第六話 妖精-1

 レフティの言うところの「部屋」とは、しかしそう呼ぶにはあまりに貧相で、尚かつ粗暴なものだった。


 一辺9フィート(訳注:約2.7メートル)ほどの、殆ど立方体と呼べる空間の前面には、錠前のついた鉄格子がはめ込まれている。床面に排泄用の穴が開けられた、混凝土コンクリート打ちっぱなしの中に放り込まれた僕は、脇腹のあたりに走った激痛に顔をしかめた。


「馬鹿な奴め、進んで牢屋入りを選ぶとは」


「そこでしばらく、頭を冷やすことだな」


 牢に鍵をかけると、二人の男はその場を去っていく。意外なことに、見張りに立つ者はなかった。


 床に転がされた状態からゆっくりと身体を起こし、痛む脇腹を見遣る。……ゆったりとした病衣に、薄く血が滲んでいた。思い出したかのように痛む傷口を抑えながら、壁面に寄りかかると、僕は深く嘆息する。


***


 どれほどの時間が経ったのか、判然としない。ほんの数日、はたまた数週間だろうか。牢には小窓のひとつもあいていなかったせいで、或いは度を越した手持ち無沙汰のために、時間の感覚をことごとく奪われてしまっていた。


 当初は脱出を試みたものの、すぐに徒労だと分かった。壁や床面にはかなりの厚さがあり、換気口すら見当たらない。鉄格子は最近になって取り付けられたもののようで、蹴り付けてみたところで、びくりともしなかった。見張りが必要ないのも頷ける。


 空腹が耐え難いものとなるのを見計らったようにして運ばれてくる食事は、随分と簡素なものだった。口の水分をことごとく奪う硬いパンに、コンソメを冷水で十倍に薄めたようなスープ。三度に一回ほど、ポップコーン五、六粒が付け合わせられていたのだが、まともに食べられる味のものはこれだけだった。


 僅かな塩気を絞り尽くさんと一粒を延々咀嚼しながら、僕は追想に耽る––––幼い頃もこうやって、どうにか糊口を凌いでいたっけ。あの破滅的な不況の中にあってもとうもろこしは安価だったもので、少しでもかさの増したポップコーンを主食としたものだ。



 そうして、柄にもなく過去に思いを馳せながら、起きては眠り、また起きては眠りを繰り返す単調な生活は、あるとき不意に終わりを告げた。


 ずるずると何か引きずるような音で目覚めた僕は、寝惚け眼を鉄格子の外に向ける。そこで妖しく蠢く影に、長らくの監禁生活のあまり、ついに気でも触れてしまったのかと思った––––黒いローブに頭から全身を覆い隠されたその姿が、まるで悪霊の類に見えたのだ。


 牢の前で立ち止まったシルエットは、持っていた盆を、鉄格子の下からこちらに差し入れる。覗き込んで見るとその上には、瑞々しい光沢を帯びた丸パンと、澄んだ琥珀色のスープ、濃い赤色の煮込み豆とが取り分けられていた。

 

「どうせ、まともに食わせてもらってないんだろ」


 影は言った。少年のような声音だった。


「余りものを持ってきたんだ。暫く放置されてたから、冷めてるかもだけど」


 何と言っていいか分からず、僕は真っ直ぐに影を見据える。すると影は、


「何だよ、それじゃ不満かよ。囚人のくせして我儘な」


 「ちょっと待ってろ」そう言って、ローブから右手首だけを出すと、薄暗がりに白く映える指を、ひとつ鳴らしてみせる。「ポン」、と何か弾けるような音が響いた後、スープからはたちまち、湯気が立ち昇り始めた。


 驚きのあまり目を見開いていると、影は右手を引っ込めながら、


「そんなに驚くことないだろ、魔術のひとつやふたつ」


 今どき、キッチンひとつとっても点火用の機杖が据え付けられている時代だ。魔術そのものを目にすることは、決して珍しいことではない––––しかして影は詠唱もなく、ましてや杖さえ用いずに、真に生身のまま、魔術を発動したのだ。


 あんたは、いったい……。声にならぬ言葉に口をパクパクとさせていると、影は大仰に舌打ちをする。

 

 「ちぇっ、不愛想な奴だな。……皿を取りにまた戻るから、さっさと食べちゃえよ」


 ローブの裾を引きずり歩くその背中に一言、僕は慌てて、


「……ありがとう」


 しばらくぶりに話したもので、自分でも情けなくなるような嗄れ声だった。


「どういたしまして」


 影は振り返って、小さく笑ってみせた。



 影はその後も、幾度となく牢を訪れては、その日の余り物を取り分けて持ってきた。ここはどこなのか、いったい今はいつなのか、影の出で立ちの由来は何なのか……疑問は山積みだったが、ただでさえまともな食事を差し入れてくれている影に、色々と問い詰める気にはなれなかった。


その代わり、どうして見ず知らずの僕に親切にするのか、いつかそう尋ねたことがある。すると影は、


「何も善意でやってるんじゃないよ。それなりの見返りは貰うつもりだ」

 

「『見返り』?」


 僕は息を飲んだ。


 「ああ」影は頷いて、


「お前、パイロットなんだろ?教えてくれよ、空を飛ぶのって、一体どんな感覚か」


 肩透かしを喰らったような気がして、しばし唖然とする。

 

「他にもいるだろう、『空賊』––––『企業』とやらのパイロットが。何をわざわざ僕なんかに」


 戸惑いがちにそう聞くと、


「『マミー』が近寄らせてくれないんだ、あいつらには」


 「お母さんマミー」––––ここに来て、妙に幼稚な言葉遣いをするものだ。いよいよ、ローブに覆い隠された影の人物像が分からなくなる。


 「それに」影はその場に屈み込みながら、


「話しかけたところで、きっと会話にすらならないよ。酒乱に戦闘狂、やたら無口な仏頂面と、その小判鮫……。あいつらみんな、頭のネジが外れちまってるんだ」


 成る程、あのような蛮族同然の戦い方をする連中が、まともである筈がない。


「その点、お前はまだ、まともそうな顔つきをしてるからさ。……それで、アネンスファリアに乗って空を飛ぶのって、どんな気持ちなんだ?」


 「そうだな」僕はしばらく考え込んで、


「あんた、雲を見下ろしたことはあるか」


「雲を、見下ろす?」


 影は小さく首を傾げる。


「想像してみろ––––ずっと空高く、普段見上げる筈の雲が、しかし足元の遥か下を流れている情景を。それも、綿菓子のようないくつかが疎らに浮かんでいるだけのときもあれば、またあるときは、路地裏にいる野良犬の色合いで、あたり一面、地平線の向こうまで敷き詰められていたり……。まるで潮が満ち引きするように、雲の海はいつも、僕たちに違う顔を見せるんだ」


 語っていて、悪い気はしなかった。影は熱心に聞き入ってくれたし、なにより僕自身、忘れかけていた空への憧れを、取り戻せたような気がしたからだ。


 それから僕は、影が食事を差し入れに来る度、空で経験したいくつもの出来事を言って聞かせた。そしていつしか、耐えがたい手持ち無沙汰の中で、影の訪れを心待ちにしている自分に気づいたのだった。

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