第4話

 それから十年が経った、ある日のこと。僕は、桜散る夕暮れ時の河原に寝そべって、立ち上りゆく紫煙を、ただ呆然と眺めていた。


 口に咥えたシガレットの、香ばしさとはまた異なる、喉元に絡みつくような粘っこい香味。むせ返りそうになるのを堪えながら、それを肺いっぱいに吸い込んで、茜色の空へと向かって吐き出す。


 分からないな。僕はひとり、呟いた。なぜ父は、これほど不味くて身体にも悪いものを、好んでまで吸っていたのだろうか––––。


 きょうび、煙草は貴重品だった。≪連邦≫が掲げた「博愛による平和パクス・ヒューマニタス」政策によって、世界から貧困が駆逐された結果、途上国でのプランテーションに依存していた煙草産業は崩壊したのである。

 そんなご時世で、ただでさえ喫煙を禁止された未成年の僕が、どうして煙草を手にしているのか––––今朝、父の遺品であるフライト・ジャケットのポケットに、吸いかけのパッケージが入っているのを見つけたのだ。もの珍しく思って、こうして一本ばかり、試しに吸ってみたのはいいものの、その余りの不味さに辟易としているところだった。


 ひとつため息をついて、まだ長いままのシガレットを、桜流しの川面へと投げ捨てる。

 吸って吐いてを何度か繰り返していれば、高校生の僕だって美味さが理解できると思っていたのだが。どうやら僕の心は、大人たちの嗜好を解するにはまだ幼すぎるらしい。


 再び、芝生の上に横となって、茜色に染まりつつある空を見上げる。この辺りは––––詰め襟姿が煙草を吸っていたって何も言われないほどに––––人通りが少なく、当時の僕にとってすれば、母の死に顔を思い出させる自宅なんかより、よっぽど心休まる場所だった。何よりこうやって、意味もなくただ空を見上げているのが、窮屈な日々の中で最も落ち着く時間だったのだ。


 ふと、視界の端から徐に現れた、白く煌めく影の存在に気づく。

 四枚の羽根を広げてゆったりと飛行するそれは、一見すれば、トンボのようなシルエットをしていたが。微かに聴こえる甲高い駆動音は、明らかに有機物のそれではない。


 UAB-29"ドラゴンフライ"––––先の戦争において≪連邦≫が投入した、無人爆撃機の同型。ただしそのはらわたには、爆弾の代わりに放射能除去装置が納められていて、敗戦色濃厚で自棄やけになった合衆国が核兵器を乱射した、その尻拭いに勤しんでいるだった。


 父の仇が、すぐ頭上を悠々と飛んでいるというのに。地上にいる僕は、何一つとして仕返してやれない。

 それどころか、奴らの働きなしでは、僕たちは今や、健康で文化的な最低限度の生活を営むことすらままならないのだ。腹立たしい––––≪連邦≫が、なにより自分自身が。


「……クソったれ」


 芝生のベッドから立ち上がり、辺りに転がっていた石ころを手に取ると、白トンボへと思い切り投げつける。

 しかし、高度数千メートルを飛行する爆撃機崩れまで届くはずもなく。石ころは山なりを描き、川に落ちて「トポン」と間抜けな音を立てるばかりであった。


 不意な脱力感に襲われて、僕はその場にへたり込む。一体何を、これほどまでに苛立っているのだろう––––。

 両親の仇連邦がでかい顔をするのを、こうしてただ見上げることしかできないというのは、決して今に始まったことではないじゃないか。自分で自分の青臭さを冷笑しながら、くそ忌々しいシルエットが段々と小さくなり、やがて夕日の中に消えてゆくのを見送る。


 その耳障りな羽音が、そよ風の中に消え入ってから、暫くした頃。僕は何処いずこかに、懐かしい音色が響くのを聴いた。


 白トンボの駆動音を、キーボードピアノの軽率な電子音に喩えるなら––––それはまるで、パイプオルガンの荘厳な調べ。腹の底から鋭く突き上げるようなこの轟音を、僕は、以前にも聴いたことがあった。


 そう。僕は、この音色を知っている。忘れられる筈がない––––蒼穹を舞う五羽の巨鳥、白煙に切り裂かれた空の欠片。あの日あの場所で見たもの、聴いたものの全てを。


 制服に張り付いた桜の花びらも払い落とさぬまま、傍らに横倒ししていた自転車を起こす。そして僕は、轟音が発せられている方向へと向かって、力一杯にペダルをこぎ出した。

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