第3話

 父は寡黙な人だった。


 彼は普段、家庭にその姿を現わすことは滅多になくて、休日も––––当時の社会情勢を鑑みれば仕方のないことだが––––数週間に一度と少ないもの。しかもその僅かな休みの中でも、家族を連れてどこかに出かけようとはしなくて、書斎に篭ってひとりで本を読んでいるような、孤独主義のひとだった。


 当時やんちゃ盛りの歳だった僕はと言えば、遊び相手になってくれない父のことが嫌いだった。嫌いと言えば言い過ぎかも知れないけれど、兎も角、好きではなかった。……そんな僕の様子を見かねてか、母はあるとき、父の職場の開放日に僕を連れ出した。

 

 町外れの広大な土地を活用した施設には、祭りらしくポップな装飾や子供の喜ぶキャラクター・バルーンが配置されている一方で、辺りには迷彩服に身を包んだ厳めしい男たちの姿があって、幼いながらに異様な雰囲気を感じ取っていた。


 その一角、かまぼこ型の巨大な建物が立ち並ぶ開けた場所に、一様に空を眺めている群衆があった。僕は母に手を引かれるまま、人だかりの中を抜け、立ち入り規制のロープが張られた前に出る。


「ママ、何が始まるの?」


「パパの晴れ舞台よ」


「晴れ舞台」もなにも……父さんが一体、どこにいるって言うんだ。ひとり不思議に思っていると、何かに気づいた様子で上を見上げ、母さんは呟いた。


「……ほら、来たわ」


 腹の底から突き上げるような轟音が迫り来るのを感じて、僕は片手で庇を作りながら、眩いばかりの青空の彼方へ視線をやる。


 面の大きな翼が二枚生えた、しかし鳥が飛ぶのにしては、随分とスピードの速い何か。それら五羽がブーメラン形に並んで、その尾から白煙を噴出しながら、こちらへと向かって飛来していた。

 曲線と直線が複雑に入り混じるその身体の、青と紺色のまだら模様。そして何より、「それら」が生き物ではなくて人工物であることが判別できるほどの距離に近づいた時、左右の二羽ずつが散開する。いっぽう中央の一羽は急上昇し、そのまま縦に大きく一回転して、僕たち観衆の後方へと飛び去る。


 間もなくして、背後から戻ってきた二羽がそれぞれ円を描き、そして互いにニヤミスするようにすれ違いながら、再び視界の外へと消える。そうして白煙で描かれたメビウスの輪の内側を、どこからともなく現れたもう一羽が、縫うようにしてくぐっていく––––。


 次から次へとアクロバットを繰り出すその姿は、まるで天使だか妖精だかが、空中でフラメンコでも踊っているみたいで。照りつける日差しの暑さも、母の言葉への疑問も忘れて、僕はただ呆然と、白煙に切り裂かれた空を見上げていた。


 舞踏会も終盤に差し掛かっているようで、それまで散り散りになっていた四羽が円陣を組み、地面と垂直の角度を取って上昇を始める。

 そしてその中を、ひときわ速度の速い一羽が錐揉みしながら飛翔していって、ついにそれらは彼方へと消え去ってしまう。天へと向かってそびえる白煙の柱たちは、蒼穹の中でゆっくりとほどけ、そして溶けていった。


「ママ、何あれ?!」


 興奮冷めやまぬまま、僕はそう尋ねる。すると母は、周囲の歓声に負けぬよう、或いは声高らかに名乗りをあげるように、声を張り上げた。


「あの中にはね、パパが乗っているの。『ジエイタイ』の……パパの仕事はね、いざというときにはあれに乗り込んで、この国を守ることなのよ」


 もう少し大きくなってから知った、いくつかの事実。

 ひとつ。「自衛隊ジエイタイ」とは、かつて存在した日本という国の、国防を担う組織の名前だったこと。

 ふたつ。あの日、僕たちの前でアクロバットを披露した青い巨鳥たちは、戦闘機と呼ばれる、兵器の一種であること。

 みっつ——僕の父は、そんな戦闘機から構成された飛行小隊の長を務める、自衛官だったということ。


 無論そのような難しい事情は、当時六歳の僕には、知る由もないことだったけれど。あの空中フラメンコの主役が父であったことを知れば、それ以外に、彼を敬慕するための理由は要らなかった。

 これからはもっと、父さんと仲良くしよう。自分から、彼のことを知ろうとする努力をしよう。次会った時には、あの青い巨鳥のことについて、詳しく教えてもらおう––––そう思った、矢先だった。


 彼は、母の言葉どおり。ついに訪れた「いざというとき」に際して戦闘機へと乗り込み、そして日本という国を守る為、その職務に殉じて死んだ。



 ここで少しばかり、歴史のお勉強といこう。高校時代の教科書に拠れば––––。



"≪連邦≫加盟圏におけるテロリズムの扇動が発覚した合衆国と、その同盟各国に対し、2039年7月20日、連邦平和維持軍(UPKF)は武力による強行査察を開始した。『名誉戦争』の開戦である。"



 既にユーラシア、アフリカ、オセアニアの三大陸を版図に収めていた≪連邦≫が、次にその食指を伸ばしたのが、北アメリカにかつて存在した巨大権力、「合衆国」だった。そしてその同盟国たる日本は、ユーラシアと北アメリカの狭間に位置するという地理的特色から、≪連邦≫と合衆国が繰り広げるグレート・ゲームの矢面に立たされた訳だ。


 完全無人化を果たし、高度に統率された≪連邦≫の侵攻部隊を前に、自衛隊は二週間と持たずして壊滅。父さんもまた、駐屯地を空爆しにやってきた爆撃機を迎撃するため、青い巨鳥と共に空へと上がり、そして堕とされたのだった。



 二ヶ月が経って戦争が終わり、父がその命を賭してまで守ろうとした「くに」がなくなっても、僕たちの生活はと言えば、これといって変化しなかった。

 シンプルに纏められたリビングの中で明らかにミスマッチな仏壇や、日に日に消耗し、やつれていく母の様子など、各家庭毎のミクロな変化ならば多少なりともあったろう。しかし、マクロな視点––––例えば街並みとか、テレビ画面を流れる低俗なゴシップの数々や、小学校の同級生たちを賑やかすお喋りの話題なんかは、世界から国境が消える以前と後でなんら変わりやしないのだった。


 ––––否。よくよく考えればひとつばかし、大きな変化があった。不定期で自宅へと訪ねてくるようになった、白い制服を着た怪しげな外国人の存在である。


 普段は母が玄関先で追い払ってくれていたのだけれど、その日は僕一人で留守番をしていたもので、押しに負けて家に招き入れてしまった。彼は流暢な日本語で、自らを≪連邦≫直属のカウンセラーだと名乗り、戦死した自衛隊員の遺族をカウンセリングして回っているのだと語った。


「何か悩みや、困ったことがあれば言ってくれ。おじさん、どんなことでも相談に乗るからね」


 にこやかにそう語るカウンセラーを、いつしか仕事から帰って来ていた母が、矢庭に平手で打つ。


「神さまにでもなったつもりか」


 突然の出来事に思考が追いつかないといった様子のカウンセラーに、彼女は冷たく言い放つ。


「また戦争に負けて哀れなこの国に、おたくらが信奉している神様みたく、平和と慈悲を与えてやっているつもりか。……いいか、おたくらが馬鹿のひとつ覚えみたいに繰り返す『博愛』とか『恒久的世界平和』とかってのは、この国の諺で言えば『絵に描いた餅』だ。『砂上の楼閣』だ。どうあがいても実現なんてしないんだ。どうしてかって––––」


 彼女は、傍から見ているこちらまで震え上がるような目つきになって、そして続けた。


「––––少なくとも私は、おたくらに夫を殺された恨みを、ぜったいに忘れないから」


 一方のカウンセラーは、彼女の言葉を全くもって理解出来ないといった様子で、呟く。


「そんなに、私たちが憎いか……?」


 直後、母は床の上にへたり込んで、大声を上げて泣き出した。まるで、胎内から初めて取り出された赤子のように、ただひたすらに慟哭した。……いま思えばそれが、彼女が壊れてしまった、その決定的瞬間だったのかもしれない。


 その翌日。母は自宅で首を吊って、自殺した。


 彼女は、夫を失った現実と、侵略者の無自覚さに耐えられず、ついに自ら命を絶ったのだ。斯くして僕は、僅か二ヶ月の間で、父と母を一挙に失うこととなった。


 幸い、≪連邦≫からの給付金で生活に困ることはなかったが、両親の仇から養ってもらうというのも、なんとも因果な話ではないか。


 父が実践した愛国心も、母がすがったプライドも。幼く身寄りもなかった僕は、生きてゆくために全てかなぐり捨てたのだ。両親と運命を共にするよりも、≪連邦≫という巨人に傅く忠実な臣民として、その恩恵を享受しながら、生きながらえる人生を選んだのだった。

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