【番外編】 竜の娘
高い靴音が苛立たしげに磨いた石の廊下に響く。神官は書斎のドアをノックもせずに開け放つと、つかつかと魔法使いに詰め寄った。
「オドラデク! どうしてお前はそう村人を困らせてばかりいるんだ!」
「なんの話だ、ブシツケ神官」
神官はキッと魔法使いを睨み上げると、腕組みをして重い口調でこう告げた。
「礼拝堂に苦情が来ている。生まれたての子牛が六頭、黒竜に丸呑みされたと。食事なら毎日きちんと摂っているだろう? なのに何故……」
と、魔法使いのひしゃげた眉が、ぴくり、片方だけ上げられた。
「子牛、だと?」
するすると天井から銀の糸が垂れ下がり、その先端でサラまでも、困ったように眉をひそめた。
「子牛、ですか」
二人の様子に、神官までもがつられるように眉をひそめる。
「帰って来おったのか、あの放蕩娘が」
「おいでになったようですねぇ」
神官は二人の顔を交互に見ると、たまらず会話に口を挟んだ。
「なんだ、誰の事だ?」
と、サラがぴょこんと神官の腕に飛び移り、肩をすくめて彼を見上げた。
「メルセデスお嬢様。ご主人様の、ご息女です」
神官が息を呑んだその瞬間、窓の外を黒い翼が、風を切って横切った。
神官が中庭に走り出るとそこには、魔法使いより一回り小さな黒竜が、つかややかな鱗を輝かせて舞い降りるところだった。竜は優雅に翼をたたむと、その太い尾をドレスの中に、ねじれた角を巻かれた髪の中へとしまい込んだ。神官は目の前の少女の姿に、言葉をなくしてただ立ち尽くした。
美しい銀の髪、たっぷりレースのあしらわれたドレス。幼さを残した白い頬、すっと通った高い鼻。彼女は真っ白な手袋をはめた手で黒レースの扇子をぱちんと閉じると、つんと釣り上がった大きな瞳で、神官の顔をじいっと見つめた。銀の睫毛がふるりと揺れて、父親譲りの金色の眼が、すっと鋭く細められる。
「まぁ。まぁまぁまぁ、皆様ごきげんよう。お出迎えご苦労様」
少女はつかと歩み出ると、くるくると神官の周りを歩き回り、彼の姿を上から下までしげしげ眺めた。神官は心落ち着かずその心臓を高鳴らせながら、何も言わずに彼女の反応をただ待った。
「まぁまぁまぁ。で? お父様。この方があたくしのお母様になる方ですの?」
「おか……っ!」
「まぁ、そういう事になるな」
口をあんぐり開けて赤面する神官をよそに、さらりと魔法使いが答える。その言葉を聞くと少女は鼻をつんと空に向け、薔薇色の唇をほんの小さく尖らせた。
「構いませんことよ、お好きになさればよろしいわ。サラ、サラはどこ?」
呼ばれてサラは小走りに前へ出ると、少女に深々とお辞儀をした。
「あたくしの部屋を整えて頂戴。なるべく早くね、あたくし、少し眠たいんですの」
「そりゃあ、子牛を六頭も召し上がれば眠くもなるでしょう」
途端にぎろり睨まれて、慌ててサラが退散する。
「僕も手伝うよ、サラ」
神官は少女に一礼してから、サラの後を追いかけた。
長く使われていなかった部屋の窓を大きく開き、新鮮な空気と入れ替える。神官は深くため息をつくと、軋む窓に手のひらを添えた。こつん、その額を窓ガラスに当ててみる。
「神官様ー! 新しいシーツ持って来ましたよ!」
「あ、ああ、ありがとうサラ」
神官は笑って取り繕うと、手早くベッドメイクをはじめた。しかし表情はやはり浮かずに、どこか陰りが感じられる。友人のそんな様子にサラが気付かない訳も無く、彼はピローカバーと格闘しながら、ひょうひょうと神官に声を掛けた。
「やっぱり気になります? お嬢様のこと」
「え? ああ……」
見透かされて神官は僅かに赤面したが、正直にそれを肯定した。
「……まさか、オドラデクが結婚していたとは思わなかったから」
「まさか! あの人が結婚なんてするわけないじゃないですか!」
からからと笑われて、神官はきょとんとサラを見つめた。サラはきゅっとピローカバーのリボンを結ぶと、ぽん、と枕の上を跳ね、神官の手元にぴょこぴょこ飛んだ。
「あれですよ、願いを叶えるその代償に乙女の純潔を……って、あれ。ある時たまたま手を出した貴族の娘が、たまたま懐妊して。で、生まれた子供がここに返されて」
「え……」
神官の手が思わず止まる。
「昔は召使いも多かったですからね、僕の親とか、蝙蝠だの猫だの蛇だの。ご主人様とみんなとで、必死になってお嬢様をお育てしたもんです。でもご成長されてからは、昔ご生母が使われていた古城に一人で暮らすようになって。十年に一度くらいかな、こうしていきなり帰って来ては、数日を過ごされるんです」
「そう、か……」
自分と同じくらいの、いや、きっとずっと年上であろう美しい少女。何百年と生き、絶大なる魔力を誇り、その空を駆ける事の出来る彼らに比べ、自分はなんと小さなことか。
と、突然ドアが開け放たれ、高い声が辺りに響いた。
「遅くてよ、サラ! いつまであたくしを待たせるつもり!?」
サラはわたわたと糸を引くと、ぴょい、ぴょいとドアへ飛んだ。
「ただいま終わりましたお嬢様、ゆっくりお休みください」
少女は扇子で口元を覆うと、小さくひとつ頷いた。神官はサラに続いて自分も退室しようと立ち上がったが、その彼を少女の声が呼び留めた。
「お待ちくださいな、お母様」
「え」
顔をこわばらせる神官に、少女はつんとした視線を向けると、はたはたと扇子で頬を扇いだ。
「お父様がお休みになる折は、その手を握って寝かしつけているそうじゃありませんの。あたくしにはしてくださらないの?」
思いがけない懇願に、神官は目を丸くした。
◆◆◆
小さな椅子に腰を下ろすと、ベッドに横たわった少女が大きな瞳で神官を見上げた。つんと尖らせた小さな唇、睨むように鋭い視線。けれどどこかわくわくとした様子の彼女に、神官はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
小さく白い手がさし出され、神官はおずおずと、やんわりその手を握り締めた。
耳に痛いほどの沈黙。昇ったばかりの月が白く青く室内を照らす。
「あの……」
「寝物語は結構よ、お母様。それについてはあまりいい思い出がありませんの」
ぐさりと言われ神官は、再び口を固く閉ざした。
「でも、そうですわね、こんな時何をお話したらいいのかしら? 恋のお話? 舞踏会のお話? あたくしお母様を持つのはこれが生まれて初めてですもの、勝手がわからない点はご容赦くださいませね」
その言葉に神官ははたと顔を上げ、少女の金色の眼を見つめた。
『ある時たまたま手を出した貴族の娘が、たまたま懐妊して。で、生まれた子供がここに返されて』
「――…………」
彼女は知らないのだ。母のぬくもりを、その温かさを。
神官は少女の手をきゅっと握り締めると、もう一方の手もその上に添えた。
「……メルセデス、だったね。はじめまして。僕の名前はロイス、君の父上の伴侶だ」
「随分変わった方ですのね、あのお父様と添い遂げようだなんて。正気の沙汰じゃありませんわ」
これには神官も苦笑するほかなかった。
「それも、こんな綺麗な方が。なんて綺麗な金の髪、なんて綺麗な緑の瞳。それに、――ええ、いい香り。これは、そう、『王家の血』?」
その問いに神官はこくりとひとつ頷いた。
「けれど今の僕は何も持っていない。王位も、領地も、称号も。あるのはただこの胸に、オドラデクの心臓だけ」
「あら、見えますわ。その胸に、素晴らしく大きな真紅の花」
彼女の唇からこぼれるとその言葉はまるで比喩ではないようで、本当に彼女の瞳にいばらが見えているかのようで。
そうなのだ。
これだけが彼の「本当」なのだ。
胸に咲くいばら、その花は竜を包み城を覆い、そうして今その娘をも、甘い香りで抱きしめる。戸惑うだろう、切ないだろう、それでもあふれる花びらは繰り返し繰り返し、歌うように、笑うように。風に乗り森を越え、きっと遠く離れても。
神官はふわり微笑むと、彼女の額にかかった銀の髪をそっと指の先で梳いた。
「おやすみメルセデス、僕の娘。いい夢を」
健やかな寝息もその寝つきの良さも父娘は本当に良く似ており、神官は思わずくすりと、その口元に笑みを浮かべた。
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