、こちらで掲載します。

 まさに、この手の世界とは真逆の世界が、当時のプロ野球の世界だと申し上げてもいいでしょう。


書名(著者名及び出版社) カレチ5 池田邦彦 作 講談社

レビュータイトル 仕事、人生、そして人とのつながりとは・・・


「先輩後輩の公私にわたるつながりと、その中で誰もが成長していける職場」


荻野氏は、そんな「職場」を守りたいという思いを胸に秘め、業務に邁進した。

乗客には「情的」な対応をしてきた彼だが、職場の者にはむしろ、「情緒的」な対応が際立っていた。その「情緒」は、本当に人を幸せに導けるものだったのだろうか?

ただ言えるのは、国鉄分割民営化とともに退職し、平成の今を生きる(第4巻参照)彼より、「殉職」した車掌長の安斎氏のほうが、ある意味幸せかもしれないということだ。


東広島駅から東京の武蔵野操車場に「広域異動」する林田氏を事あるごとに「心配」し、「アドバイス」をしてきた(しかし迷惑がられていた)東広島駅の助役。

組合員の立場で正面を切って林田氏に抗議するも、それが通じないと思いきや、自分を見捨てないでと泣きつくようなことを言うも、林田氏にぴしゃり拒絶された組合青年。


助役と組合青年はそれこそ、「当局」と「組合」という言葉がぴったりの関係である。

国鉄内では対立者の代名詞というべき立場の、それも末端の構成員同士である。

しかし、立場や年齢、世代の違いを超えて、彼らもまた、「情緒的」な職場観の持ち主であった。どちらにとっても林田氏は、「同じ釜の飯を食っている『仲間』」だった。

そんな彼らの「想い(情緒)」はしかし、林田氏には何ら訴えることがなかった。


組合青年の発する「仲間」という言葉に対し、林田氏は、「心底虫唾が走る」とまで述べた(これが本作の林田氏の人前に出した、唯一のしかし強烈な、本人の「主観」を示した言葉である)。

そんな彼の仕事観を例えで言うなら、「カーブの打ち方教えてください」という若手プロ野球選手に、「金持って来いよ」とすごむ同チームの先輩のような仕事観とほぼ同一である。

そして実際、退職後訪れてきた荻野氏に対してさえ、そんな趣旨の発言を行った。

彼はトラック運転手に転職したが、それとて彼には「一生の仕事」というわけでもなかろう。


堀之内氏は、国鉄を退職し、自営業者として生きている。合理化の一環からなる国鉄職員の「職務」として、喫茶店で仕事をしているわけではない(本巻でもついに、北陸のベテラン保線区員が、駅ホームのうどん屋に配転されたケースが登場した)。恋愛に絡めて描かれたが、彼のようないわゆる「脱サラ」をする者は、年齢や学歴などを問わず、いつの時代のどの職場にもいる(私の知人で元国鉄職員に限っても、各地に何人もいる)。

宮地氏は、組織のポジションを得ることで、時代の変化に合わせ、旧態依然としたものを変えるべく努力を続けることを決意し(大阪鉄道管理局に彼が勤めている光景が本巻で出たが、当時の国鉄の管理局の雰囲気がわずか1コマで、ものの見事に表されている)、ついには大手鉄道会社の経営者に上り詰めた。

最終回の最後、大先輩である故安斎氏を、「弱い人だった」と、荻野氏の前で総括した栗原氏は、JR某社「社員」となり、従来通り車掌(カレチ)を続けていくことになった。


故安斎氏、林田氏、堀之内氏、宮地氏、そして栗原氏・・・。荻野氏の想う「職場」にいた人たちはそれぞれ、この世から、鉄道業から、国鉄から、相次いで消え去っていった。


社会が豊かになっていくなか、人との触れ合いにあふれ、時におせっかいをかけ合いながらも助け合って生きていけた、幸せな「昭和(ただしここでは、戦後の高度経済成長期以降を言う)」の時代が過ぎ去って四半世紀。そんな「昭和」への「懐古」が、老若男女を問わず一種のブームになっている(本作品もその中で生まれた作品であるが)。


しかし、当時の「弱者」に対する目は、個人間ではともかく、社会システム上は、荻野氏の言う「今の社会」以上に冷たく厳しいものがあった。荻野氏の言う「弱さ」が認められていたのは、「国鉄」という恵まれた場所の構成員同士間だからこそのものである。

本作で登場した国鉄職員は誰しも、真の意味での「弱者」ではなかった。おおむね五体満足の体で、国鉄という安定した企業体に勤め、家族ともども、それなりの生活が保障され、その気になれば定年まで勤め、幸せにその生涯を終えようと思えば可能であった。


そんな中、構成員もさほど変わらず、「同じ釜の飯を食う『仲間』」と日々仕事をしつつ暮らしていけて、それに満足していた人たちにとって、先輩が後輩にかれこれ世話をし、自分が先輩になったら、また、後輩に同じように世話をすることは、安斎氏や東広島の助役氏らの言うとおり、確かに普通のことだった(個々のアドバイスを受け入れるかどうかはもちろん別の話だが)。

安斎氏や荻野氏、そして東広島の助役氏や組合青年らのような、当時の空気に順応し、それを受け入れていた人たちにとっては、「今の時代」は、世知辛いものに違いない。


もっとも、そのような空気を一切拒絶・排除した林田氏や、それを認めつつも、そこに安住しなかった堀之内氏や宮地氏、そして栗原氏のような人たちは、「今の時代」、無駄な逡巡(しゅんじゅん)などすることもなく、堂々と、あるいはそつなく、生きていける。


そんな彼らに、「同じ釜の飯〜」のような情緒論など、もはや何の用事もないのだろう。


宮地氏の秘書の女性は、荻野氏と旧交を温め、彼の利用者としての要望を聞いた後の車中での宮地氏の回答に、図らずも「対外的な発言」という言葉を発した。彼女(=第三者)の目には、本題の要望内容以前の問題で、両者のやり取りすべてにわたり、「同じ釜の飯を食った『仲間』」などと評するべき「郷愁」など、どこにも見いだせなかったに違いない。


本作品は回が進むにつれ、乗客とのエピソードが減り、国鉄職員と関係者同士の話で占められた。これ自体がある意味、「乗客不在」の国鉄を象徴しているともとれる。

乗客エピソードと引換えにか、本巻終盤になってようやく、労働組合が登場した。その構成員らの姿を通して、組織というものの強さと弱さ、そして限界が端的に描かれた。


それでも本作品は、昭和中・後期の国鉄のとある職場とその周辺の人間像を通して、仕事、人生、そして人とのつながりを、読者に改めて問いかけ、奥深く考えさえてくれた。

そしてこれからも、単行本を通じて、読者らに、いつまでも問いかけ続けていくであろう。


作者の池田氏には、今後も本作品のような味のある作品を期待したい。


追記1:現在の荻野氏には息子もしくは娘婿(サンダーバード号と思しきJR特急列車の車掌を務めているのがそうか)や孫(宮路氏に会う前、小学生程度の女の子を送迎していた)がいるようである。しかし、荻野憲二氏と詩織夫人の家庭がいまに至るまでいかに円満に続いていたとしても(その後離婚したのだろうという推測をする意見もあるが、私はそうは思わない)、社会の表舞台での顔はまた別物である。もちろん、社会の表舞台がいかに順風満帆であっても、家庭が円満かどうかもまた、別である。

このエピソードも含め、レビュー構成の都合上、第4巻をいささか引用した。

本巻最終回を読まれた後、同巻中の現代の荻野氏登場回を続けて読まれるとよかろう。


追記2:私が小学生だった1979年頃、EF66がブルートレイン「富士」を、戦前の展望車のテールマークのようなヘッドマークをつけてけん引している絵を描いた。

それは、10年と経たぬ間に実現してしまった。

小学生が鉄道の歴史を少しかじって、それをもとに描いた夢が実現した時、ブルートレインは、斜陽化の一途をたどり始めていた。


そしてその絵の光景が、ブルートレインの幕引きになるとは、夢にも思いませんでした。


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