第一章 国王なき王国/ドルフィンダイバー作戦

第一話 地獄の胞子

 ところであんた、今年でいくつになる。


 二十三歳……きっかり「ポスト・レナルディズム」世代、ってとこか。


 それじゃあ、ちょっとばかし歴史のお勉強といこう––––あんたみたいに身なりのいいお坊ちゃんからすれば、学校の授業で聞かされて耳にタコだろうけど。あんたらが作る新聞の読者ってのには、外縁部ベゼルの貧民たちも含まれてるんだろう?



 ––––「王国」第二十九代国王・レナルド四世の治世にあって、平穏とは高価な嗜好品だった。


 「『王国』に依る平和パックス・デ・レグナム」なんて謳われたのも、今や昔の話。石ころよろしく辺りにいくらでも転がっていて、それまで誰ひとり見向きもしなかった「平穏」は、ある一日を境に、ダイヤモンドの原石と化した。四方を石壁で囲まれた桃源郷の住人だけが金で買うことの出来て、その外に住む小市民たちには縁もゆかりもない、たとえば葉巻や葡萄酒なんかと同列の贅沢品へと変容した。


 忘れやしない、四十二年前の五月三日。王都に放たれた大火が始まりの狼煙となって、各地で暴動が起きた。––––そのきっかけはひとえに、「魔王」が「勇者」に倒されたことだ。


 「魔王」。遥か北方の地・黒い森チェルノーリェスに突如として出現し、「魔物」を率いて大陸に君臨した存在。その正体は異界からの使者だとか、或いは寿命を克服した魔術師の成れの果てだとか言われてるが、正しいところは定かではない。


 そしてそれを、レナルド四世の勅命を受けて派遣された「勇者」––––第七期魔王討伐派遣隊ただひとりの生き残り、ギルバート=オーウェンが倒してしまったことが、全ての始まりだった。


 魔王が討たれたことで、そこからの魔力供給によって肉体を維持していた魔物たちは、大陸じゅうから姿を消した。ちょうど、庭先の水溜りがいつしか消えているのと同じように、ある朝起きてみると、魔物は何処にもいなくなっていた。


 王国は、瞬く間に失業者で溢れかえった。魔王の出現から三十年、今や魔物は大陸固有の「資源」であり、世界一の富国たる王国の経済そのもの。それらが一晩のうちに失われてしまったのだ。


 暴徒と化した失業者たちは、振るうべき相手を無くしてお役御免となった武器をそれぞれ手に、各地で打ち壊しを始める。街に火を放ち、貴族の邸宅を襲って金目のものを分捕り、怒りの捌け口にそれらの住人を惨殺していく。


 まるで人々の理性や倫理観、常識コモン・センスとかいったものが、魔物と一緒になって蒸発してしまったかのようだったさ。「万人の万人に対する闘争」などと著したのは何処の誰だったか、兎に角その文言をそっくりそのまま絵に書いたような混沌カオスの中にあって、王国の懐古主義的で凝り固まった統治機構は、あまりに無力だった。……何でも、王都が大火に包まれていたその頃、レナルド四世とその従者たちは、食糧と衛兵を伴って新都に立て籠る準備を進めていたというじゃないか。当時の王府の連中は、新都より外の秩序の再建なんて、元より諦めていたのだろう。


 斯くして「王国」は、有史以来の混乱、比喩でなく本物の地獄の中に、その身を沈めた。



 国王なき王国。自分可愛さに政治を放任した為政者。欲望の奴隷と化した暴徒たち––––世界がどうしようもないクソッタレだったもので、仕方なく僕は空を眺めていた。


 ひとり地べたに寝そべって、時間が過ぎゆくのもお構いなしに、ひたすらに空を眺めていた。晴天、雨降り、曇り空。来る日も来る日も、そうする暇を見つけては、ただ黙々と空を眺めていた。


 少なくともそうしている間は、辺りの死屍累々や、男に凌辱される女や、女を凌辱する男たちを目に入れずに済んだ。けれど、衣服と屍の焼ける粘っこい香りとか、辺りを飛び交う絶叫なんかからは、どうやっても逃れることはできなかった。


 宗教画にはよく、「地獄」と題して死者が阿鼻叫喚する絵面が描かれているが、僕にはあれがどうも胡散臭いものに思えてならない。僕からすれば、地獄は、人の目に見える具体的な姿なんて持っていない。

 地獄とは流動体だ。目を背けようと耳から、耳を塞ごうと、今度は鼻から頭の奥深くに入り込んできて、灰白質に不快の胞子を植え付ける。地獄とはつまり、辺りを満たす空気そのもので、僕は長い間、それらを吸って吐いてして生きてきた。


 そうして地獄を摂取し続けた僕の心は、凌辱を受ける女たちの、絶叫とも嬌声ともつかぬ喘ぎ声に対してだけは、しかしいつまでも順応することが出来ずにいた。


 蛮族たちに衣服を引き裂かれ、無理やり股をこじ開けられているというのに、彼女らの声にはどこか艶かしさがあった。苦痛に顔を歪めたり身を捩らせたりして、蛮族を拒絶するそぶりを見せるのだが、しかし繰り返し繰り返し犯されるうち、その息遣いに恍惚の色が濃くなっていった。

 

 彼女らの心は、しかし彼女らの肉体には、どうしても抗えないところがあるようだった。そしてその事実が、僕にはどうしようもなく不快で、汚らわしいものに感じられた。


 ヒトの魂は、その入れ物に過ぎない肉体なぞに、何故これほどまでの束縛を受けなければならないのか。食欲、性欲、睡眠欲––––そうした肉体由来の野蛮な欲望に、どうして自由意思が隷属せねばならないのか。


 こんな窮屈さの中で一生を終えるくらいなら、いっそのこと––––僕は、幾度となく自殺を試みた。山刀を自らの首筋にあてがい、今こそ刃を滑らせようとしたその瞬間、しかし皮膚に食い込んだ鐡の冷たさが、それを引き留めた。


 怖気付いてしまったのだ。「痛み」という、これまた肉体に由来する原始的な感覚に、僕の自由意思は抗うことをやめてしまった。情けのない話だ––––「肉体なぞ必要ない」、なんて心の中では息巻きながらも、いざそれを失うとなると、そうした威勢も一気に冷え切ってしまった。


 結局、その日も自ら命を絶つことは叶わず、やはり僕は空を見上げていた。


 ふと、シアン原色を塗りたくったキャンバスの、絵の具に混じって貼りついた埃のような一点が、僕の目を引いた。


 目を凝らしてみると、それは鳥だった。呼ぶべき名も知らない、たった一羽の白い鳥。雲ひとつない快晴のなかを悠然と、凛然と飛んでいくその姿は、地面を這い回る人間の矮小なそれに比べれば、ずいぶん伸び伸びとしたものに思われた––––そしてそのとき、僕は初めて、夢というものを持った。


 僕は鳥になりたかった。魂だけは今のまま、しかし人間にはない大きな翼で、空を自由に飛んでみたかった。辺りに充満する地獄の中から抜け出して、ここじゃないどこか、人の焼ける匂いも、女たちの嬌声も聞こえない場所に行きたかった。


 それは、年頃にしてはあまりに稚拙で、ロマンチシズムにしてもあまりに月並みだったけれど。当時の僕は、それを本気で望んでいたのだ。



 ああした不安定な世の中にあって、夢の一端––––空を飛ぶことのできる翼だけでも手に入れられた僕は、当時としては幸せ者の部類に入るのだろう。もっともその翼というのは、鳥のそれよりも多分に不格好で、尚且つグロテスクな代物だったが。

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