第5話

 無神論者を標榜していた当時の僕だったけれど、その時ばかりは「巡り合わせ」だとか「因果」だとか、そうしたスピリチュアルな力の働きを意識せざるをえなかった。


 十年前と同じこの場所に立って、僕は再び、青い巨鳥を見上げていた。……蒼穹と茜のコントラストをかき乱さんとする姿は、まさしくあの日見た「空の舞踏会」のそのままだった。ただしその「会場」にはたった一羽の姿しか見当たらず、他との協調を前提としていない挙動は、あまりに無秩序で荒々しく、猛々しい。


 急上昇に急降下、急加速に急減速、そして急旋回。幼い子供が模型飛行機を手に持って遊んでいるかのような、あまりに現実離れした動作を繰り返していた一羽は、ふと我に返った様子で向こうの発着場へと向かっていく。

 先程までの無茶な挙動が嘘みたいに、慎重に滑走路へと着陸した青い巨鳥を眺めながら、僕は呟いた。


「あれは……」


「F-2A支援戦闘機」


 矢庭に発せられたその声に、僕は背後を振り向く。そこには、こちらと同じ詰め襟に黒縁眼鏡といった出で立ちの、もやしのような体格をした青年の姿があった。


「素体となったF-16戦闘機の、軽量・高機動という特徴をそのままに、島国たる日本の環境に適した様々な改良が施された傑作。君も先程から気になっていたことだろう、濃淡二色の青で構成されたあの特徴的なカラーリングは、洋上での視認性を限りなく低下させる効果を持つ。これは、世界のどこを見ても類のない迷彩パターンで……」


 やたらと大仰でハイテンポな調子の解説に気圧されていると、彼は突如として、ぶんぶんと首を横に振る。


「と、そんな初歩的事実は、今日のおめでたい日にあってそれほど重要じゃない。事の発端は五年前に遡る––––築守高の諸先輩方が、この駐屯地の整備ドッグで湿気っている『彼女』を見つけたんだ」


「彼女」––––つまりは、あの青い戦闘機のことを言っているのだろうか。古い映画なんかで、軍人たちが兵器を擬人化して「彼女」と呼んでいたのを見たことがあるが、それを現実世界の会話で耳にするのはこれが初めてだった。


「長らく手付かずであちこち故障していた彼女を、先輩方と俺たちの手で、どうにか飛行できる形にまで持っていった。そして今日この日、ついにああやって、我らが築守高校FA部の初飛行がなされたって訳だ。……こんな歴史的瞬間に立ち会うことができるとは、まったくラッキーな男だよ、君は」


「自己紹介が遅れたね」と、間髪おかずにもやし男は続ける。


「茉本亮平。現在三年生で、FA部の部長を務めさせて貰ってる。君は?」


 FA——ファイター・アクロバット。≪連邦≫の樹立によって無用の長物と化し、武装解除された戦闘機を用いてのアクロバット競技であった。


 こんな片田舎の高校に、FA部なんて大それたものが存在していたとは——驚きを隠せないまま、絞り出すようにして返答する。


「……岩倉、裕人です。二年生です」


「ヒロト、か。いい名前だ、よろしく」


「よろしくお願いします」と、差し出された彼の右手を、両手で握り返した。


「……それじゃあ。洋上迷彩を見に纏ったじゃじゃ馬娘と、その搭乗員パイロットのお目にかかりに行こう。その道中で、我らがFA部の紹介をさせてくれ」


 大袈裟な予備動作で踵を返し、スラックスのポケットに両手を突っ込んで、茉本は歩き出す。その頼もしいようでやはり頼りない背中を追いながら、僕は自分自身、気持ちがはやるのを感じていた。



 ミュージカルがかった茉本の発言の、要点だけを掻い摘んで言えば、現在FA部の部員は彼含め四人。その他に部のOBたちも時折活動に参加していて、自衛隊が撤退して廃墟と化した駐屯地のレンタル代など諸経費に関しては、彼らからのカンパで賄っているのだという。


「さて、我がクレイジーで愛しきクルーメンバーたちを紹介しよう」


 青い巨鳥––––F-2Aの機体が納められた格納庫に足を踏み入れながら、茉本はそう前置いた。


「武内康太、彼女の整備を担当するメカニック」一旦言葉を切った彼は、声を落として続ける。


「何かと口うるさく思うだろうが、陰口は言わない方がいい。すぐに勘づかれるからね、何しろあれは地獄耳だ」


「至らんことを吹き込まんでください、部長」工具を手に持って機体をあちこち調べていた、ツナギ姿の小太りの男が、顔だけを茉本に向けてそう言った。

 これほど離れた場所からの囁き声を聴き取るとはら、成る程、確かに常人離れした聴力だ——僕は感心する。


「……で、そこの彼は?」


 ひとつため息をついた武内が、こちらに向かって顎をしゃくってみせる。


「ああ、新入部員さ」平然と言い放つ茉本に対し、僕は慌てて弁解する。


「待って下さいよ。僕は見学に来ただけで、入部するつもりなんて……」


「そりゃあ良かった」


 武内はそう言って、脂ぎった顔に陰気な笑みを浮かべてみせた。


「これ以上役立たずが増えたところで、こちらの手がいたずらに煩うだけですからね」


「今、なんて……」


 あまりに意地の悪いその言い草が腹立たしく、すかさず言葉を返そうとすると、何処から発せられた別の声に遮られた。


「あんまりですよぉ、先輩」


 声の方へ振り向くとそこには、一眼レフのカメラを首にかけた、小柄な青年の姿があった。


「部の宣伝サイトの作成、それに掲載する写真の撮影まで一手に引き受けるこの僕のこと、まさか役立たずだなんて」


「何言ってんだ」武内は鼻を鳴らす。


「お前が作ったあのサイトの閲覧総数、二桁と行ってないくせに」


「だからって、役立たず呼ばわりはないでしょうよ!だいたい先輩は、いっつも自分の欠点や失態は棚に上げて……」


 武内と小柄の青年が言い争っているのを尻目に、茉本が口を開く。


「彼は我が部のマネジャー兼宣伝担当、楳井祐樹。この部において君の唯一の後輩にあたる、可愛がってやってくれ」


「だから僕は、入部するだなんてひと言も……」


 ため息混じりのその言葉は、直後に発せられた、気怠げな声によって中断される。


「……うるさいなあ」


 突如として、F-2Aの操縦席を覆っていた風防が開き、ひとつの人影が現れる。


 パイロットスーツに覆われたスレンダーな身体に、短く切り揃えられた黒髪や、理知的に整った顔立ちからは、中性的な印象を受ける。しかし、機首側面の梯子を降りていくその仕草の柔らかさは、明らかに女性特有のそれであった。


「勝手に言い争うのは結構だけれど」


 コンクリートの上に降り立った「彼女」は、互いに口角泡を飛ばし合っていた武内と楳井に向けて、冷たく言い放つ。


「もう少し、静かな声でしてもらえないかしら。あなた達の声、コックピットの中まで響いて、どうにも耳障りだから」


 先程までの威勢の良さは何処へやら、バツの悪いような顔をして、武内は押し黙る。一方の楳井はケロリとしたもので、一眼レフを構え、「彼女」の一挙手一投足にシャッターを切り始めた。


「あの人って……」


 僕が尋ねると、茉本はその顔に苦笑を浮かべて、答える。


「若月ケイ——この部で唯一のパイロットだ。腕は確かなんだが、見ての通り、少しばかり性格がきつくてな」


 若月と呼ばれたその少女の、そよ風になびく花のようにしなやかな所作を眺めていると、不意にこちらを振り向いた彼女と目が合う。

 炯々とした光を放つその青い瞳に、心の奥の方にあるものを見透かされたようで、きまりが悪くて僕は目を逸らした。



 ––––忘れやしない、二◯四九年五月十四日。そうして僕は、彼女と出会った。




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