第二話 アネンスファリア
その日のウィキツベリー航空基地はあいにくの雨空で、当時二十八の僕はと言えば、年甲斐なく空を見上げていた。
こちら目掛けて一直線に落下してきた雨粒たちは、しかし透明な壁に行手を阻まれて、矢庭の出来事に驚きの表情を浮かべているようだった。まるで鉄板の上のポップコーンみたく、彼らが空中で次々弾けていく様を眺めていると、棺桶の中に閉じ込められた息苦しさも、束の間忘れることが出来る。
親の仇の如く所狭しと並べられた計器類に四方を囲まれ、そのせいで両手を伸ばす余裕すらない座席は、まさに棺桶の窮屈さを思わせた。現にそれは、同僚たちの間では
頭上から前方にかけてを覆う硝子の天蓋に、水滴たちが描く、大樹の根を思わせる紋様。それを目で追いながら、こんな悪天候下でのビジネスはいつぶりだろうか……などと考えていると、耳当てから聞き慣れた声が飛び込んでくる。
≪テステス、本日は晴天なり、と。……聞こえてるか、ゲイズ≫
「こちらゲイズ」身重たく横たわる鉛色の雲に向かって、僕は返答する。
「この空模様が晴天に見えるとは。パイロットに向いてないんじゃないか、ツイスト」
≪なぁに、視力に関しちゃあ心配は無用さ。何しろ俺の目にゃ、ここからだって、お前の仏頂面がはっきりくっきりと映ってんだから≫
左隣りを見遣ると、嘴を思わせる拘束具に頭部をすっぽり覆われた
––––僕らはそれを、
生体の翼龍から大脳を摘出し、代わりにヒトが乗り込んで操縦するための座席を設けた、史上初の「有人航空兵器」。魔王討伐後に起きた
陸上騎士団、王立艦隊に次ぐ「第三の王立軍」として設立された航空騎士団は、世界で初めて、アネンスファリアを配備・運用した軍隊だった。当時の僕はその少尉階級で、件の優男––––"ツイスト"ことデイビッド=ボールドウィンは、アカデミー時代からの同期かつ同僚であった。
≪にしてもよお、お前は毎日まいにち飽きもせず空ばっか眺めて、いったい何がそんなに面白いのかね≫
「別に、面白くって眺めてる訳じゃないよ。小さい頃からの悪い癖ってだけだ」
こうして、距離の離れた二人が何ら不自由なく会話できているのも、魔術革命がもたらした恩恵と言えた。耳当て型のそれは「無線装置」と呼ばれていて、発言者の口元で振動する空気を、魔術によって他方の耳元へと転移させることで、複数人による遠距離間での会話を可能としている。
≪空を見上げる悪い癖、ねえ。まったくお前は、生まれながらにしてのロマンチストだよ。羨ましいぜ≫
「そりゃどうも」生返事した僕は、続いて整備士に呼びかける。
「こちらハーピー2。
どくん、とひとつ、足元から突き上げるような拍動。喘ぐような激しい呼吸が、数度繰り返される。外部接続の魔力ユニットが、停止した心臓を刺激し、騎体を「始動」––––平たく言えば、仮死状態から蘇生させたのだ。
左手のスロットル・レバーを待機位置まで押し上げると、コフィンに内蔵されたシリンジから強心剤が注入され、出力計の針の、小刻みな振動が止まる。問題なく起動手順を終えた。
≪……なかなか出力が上がらねえ、このポンコツめ≫
一方のツイストは、エンジンの調子がいまいち良くないようで、
≪上の連中、一体いつまで、俺たちにこんな型落ちを使わせるつもりなんだ?なんでもソーズロンドの方じゃあ、とっくに第五世代騎の選定が始まってるって言うじゃねえか≫
そのとき僕たちに配備されていた騎体は、「ファントム改」。第三世代––––アネンスファリアの実戦投入が始まった最初期の騎種で、経年劣化を騙し騙し運用していたものの、それも十年目を迎えて誤魔化しきれない不調が目立つようになっていた。
「後ろにもうひとり乗っけてた頃よりはマシじゃないか」
レーダー手に代わり、今や円筒状の無骨な機材が占有する後部座席を振り返って、言った。
「文句ばっかり言ってるとバチが当たるぞ」
≪そうは言ってもよお≫ツイストは尚も不満げに、
≪出来上がった新鋭騎は真っ先に国境方面隊へと配備されて、こっちに回されるのはお下がり。しかもそのお下がりってのも、目ぼしいものは内地の連中が根こそぎ持っていっちまうから、外縁部まで届くのはいつも型落ちのファントムばかり……。おんなじパイロットでも東の連中だけが新型に乗れて、あんまりにも不公平じゃねえか≫
点検用の動作パターンを繰り返す主翼を眺めながら、僕は返答する。
「新都の引き篭りどもにしちゃあ、僕たちみたいな辺境の飛行隊なんて、眼中にないってことの表れだろうさ」
≪ちきしょう、馬鹿にしてる、馬鹿にしてる、馬鹿にしてるぜ≫
ツイストは恨めしげに声を荒げた。
≪俺たちだって、伊達に八年もパイロットやってんじゃねえんだ。いいかげん花形のイーグルでブイブイ言わせてみたいもんだぜ、こんな死に体の
≪……おいおい、こいつをそう扱き下ろしてくれるなよ≫
と、矢庭に会話へと割って入ってきたその声は、ハスキーながらも軽快な調子で続ける。
≪俺みてえな古参からすりゃあ、ファントムは分身みたいなもんだ。お互いこんなに老いぼれちまって、今更他の騎体に乗り換える気にもなれんよ≫
≪冗談よして下さいよ、エルダー≫
一転、ツイストは笑って、
≪この前の模擬戦だって、若手二人を同時に相手取った上で圧勝してたくせに。まさか『老いぼれ』だなんて≫
≪たまには気の利いたこと言うじゃねえか、ツイスト≫そう言って、"エルダー"––––ハーグマン大尉は、豪快な笑い声をあげた。
これに調子づいたツイストは、さらに続けて、
≪それに。エルダーには、まだまだ現役でいて貰わないと。あの新人、俺たちだけじゃあ面倒見切れませんからね≫
≪年寄りに厄介事を押し付けるんじゃねえ。だいいちピジョンの教育係はお前だろうが、ええ?≫
≪……お呼びですか、隊長?≫
噂をすればなんとやら、どこか落ち着かない声色の彼女は、"ピジョン"ことデリンジャー一等空曹。アカデミーを卒業して間もない新人で、その日が初の実戦参加であった。
≪エルダーで構わんよ。隊長呼ばわりはどうも落ち着かん≫
≪しかし、上官を呼び捨てにするというのは、どうも……≫
ピジョンは口ごもる。
≪戦場には上座も下座もないさ、強ければ生き残り、弱ければ死ぬってだけだ。お前みたいなペーペーは、まだ肩書きなんて細かいことを気にしてる段じゃねえよ。……万年大尉の俺が言ったとこで、負け惜しみに聞こえるかもしれんがな≫
還暦を迎えて尚、パイロットとして前線に立ち続ける
≪りょ、了解しました……エルダー≫
≪……まあ、そう緊張すんな≫しどろもどろに返答したピジョンを見かねて、ツイストは言葉をかける。
≪いくら実戦つったって、やることは訓練と変わりゃしねえんだから。むしろ鬼教官の目がないだけ、アカデミーの実騎演習よりゃマシかもな、ははは≫
いつにも増して大仰なその笑いは、突如として飛び込んできた、無愛想な声に遮られる。
≪ハーピー隊、こちら管制。助走路への進入を許可する≫
その声は、普段聞き慣れた管制官のそれとは異なり、ぞっとするほどに無機質で、冷たい響きを帯びていた。
≪おいおい、今日は管制まで『黒服』かよ!?鬼教官よかよっぽど厄介だぜ、こいつは≫
≪ハーピー3、不用意な発言は慎め。貴君の査定に響くことになるぞ≫
≪はいはいご忠告どうも≫
ツイストは吐き捨てる。
≪だがご生憎様、これ以上俺の査定からマイナスできる点数なんてありゃしねえよ≫
≪ハーピー3。我々は、国王陛下のご意思に基づいて動いている。それに口答えすることが、貴君にとって何を意味するのか……≫
≪こちらハーピー1。一番騎の俺から上がる、誘導を頼む≫
≪……了解した≫エルダーに発言を中断され、管制官は依然無機質な声色のまま、しかし一抹の怒気を滲ませて言った。
直後、右隣で点検を受けていたファントムが、伏せの体勢から矢庭に立ち上がる。他の整備士たちが小走りで捌けていく中、その場に残ったひとりの誘導に従い、エルダー騎はその四本の脚でのっそのっそと移動を始めた。
≪さっさと上がるぞ、ゲイズ≫
僚騎の僕に、エルダーはそう促す。
「了解」一言、そう返答した僕は、
ファントム・ドライバーになってかれこれ八年になるが、地上を行き来する際のこの感覚だけは、未だ慣れることが出来ない。少しでも気を紛らわそうとした僕は、コフィンの鼻先をくすぐるエルダー騎の尾端に目を遣る。風を受けてなびく吹き流しには、人間の女性の上半身を持つ鳥の、今にも飛び立たんとする姿が描かれていた。
それはアネンスファリアの所属を表す
かつて人々に恐怖の対象として仰ぎ見られ、しかし今となっては、その存在を忘れ去られつつある女面鳥。その境遇は、当初は初の実用アネンスファリアとしてもてはやされながら、今や老いぼれて廃棄目前のファントムと、奇妙にも似通っていた。
≪まったく、あんなのが管制じゃあ、おんなじ仕事をするにしてもモチベーションがただ下がりだぜ≫
ため息混じりに、ツイストが漏らす。
≪ハーピー3、何度も同じことを……≫
≪モチベーション、ねえ≫すかさず反言しようとする管制官を押し除けて、エルダーは言った。
≪今回のビジネスが終わったら、とっておきの一本を開けてやろうと思ってたんだがな≫
≪『とっておき』って……まさか、この前言ってた年代ものっすか!?それともずっと秘蔵にしてる……≫
水を得た魚の如く、何やら鼻息荒くまくしたてるツイストを他所に、僕はエルダーに尋ねる。
「いいんですか、あんなザルに。酒蔵をすっからかんにされちまいますよ」
ツイストは同僚の中でも呑兵衛として有名で、酒場ではビールを樽ごと買い付けるほど。しかもそのひとつを一週間とかけずに飲み干しておいて、翌朝にはケロッとした顔でファントムのコフィンに収まっているのだから、僕みたいなゲコからすればちょっと恐ろしいところがあった。
≪同僚のモチベーション管理も年長者の務めさ≫
エルダーは笑って、
≪ゲイズ、それにピジョン。お前らも何か、欲しいもんはねえのか?今日の俺ばかりは気前がいいぜ、このビジネスはペイが良いからな≫
「僕は別に……」
≪あ、あの!≫
意外なことに、僕の言葉を遮ってピジョンが口を開いた。
≪この前、歓迎会で連れて行って下さったレストラン……もう一度、みんなで行きたいです≫
≪そりゃあいい≫ツイストはひとつ、手を打った。
≪エルダー、俺も賛成です。……お前もそうだろ、ゲイズ?≫
「……ああ」
矢庭に話を振られたもので、戸惑いがちにそう答えると、
≪うし。そうと決まれば、あとはさっさとビジネスをこなしちまうだけだ≫
エルダーは言って、助走路の所定の位置に騎体を停止させる。仰々しい名前の割に、一帯の芝生が倒れて出来たただの獣道といった風情の助走路は、遥か彼方、地平線の向こうまで続いていた。
≪管制、こちらハーピー1。離陸許可を≫
≪こちら管制……了解した。離陸を許可する≫
どこか投げやりなその声が告げて、助走路傍に立った誘導員がゴーサインを出すと、エルダーは騎体を発進させる。
姿勢を低くして、尾部を一直線に伸ばしたファントムは、後脚を鋭く蹴り出して加速を始める。鉤爪に掘り返された芝生と土壌を撒き散らし、地鳴りを思わせる轟音を響かせながら、充分な速度をとると、ついには大きく跳躍した。
それと同時に、前脚の翼を羽ばたき出して浮力を得、エルダー騎は雨降りの空を上昇してゆく。生体の翼龍から大脳をくり抜いて作られた航空「兵器」、という多分にグロテスクな代物でありながら、しかしその姿には、あの日見上げた白い鳥のそれと通ずる優美さ、
≪……はあ、やっぱり空はいい≫無線越しに、エルダーは深呼吸をする。
≪地べたの色んな息苦しさも、ここから見下ろせば些事に思えてくるからな≫
彼ほど純粋に空を愛し、それと同じく「パイロット」である自分自身のことさえも愛すことのできる人物とは、この後にも先にも出会ったことがない。
いつかは僕も、彼のように飛べるのだろうか。この気が滅入るような雨空さえ、いつかああやって、快活に笑い飛ばせる日が来るだろうか––––。
≪ハーピー2、離陸を許可する≫
管制官の言葉で、僕は我に返る。
≪早急に離陸せよ。今回の作戦には、何よりも時間の正確さが求められる≫
「……了解」小姑のようにうざったらしい管制官の言葉を聞き流した僕は、騎体のブレーキを解除。スロットル・レバーを限界まで押し上げる。
最大量の強心剤が騎体に投与され、エンジンが破裂せんばかりに脈打つ音。内臓を揺さぶる振動が急速にその激しさを増し、辺りの景色、降りしきる雨粒が、次々と背後へ飛び込んでいく。
胃酸を飲み下しながら、速度計が「30」の表示を超えたところで、操縦桿を一気に引き上げる。
刹那、それまでの轟音と振動が嘘のように消え、唐突な静寂がコフィンを支配した。正面から誰かのし掛かってきたかのような重みに、全身を座席へと押さえつけられながら、僕は傍らに広がる景色を見遣る。
みるみる遠ざかりゆく芝生の大地と、その上に点々と駐騎された他部隊のファントムたち。平原の中にぽつんと建った石造りの古城には、ウィキツベリー航空基地の指令本部が置かれている。普段は見上げるほどに巨大なその城壁も、この高さから見下ろすと、酷く矮小なものに思えた。
––––重力の束縛を逃れ、いつしか僕は、空にいた。屍の焦げゆく匂いも、女たちの嬌声も届かない、永久に閉ざされた僕だけの空に。無線で繋がれたハーピー隊の面々にすら立ち入ることの出来ない、広大な孤独の只中に。
≪ハーピー2、こちら管制。貴騎の離陸を確認した。高度制限を解除、グッドラック≫
心にもないくせに……と内心で吐き捨てると、スロットルを引いて加速を緩める。ゆったりと落ち着いたエンジンの鼓動と、右手首に当てがった指に伝わる脈打ちの速さが、徐々に一致していくのを自覚した。
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