まえがき

"私の魂よ、お前は長い間囚われの身にあった。お前がお前の監獄から放免されるときがきた。この身体からの束縛を去る秋がきた。そして、歓びと勇気とをもって、この別離を耐え忍ぶときがきた"

            ––––––––ルネ=デカルト



 かのウィリアム=ファウラーに取材を申し込んだのは、何も奇をてらってのことではなかった。


 業界に入って五年の新人に過ぎなかった私にとって、立身出世に全く興味がなかったと言えば嘘になる。若造とて記者の端くれ、ファウラーのようなある種「大物」の口から、前世紀末の動乱の真実を聞き出すことが出来たなら……などと思いつかない訳があっただろうか。

しかしながら、私に本書の––––或いはその原型となった連載記事の––––執筆を決定づけたのは、やはり母の存在であった。


 亜人種と人間の娘であった彼女は、世に言う「混血」の御多分に漏れず、短命のうちにこの世を去った。肉体ばかりは妙年の若々しさを保ちながら、しかし医師の診断によれば、その死因は「老衰」であった。


 母はよく、動乱の最中で経験した出来事の数々を、幼い私に言って聞かせた。無惨にも命を奪われた親しき者たち、右腕に深く残った傷跡の由来、父との出会い。そして、無情な世界にあって二人を窮地から救い出してくれた、とある恩人の存在。当事者が語る生々しさも相まって、その内容は、親から子に読み聞かせる昔話にしては、相当に苛烈な内容だったことを記憶している。


 しかし母は、自身が幾つも経験した理不尽について、恨み節をぶつける相手も持たぬまま、とうとうその生涯を閉じた。だからこそ私は、動乱を引き起こした張本人であるファウラーに対し、物言わぬ母に代わり、面と向かって文句のひとつでも言ってやろうと考えたのである。


 王暦七二五年四月、ついにその機会が訪れた。ファウラーに恩赦が下り、面会のための条件が大幅に引き下げられたのだ。私のような新人が––––今思えば恐れ多くも––––諸先輩方を差し置き真っ先に取材を申し込んだのは、彼を出汁にして名を上げようなどという短絡的な発想に依らないことを、最初に断っておきたい。



 「飛び方を忘れたカラス」––––というのが、私の受けた第一印象であった。


 三重の鉄格子に囲われた中で、男はただひとり、悠然として安楽椅子に腰掛けていた。その背格好は、写真で目にした往年の姿に比べると多分にやせ細り、今にも崩れ落ちそうで頼りのないものに見える。


 しかしながら、牢を取り囲む看守の多さ、何よりも鈍く輝く銀髪が、彼こそ私の目的の人物に違いないと物語っている––––その様はまるで、永らく鳥籠の中に囚われていたあまり、ついには飛び方さえ忘れてしまった烏のようだった。


 私をここまで案内した看守のひとりが、その手に持った警棒で牢を打つ。耳元で鋭い金属音が鳴り、私がびくりと身を震わす一方、牢の中の男はといえば、ただ緩慢とした動作でこちらに目を向けた。


「新しい教誨師か。……それにしては、随分と年若く見えるが」


 そう尋ねるファウラーの眼光に、思わずたじろいだ。深く落ち窪んだ目から発せられる輝きは、しかし私がこれまでに接してきたどの人物のそれよりも鋭く、まるでこの臆病な心を貫くかのようだった。

 「人の本質はその目に現れる」、なんてよく言うが、あれは言い得て妙だと思う。今まさに放たれた矢の、研ぎ澄まされた鏃のようなその眼光は、彼が如何なる壮絶さの只中をこれまで生きてきたのかを、如実に表していた。


「先日ご連絡させていただいた、サブジェクト・タイムズの者です」


 それでも私は、私にできる精一杯の虚勢を張って、努めて毅然とした調子で言った。かれこれ五年間のキャリアの中で学んだこと––––記者にとって、そのすべては第一印象で決まるということ。

 初対面で何かしらの弱みを見せてしまえば、後でどう取り繕おうと、その相手から重要な情報を引き出すことは出来なくなる。その点私はと言えば、ただでさえ舐められやすいたちだから––––主に容姿の観点で––––、傍から見た格好の良し悪しは死活問題だった。


「どちらも似たようなものじゃないか、教誨師と、記者とでは」


 ファウラーは安楽椅子から立ち上がり、唇の端を吊り上げてみせる。私はすかさず反論した。


「いいえ、明らかに違います。私は別に、あなたに聖書の教えを説きにきたわけじゃありません」


 「いや、違わないね」彼はきっぱりと断言する。


「僕が過去の罪の告白をして、あんたはそこに座ってそれを聞く。その手に持っているのが取材手帳か、はたまたバイブルか、たったそれだけの差じゃないか」


 読めない男だ、と私は思った。不気味な薄ら笑いの向こう側に、如何なる感情も見出すことができない。流石は、かの悪名高き「灰色の幽霊グレイ・ゴースト」、「王国」史上最悪の煽動者と目される男な訳だ。


 ここ––––ウェビーラン政治犯収容所においては、鉄格子を幾重に囲われているかによって、その囚人の罪の重さを表しているのだという。


 国じゅうから選りすぐった重罪人揃いの中にあってファウラーは、収容所半世紀の歴史で過去最多、かつ唯一の三重牢に収監されていた。


「……そろそろ本題に入りましょう」


 私は手元に取材手帳を開く。


「二十六年前の『チェルノーリェスの動乱』について、当事者であるあなたから、その真相を伺いたい」


 「……そりゃあ、無理な話だ」いっときの間を置いて、ファウラーは肩を竦めてみせる。


「あの事件に関しちゃあ、証言台で語ったことが全てだ。それ以外に、あんたらを満足させてやれるような驚愕の新事実は、あいにく持ち合わせちゃない」


 「そんな筈はない」私は食い下がる。


「あなたはまだ、何かを隠している筈だ。そうでないと、女王陛下からの恩赦を拒否してまで、ここに居座り続ける理由の説明がつきません」


「以外と居心地がいいんだよ、ここは。何しろ、空がよく見えるからな」


 彼はそう言って、小窓へと顎をしゃくってみせる。煉瓦造りの壁面を四角にくり抜き、鉄格子を取り付けたその向こうには、室内の陰湿さとは対照的な、雲ひとつない快晴が覗く。……確かにこれほどの高さからであれば、地上から見上げるそれよりも、ずっと鮮明な空の姿を拝めるのかもしれない。


 とは言え。この男は、たったそれだけの為に、事実上の終身刑に甘んじるというのだろうか。


「……そういう訳で、あんたが欲しがっているあの事件の真相なんてものは、最初はなから存在しない。少なくともそれを、僕の口から、あんたに語ってやることは出来ない」


「とぼけないで下さい」


 あくまで冷静を装っていた筈が、気づくと私は、そう声を荒げていた。幼い頃、母に何度も言い聞かせられた当時の悲惨さを思うと、彼の物言いがこの上なく無責任なものに思えてならなかった。


「あなたの身勝手さのために、これまでどれほどの人たちが苦しんで……」


「しかし、だ」


 突如張り上げられたその声に虚を突かれ、私は言葉を失う。幾許かの沈黙の後、ファウラーは穏やかに続けた。


「その当時僕が犯した、私的な罪のことについてなら、語ることができる」


 その顔からは、つい先程までの嫌味たらしい薄ら笑いが、いつしか消えていた。そして今、年老いてなお衰えることのないつわものの眼光だけが、ただそこにはあった。


「––––今から僕は、この身に課せられた四百四年の懲役に計数されない、けれど決して贖うことのできない罪を、ここに告発しようと思う」


 私は息を飲んだ。かつて勃発した革命の最中にあって、王府と叛乱勢力の両方に加担。そのどちらをも裏切り、「王国」を際限ない混乱に陥れた男––––彼の口から、事の顛末が語られようとしている。


「だからあんたには、これから僕が語る罪の全てを、一言一句逃さず記録してほしい。そしてそれを、出来うるだけ多くの人に広めてほしい。他人ひとの不幸を食い物にする『記者』でなく、迷える子羊に道を説く『教誨師』として、そのペンと手帳バイブルで、僕を罰してほしい。……果たしてあんたに、それが出来るか」


 その言葉の重みに気圧されそうになるが、ここで引くわけにもいかない。覚悟を決め、私が静かに頷くと、彼は再び安楽椅子へと腰を下ろす。

 

 そして、小窓の向こうに広がる蒼穹を眺めながら、三日間に渡る独白の口火を切った。


「……ところであんた、今年でいくつになる」


 以下に記すのは、たったひとりで大陸を敵に回した男––––ウィリアム="ゲイズ"=ファウラーが告発した、彼の罪の記録である。

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