Doc#2「或る旧都伝令官の手記 王暦653年4月26日付」
王国が再び夜闇へと沈む前に、この手記が貴方まで届くことを祈る。
辺りに転がっている遺骸を探ったならば、私が王府付の伝令官であることを示す身分証と、国章で封緘された信書が見つかることだろう。国王陛下の勅命を拝した私は、或る重要な情報––––昨日、王都で起きた出来事の一切を、交易都市・エバークリップに伝令する任務を遂行中であった。
しかし、私の身ではその完遂が不可能となった今、役割を他の誰かに託す他あるまい––––そう、偶然この場所を通りかかり、興味本位でも手記を手に取ってくれた貴方に。
我が国に、有史以来の危機が訪れつつあるのだ。或いはすでに手遅れなのかもしれないが、今すぐに行動を起こせば、最悪の事態だけは免れることが出来る筈だ––––少なくとも私は、そう信じている。以下に、昨日の出来事について、私の知り得た一切を記す。
さて、我らが王都には、帝国領・「黒い森」から脈絡と続くエイド川の支流のひとつが流れている訳だが、その河口に妙なものらが打ち上げられたことが、全ての始まりだった。
パステルカラーの
纏まりを無くした屁泥の中から現れたのは、一匹の魚––––鱗に代わり、夥しい数の人の生爪に身を覆われた、異様な出で立ちの魚だった。石畳をギシギシと引っ掻いて身をのたうったそれは、次の瞬間、困惑する子供たちの指へと喰らいついたのだ。
これを切っ掛けに、王都は混乱に包まれた。様々にグロテスクな怪物たちが屁泥の中から生み出され、罪なき人々を次々と屠っていく。女性の上体を持つ大鷹や、喉元に無数の蛇を飼った猟犬。節くれ立った人間の指を忙しなく動かし、神経を逆撫でる所作であたりを動き回る大蜘蛛たち……。幼子が人形の四肢を取っ替え引っ替えするように、まるで神々が、生き物の部位を色々と付け替える冒瀆的な遊びに興じているかのようだった。
屍体の発する饐えた臭気が、街じゅうに充満しきった頃。陽は翳り、しかし憲兵たちが仕留めても仕留めても、「魔物」たちによる虐殺が途絶えることはなかった。
どうやらその発生源が河口にあるらしいことに気づいたひとりの漁師が、ついに一計を案じた。彼が、建物に籠もって震えるばかりの人々––––私もそのうちのひとりだった––––に呼びかけることには、
「油だ、油を持ってこい。ありったけの油を川にぶちまけるんだ」
恐怖をおして、私たちは立ち上がった。調理用途で大量に備蓄された食用油から、燈台の底に残った灯火油の澱までをもかき集め、市街を横断する川へと注ぎ込むと、水面に火を灯したのだ。
夜闇に迸った業火が、屁泥たちのもぞもぞと不快に蠢く河口まで届いたのだろうか。それから一時間ほど経った頃、ようやく魔物たちの姿が市街から消えたのだった。
すぐさま王城に参上した私は、国王陛下よりエバークリップ宛ての信書を託された。エバークリップは王都の南方、エイド川下流のほとりに位置している。魔物の発生源が、エイド川を流れる「水」にあるのだとしたら……。一刻も早く、警告を届ける必要があった。
しかし、私は失敗した。私は今、路傍に転がされた馬車の荷台に閉じこもり、この手記を、或いは遺書をしたためている。
王都を発ち、往路の半分ほどを終えた頃のことであった。夜明け際の淡い朝日を背景に、それらは現れた––––新しく与えられた身体に自身でも戸惑っているのか、人の赤子に似たシルエットを引きずるようにして羽ばたく蝙蝠の翼たちが、数十匹の群れを成して、荷台を引く早馬とその御者へ襲い掛かったのだ。
鳥肌の立つような、人がまだ猿であった頃から持っていただろう本能的な部分を刺激する羽音と共に、窓から覗く景色は、再び夜の暗闇に染まった。突然の出来事に馬が興奮した衝撃で、馬車の車輪が外れ、私と同僚が乗る荷台は路傍に投げ出される。
再び晴れ渡った視界に飛び込んだ光景に、目を剥いた。国じゅうから選りすぐられた名馬中の名馬、千里を走る王府伝令局付の早馬が、餓鬼たちの群がる中で為す術もなく引き倒されていくではないか!啜り泣くような悲鳴と穢らわしい咀嚼音が止み、餓鬼たちが飛び去った後には、髄までしゃぶり尽くされた、御者と馬の白骨が転がるばかりであった。
私は戦慄した。魔物たちは王都に留まらず、もよやここまでその版図を広げていようとは。ふと、周囲を見回してみると、それまで隠れていて示し合わせたかのように現れた魔物たちが、荷台へと向けて迫りつつあった。人の生首を住処としたヤドカリや、鱗に全身を覆われた豚、斑点の代わりに目玉をぎょろつかせる巨大な天道虫……「魑魅魍魎」と呼ぶほかに、それらを名状すべき言葉があり得るだろうか。
それらはひと思いに荷台の扉を破ることはせず、まるで私たちが自分から外に出てくるのを促すように、何度も何度も、軽やかにノックを続けた。それで実際、隣に座っていた同僚が扉を開けて出て行こうとしたので、私は彼を殺さねばならなくなった。
短剣の突き立った同僚の喉元から溢れていた鮮血が、今やどす黒く変色して、座席の上でカサカサに乾きつつある。それでもまだ、ノックは続いている。辛うじて正気を保っている––––少なくともそのつもりでいる––––私も、いつ彼と同じように、冒瀆的な訪問者たちの存在を受け入れてしまうとも分からない。だからこそ、正気であるうちに、知り得る全てを記しておかなければならないと考え、ここまで長々と綴らせて頂いた次第である。
私はこれから、同僚だったものに突き立った短剣を引き抜き、それで自刃しようと思う。信書と手記を、あのくそ忌々しい化け物どもに荒らされる訳にはいかない。それに––––これまで、周りに流されるばかりの人生だった。死に様くらいは、自分で決めたい。
死に臨んだ今、私が望むのは、貴方が私の無念を晴らしてくれること、ただそれだけだ。エバークリップ市民二万人の命を救ってくれ。我が国の未来を救ってくれ。
ゴッド・ブレス・レグナム。貴方の旅路に祝福の多からんことを。
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